36.貴腐人ローザは陰から愛を見守りたい(1)
暗くなりはじめていた部屋に、ふと明りが灯った。
「寝台の横でじめじめ座り続けるのが看病ってわけじゃないぞ。明りくらい、点けたらどうだ」
溜息とともに現れたのは、美しい金髪を少年のようにすっきり切り揃えた人物、クリスだ。
新しい水差しを片手に現れた彼女の声を聞くと、じっと寝台の主を見つめつづけていた少年――ベルナルドは、のろのろと顔を上げた。
「……殿下」
「その辛気臭い顔を今すぐやめろ。ラドゥも、最終的には、過労で眠っているだけと診断したんだ。僕たちにできるのは、大人しく待つことしかないだろう?」
相変わらず少年のような口調のクリスは――切った髪に合わせて、もう少しこのままでいることを決めたらしい――、顔を顰めて寝台に近付いてくる。
彼女は水差しを手近なテーブルに載せると、自らは椅子を引き寄せて、ベルナルドに並んで腰かけた。
「……おまえ、ひどい顔色だな」
「殿下こそ」
問えば、短い相槌が返る。
どちらの声にも、色濃く疲労が滲んでいた。
アプトの里、いや、王国を揺るがした事件から、すでに二日。
その間、「王子の側近による謀反」の目撃者となってしまった彼らは、レオンやラドゥとともに、事態の収拾に奔走していた。
まずは、犯人であるカミルを捕縛のうえ、取り調べ。
カミル自身が騎士であり、しかも公爵家令息という高貴な身分であったがために、騎士団が尋問を行うわけにもいかず、これは第三者立ち会いのうえ、王子自らが行うこととなった。
その間に、癒力者の一団を引き入れて、クリスが全権を委任される形でアプトの里を調査。
カミルが放った悪しき癒力が、アプトの民を蝕んでいないかをくまなく確認した。
並行してラドゥは、これまですれ違ったままにされていた王妃についての診断を、改めて本人と、癒力者一団に通達。
間にベルナルドが入ることで、これまでの癒術師に対する誤解や非難を丁寧に否定しながら、とうとう、病の真の原因を理解させることに成功。
病を寛解に導いた。
なおこの時にはカミルの取り調べも完了しており、彼は貴族籍を剥奪のうえ、修道院送りに処されることとなった。
王妃の命と属国ひとつを危機に晒しておきながら、かなり軽い罰で済まされた理由としては、ローザの介入によって、結局彼が誰も傷つけずに済んだことにある。
また、意外なことに、命を狙われた王妃自身が、それを望んだからでもあった。
「つまり、癒力の加減を誤ったというわけでしょう? わざわざ処刑する手間も惜しい、愚か者ということですわ」
久々に寝台と別れを告げた彼女は、ようやく取り戻しはじめた美貌を笑ませ、王に告げたという。
「愚図とは関わり合いたくありませんの。遠ざけてもらえれば、それで充分」
結局、選民意識に溺れ、周囲を蔑み排斥したがったカミルこそが、その当の相手から愚図と呼ばれ、追い払われた格好だ。
苛烈で残酷な王妃の言葉を、カミルは黙って受け入れたという。
一方で王は、危機に晒されたアプトの感情を考慮し、犯人を極刑に処さぬ代わりに、アプトに完全なる自治を返還した。
これは、レオン王子の忠言によるものだったが、アプト側はこれを大いに歓迎したという。
結果的に領民がやたら健康にされた挙げ句、属国の軛からも解放してもらえるというのだから、文句などない。
レオンは、これまでの癒術師に対する不当な評価と、今回の騒動に巻き込んだことを、王子として正式に謝罪し、ラドゥもまた、反抗心から謀反の可能性を放置してきたことを詫び、謝罪を受け入れた。
真相を明らかにし、加害者被害者の両方に対処し、すれ違いによる対立を解消し――、たった二日で、今回の騒動はほとんどが解決に向かいつつあった。
たった一つ、アプトの里で気を失ったローザが、未だ目覚めぬことを除いて。
「……ラドゥの見立てでは、今夜には目覚めるはずだ」
「……はい」
二人は言葉少なに、寝台を見つめる。
離宮の一室に用意された上等な寝台の上では、蜂蜜色の髪を広げたローザが、静かな表情で眠っていた。
二日前、ローザが魔力を移植された途端気を失ったとき、周囲はほとんどパニックに陥った。
特に、自分の譲った魔力のせいで倒れたのかと考えたクリスは、真っ青になってローザに取り縋ったし、取り乱したラドゥは、採血に呼吸器に手術準備にと、過剰なほどの用意を始めた。
が、その後到着した癒力者の見立てでは、単に、癒力の使い過ぎによる疲弊が深かったのだろうという。
その言葉を信じ、彼らは大慌てでローザを離宮の一室に運び込んだのである。
そうして、いくらか冷静さを取り戻したラドゥは、改めてローザのことを、「少なくとも今は異常なく、眠っているだけ」と診断した。
以降、こうしてベルナルドを中心としながら、彼らは順に、眠るローザを見舞っているのである。
「……この数時間は、変わらず?」
「はい。……相変わらず、時々魘されています。『許されない』『どうか早く修道院へ』と」
「そうか……」
ベルナルドの説明に、クリスは痛ましい顔つきになって頷く。
ローザのそのような言動は、クリスたちの心に暗い影を落としていた。
「魔力を移植するときに、まさか『殺して』とまで言われるとは思わなかった。ローザは穏やかな微笑みの裏で、……そんなにも人生に絶望していたんだな」
そう。
彼らは、救済を拒むローザの態度と、ありもしない悲惨な過去を結び付けて解釈してしまっていたのである。
「なんだって……? ローザは、虐待に遭っていた……?」
ちなみに、盛大な勘違いの害は、この時点でとうとうラドゥにまで及んでいた。
倒れる直前の、ローザのあまりの取り乱しぶりに違和感を抱いた彼は、昨夜ベルナルドたち四人がローザの見舞いに集まった際に、事情を問うてきたのである。
ローザはかつて、色狂いの父親に煙たがられ、母の亡きあと暗い部屋に閉じ込められて過ごしていたこと。
ろくな食事も出されず、代わりに酒や暴言を浴びせられてきたこと。
にもかかわらず、弱き者に心を砕き、彼らの窮地を見るや、自らを省みずに手を差し伸べてしまうこと。
昏々と眠る本人の横で、事実にかすりもしない悲愴で壮大な「ローザ像」を、ベルナルドは時々激情に声を震わせながら説明した。
「思うに、姉様がここまで慈愛深いのは、自分を慈しむ心が欠けているからなのかもしれません。いえ、かもではない。彼女が『いっそ殺して』と漏らしたあの瞬間、僕は確信しました。彼女は、出家……それどころか、本当は自殺すら望んでいたのだと」
話に聞き入っていたラドゥ、そしてレオンとクリスは、悲痛な面持ちで頷いた。
ローザの精神はむしろそこらの鋼鉄よりタフなのだが、誰もが、その心はガラス細工のように繊細だと信じて疑わなかった。
ベルナルドは、眠るローザに一瞥を向けると、彼女を守れなかった己の不甲斐なさを噛み締めるように、強く拳を握った。
「思えば……姉様はよく、自分のことを薄汚れた人間だと表現していました。彼女があの男に、『性根の腐った女』と罵られているところも実際に見ました。恐らく、幼い頃から何度も何度も、姉様はあの男に、そう刷り込まれてきたのでしょう。それで、……きっと、なにかに役立たないことには、存在も許されない身分なのだと……そう……っ」
「原罪意識……トラウマか。虐待の被害者には珍しくない話だね」
なまじその手の知識にも詳しいラドゥが、そっと誤解の輪を広げてゆく。
ベルナルドは、一回深く呼吸をして興奮を逃したが、それでもなお震えの残る声で続けた。
「駆け寄った瞬間、姉様は『とうさま、どうか認めて』と呟いていたようにも聞こえました。きっと、命を賭してようやく、親の愛を請えると思ったのでしょう。あんな、くだらない男なのに……っ」
「くそ……っ。僕がもっと早く知っていたなら、そんな奴、土魔法で生き埋めにしてやるのに……っ」
「ラングハイム伯は、実の娘に、なんでそんな仕打ちができたんだ」
血を吐くようなベルナルドの告白に、クリスもレオンも、やりきれないというように首を振る。
そのとき、
「…………」
ラドゥだけは、ふとなにかに思い当たったように顔を上げた。
そうして彼は、怪訝そうな視線を向けたレオンになにかを耳打ちし、ローザの検診を済ませると、さっさと部屋を出て行ったのである。
驚きの表情を浮かべたレオンも、それに続いた。
以降、それぞれの残務処理に追われた彼らとは、顔を合わせていない。
最後の不可解なやり取りを思い出したクリスは、この場の空気を切り替えるように、あえて軽く肩を竦めてみせた。
「そう言えば、昨日のラドゥのあれは、なんだったんだろうな。いや、兄上もか。すれ違いが解消した途端、二人はまるで相棒みたいに意思疎通してしまうんだ。驚いたものだと思わないか?」
「……いえ、べつに」
が、食い入るようにローザを見つめるベルナルドは、素っ気ない。
「二人の仲が良くなろうがなるまいが、姉様の容体には関係ありませんから」
頑なな様子に、クリスは唇を歪める。
目を細めて、しばしベルナルドのことを見つめると、彼女はずばりと切り出した。
「おまえ、かわいい顔をしてるけど、実は、性格は全然かわいくないだろ」
「はあ。なにぶん下町育ちなもので」
「それでもって」
冷ややかな返事を遮るように続けると、クリスはその翡翠のような瞳で、真っすぐにベルナルドを射抜いた。
「おまえがローザに抱く気持ちは、姉弟愛なんかじゃないだろ」
「…………」
ベルナルドは、可憐な容貌を剣呑に歪める。
凄みを利かせてくる相手に、クリスはふんと鼻を鳴らした。
「どうせ、おまえもローザに心を救われたくちだろ。惚れこむ気持ちはわかるが、現実は理解したほうがいい。ベルクでは、たとえ半分と言えど、血が繋がった姉弟は結婚できないんだぞ」
「…………」
「おまえがのぼせ上るのは勝手だが、先のない感情に、ローザを巻き込むな。あまりにそうやって、おまえが視野を狭めているようでは――」
「うるせえよ!」
クリスの忠言は、噛みつくような言葉によって遮られた。
「んなこと、誰に言われなくてもわかってる!」
ベルナルドの白く秀麗な頬は、興奮で赤く染まっている。
「……やっぱり、それが素か」
クリスは口元を歪めて笑ったが、不敬を追及することはしなかった。
ぎっとこちらを睨み付けるベルナルドの瞳に、傷心の色を見て取ったからだろう。
二人の間は、針の落ちる音さえ響きそうな沈黙と、緊張が満ちる。
ノックとともに扉が開いたのは、そんな時だった。
「入るぞ」
「ローザの様子は、その後どう?」
まさに噂をしたばかりの、レオンとラドゥである。
レオンは、親友であったカミルの裏切りに、当初こそ衝撃を隠せずにいたが、今では自信にあふれたいつもの姿を取り戻しているし、気分屋であるはずのラドゥも、癒術師として、そして対等な王子の友人として、冷静に振舞っている。
二人の姿を見たベルナルドは背筋を正し、落ち着いた口調を取り戻して答えた。
「見ての通り、ずっと眠っています。時折、眠りが浅くなるのか、苦しそうに譫言を口にしますが……」
「譫言? どんな?」
「『許されない』とか、『早く修道院に行かせてくれ』といったものです」
傍らではクリスが辛そうに眉を寄せる。
「ローザは、アリーナの一件のときから、いずれ出家したいと仄めかしていたもんな……。本当に、なんだってラングハイム伯は、こんな優しい娘に、こうもひどい仕打ちができたんだ」
苦々しく呟くと、それを聞き取ったラドゥとレオンが、ちらりと視線を交わした。
「……それなんだけど」
やがて、ローザの検診を終え、そっと腕を寝台に戻したラドゥが、慎重な声で切り出す。
彼は、ローザがよく眠っているのを確認してから、爆弾発言を投下した。
「ローザはね。どうも、伯爵の実の子どもじゃないみたいなんだ」