35.ローザは聖地を守りたい(3)
「ラドゥ。彼女は――」
「俺たちを助けるために、癒力を揮ってくれた。そして、倒れた」
駆け寄って問うレオンに、ラドゥが短く答える。
彼の手によって横たえられたローザは、辛うじて意識はあるものの、苦しげに目を閉じ、肩で息をしていた。
「……ぁ、…………」
朦朧とした状態で、なにかを呟いているようである。
ラドゥは縋るようにレオンたちを見上げた。
「俺には、魔力のことはわからない。これは単なる疲労!? 凄まじい脈拍に、震え……。普通の人間なら、興奮状態にも見えるけど――これは魔力持ちには、どういう症状なんだ!?」
もちろん魔力持ちにとっても、単なる疲労と興奮である。
(ああ……熱き抱擁を交わす二人が見える……。声を上げて追いかけ合うアプタスたちが見える……。なんということなの、これがわたくしたちの体内で起こっている出来事だなんて。BLは、すでに、わたくしたちの中にあっただなんて……!)
より厳密に言えば、世界の真実を見つけた狂信者の、トランス状態であった。
そのまま素直に気絶できればまだ無害だったものを、なまじラドゥが咄嗟に介助し、完璧な安静姿勢を取らせてしまったがために、ローザは腐的興奮マックスのまま、辛うじて意識を残してしまっていたのだ。
だが、周囲からすれば、今のローザは真っ青な顔で、弱々しく倒れているようにしか見えない。
興奮で潤んだ瞳も、はぁはぁしているだけの吐息も、すべてが痛ましさの記号として機能していた。
(無理……尊すぎる……この尊さが、どうか世界中で認められてほしい……)
ローザはまだ興奮している。
その口からは、「とう、さ……どうか、認めて……」と、一部が譫言となって漏れ出ていたが、それを聞き取ったベルナルドは、はっと息を呑んで眉を寄せた。
「姉様……!」
悲痛な声での呟きに、いよいよラドゥの焦りが募る。
これまで、家族にもベルク人にも冷ややかな距離を置いていたからこそ、常に冷静で的確な医術が揮えていたラドゥ。
逆に言えば、感情的なタイプの彼は、心を許した相手が患者となると、途端にその強みが発揮できなくなるのだ。
むしろ、無駄に医療経験のある彼だからこそ、余計な心配材料が次々と脳裏をよぎった。
「譫妄に意識レベル低下、震え……熱も上がってきた。さっき俺たちを襲った『病』の症状とも一致する……癒力者に癒力は効かないって、ローザはそう言ってたけど……ねえ、それは、絶対的に証明された事実!?」
ラドゥはばっと顔を上げると、周囲に問い質した。
「感染症の場合、それを診察していた医師が、ワクチンを接種していてなお感染することだって稀にあるんだ。ローザが、あいつの放った『病』に罹らないというのは、確実な事実なのか!?」
強い口調で詰め寄られて、レオンたちは怯んだ。
医師に不安になられることほど、人の不安を煽るものはない。
そもそも、大切な存在となりつつある少女が目の前で苦しんでいる姿を前に、彼ら自身すでに相当冷静さを失っていたのである。
不安はさらなる不穏な考えを呼び、一同は次々と思考のどつぼにハマっていった。
「いや……あまりに強力な魔力の場合、相手の魔力を強制的に無効化することができる。俺自身、この場に来るのに、力技でカミルの癒力を撥ね退けてきたくらいだ。逆に言えば、カミルの癒力が、ローザの癒力を打ち破って、体を冒す可能性が無いとは言えない」
自身が膨大な魔力を持つからこそ、余計な可能性を考慮してしまったのは、レオン。
「これだけ広範囲で癒力を揮った直後だ。元々病弱なローザが、相当弱っているのは間違いない。そこに、カミルの放った癒力の残滓が、彼女を襲ったという可能性は……あると思う」
なまじ、以前ローザが気絶するところを見てしまったがために、すっかりローザを病弱と信じ込み、レオンを支持してしまったのは、クリス。
「それに僕たちは、姉様がどうやって癒力を行使したのかを知らない……。もしかしたら姉様は、自ら『病』の一部を引き受けることで、この強力な癒力を発揮した……その可能性だってありえる!」
そして、姉を美化しすぎるあまり、悲劇のシナリオを思いついてしまったのは、ベルナルドである。
彼は顔を歪め、取り繕っていた口調すら忘れて叫んだ。
「俺を庇ったときだって、奴隷たちを庇ったときだって、姉様は自分の身を、平然と差し出してきた……。まるで、自分には生きる価値がないとでも言うみたいに……。そういう……そういう人なんだ……!」
「言われてみれば、アリーナの一件のときだって、そうだった。僕を守るために、ローザはなんの躊躇いもなく、刃物で髪や肌を傷付けて……!」
勘違い爆弾に、クリスがそっと援助着火する。
彼らの中で、ローザはすっかり、「アプトの民を救うために、自ら病を引き受けた慈愛の天使」扱いとなりつつあった。
「俺たちと同じ『病』なんだとしたら、これから一気に病状は悪化するぞ。俺たちの薬では太刀打ちできない深刻さだ。あんたら、誰か癒力は使えないのか!?」
「癒力はどの属性にも当たらない、特殊系統の魔力なんだ。規格外の魔力を持つ兄上を含め、僕たち三人には揮えない」
「癒力者は招集しているが、少なくともあと数十分はかかる。癒力者という点で言えば、丘にカミルを転がしてはいるが――」
「あの野郎に、小麦一粒分でも姉様に魔力を向けさせるもんか!」
焦りと苛立ちの中、議論は混迷を極めた。
『なあ、あの女の子が祈った途端、俺たち、治ったんだよな……? ベルク人だし……間違いなく、魔力を使ったんだよな』
『代わりにあの子が倒れたってのは……魔力のことはよくわからんが、つまり、あの子が身代わりになったってことか?』
『それとも、疲れて弱ったところに、同じ病に罹患したのか……?』
さらにその周囲では、三人とほぼ同様の推理を経たアプトの民たちが、ひそひそと囁き合う。
ベルクに対して恐怖と憎悪を向ける彼らの目から見ても、自己犠牲の末倒れた少女は、いかにも美しく、神々しく映った。
『ラドゥ様。早く彼女を助けてあげてください』
『手術の用意をしますか?』
『ラドゥ様』
医学を信仰する彼らは、医師に対して深い敬意を払う。
人を救うために倒れたとなれば、もはや英雄扱いだ。
よって彼らは、ローザの救護を次々と懇願しはじめたが、善意からなるその空気は、ますますラドゥたちを追い詰めていった。
「くそ……とりあえず、同じ症状が出るんだとしたら、抗炎症剤と、あとは輸血の確保を――」
「待て。俺たちの魔力をローザに移植すれば、カミルの癒力を蹴散らせるはずだ」
そこに、レオンが鋭く声を掛ける。
「仮に罹患していなかったのだとしても、これだけの魔力を揮ったんだ。体は魔力切れを起こしかけているはずだ。とにかく魔力は補填してやったほうがいい」
「たしか、魔力は血のようなものなんでしょ? ってことは、魔力切れなんて、失血状態ってことじゃないか。どうしてそれを先に言わないんだ! 早く移植してよ!」
医学的文脈に置き換えたラドゥは、即座にそれを受け入れた。
もはや、互いが互いを不安に駆り立て合っているような状態だ。
「レオン殿下! 僕からもお願いです。一刻も早く、魔力の移植を!」
かろうじて敬語を取り戻したベルナルドも、かなり冷静さを欠いている。
彼らは素早くローザの身を起こし、レオンが半ば覆いかぶさるようにして、ローザの顔を覗き込んだ。
「ローザ。聞こえるか。俺の目を見てくれ」
「――……」
それまで、ぐったりしながら心地よい妄想の世界に身を委ねていたローザも、魔力を帯びたレオンの声に、ふと我に返る。
「え……っ!?」
そして、至近距離に、魅惑の「攻め」の顔があったことに、ぎょっと肩を揺らした。
「な、なな、なぜ、殿下――」
「すぐに楽にしてやる。体の力を抜いて、俺の目を見ろ」
「な、え!? ちょ……っ」
ローザからすれば、BLの真実を知って恍惚としていた次の瞬間、いきなり、ベルナルドの「旦那」に真顔で囁きかけられている現状だ。
まるで意味がわからない。
「俺の魔力は強大すぎるから、受け入れる瞬間は体に負荷がかかるかもしれない。だが、必要なことなんだ。極力ゆっくりするから、体の力を抜いてくれ」
「え……っ、や」
そんな、まるで、体格の大きな「攻め」が「受け」を抱くときのようなセリフを言われても。
「わ、わたくしに、そんなことをしないで……っ」
宛先違いです! と腰を浮かすと、なぜかラドゥから叱られた。
「なぜ逃げるんだ! 『病』の恐ろしい症状は見ただろ!? 早く処置しなきゃ」
「や、『病』!? え……!? いえ、だってわたくし、病になんか――」
「今も激しく震えているじゃないか! 熱もあったし、それに、さっき癒力を揮う前、一瞬だけど鼻を押さえてた。本当は、粘膜からの出血もすでに始まってたんだろ!? 隠すな! そして、早く王子の魔力を受け入れるんだ」
「えっ!」
どうやら自分は、カミル発の「病」に罹患したと誤解されたあげく、王子に魔力を移植されそうになっているらしい。
ついでに、鼻血をこらえていたことを見抜かれていたらしい。
ラドゥの観察眼の鋭さに驚くべきか、誤解の激しさに慄くべきか、一瞬リアクションを悩む。
そしてその僅かな隙が命取りになった。
「ローザ! 俺の目を見ろ!」
焦れたレオンが、まさかの「クイ顎」を、よりによってローザにかましてきたのである。
(う、嘘……っ! それは、それは、ベルたんに発揮してもらいたかった、「王道俺様攻め」のシチュだったのに!)
憧れのイベントを、まさか自分なんかで消費されてしまったことに、ローザは大ショックを受けた。
「や……っ、やめて――! わ、わたくしは大丈夫ですから!」
掛け値無しの事実を叫んで、強引に腕から逃れようともがくと、今度は、いよいよ焦燥を深めたレオンがぐいとローザの体を床に縫い留めてきた。
「逃げることは許さない! 俺の目を見ろ!」
(「壁バァン!」ならぬ、「床バァン!」んんんんんんっ!?)
まさかのダブルコンボに、ローザは白目を剥くかと思った。
なんということだ、夢にまで見た場面を、二つも自分なんかに消費してしまうなんて――!
「だ、だめ……っ、わたくしなんかに……っ! こんなの許されない――」
そうだ、クリス。
嘘を見抜くという彼女なら、今、ローザが本心から「大丈夫」と叫んでいることを理解してくれるのではないか。
ローザは懸命にのけぞり、藁にもすがる思いで彼女の姿を探したが、次の瞬間、紫の瞳を大きく見開く羽目になった。
「クリス殿下……!」
クリスが、ローザには目もくれず、首の後ろで結わえていた長い金髪を、剣でざっくりと切り落としていたからである。
「な……!」
「兄上、ローザがどうしても瞳に抗うのなら、これをお使いください。髪にはかなりの魔力が籠もる。無理やりにでも巻き付ければ、いくらかは魔力が吸収されるはず。ベルナルド、協力を」
「感謝申し上げます、クリス殿下」
ローザの喘ぐような悲鳴をよそに、ベルナルドは恭しく髪を受け取ると、素早く、かつ強引に手に巻き付けてくる。
成す術もなく魔力を補填されつつある現状に、ローザはとうとう涙ぐみはじめた。
「ク、クリス殿下の、せっかくの……御髪が……っ」
「いいんだ。きっとこれが、おまえが以前言っていた『重要な役目』なんだと、僕にはわかったから」
短くなった金髪を揺らし、きっぱりと言い切るクリスに、ローザは言葉もなくただ首を振った。
違う。
そんなはずがない。
(その御髪は、クリスたんがリバして「攻め」化するときの――人生に一度きりの晴れ舞台に、なにより重要なアイテムだったのにいいいいいいい!)
ローザの一連の症状なんて、単なる興奮。
言ってしまえば、むくつけき男がはぁはぁして前かがみになるのと同じだ。
そんなくだらない窮地を救うために、ここで髪を切ってしまうなんて。
しかも、クリスは、ふっと笑って、こう告げてみせるではないか。
「僕は君に救われた。――今度は、僕が君を守る」
(それ、ベルたんに言ってほしかったやつぅうううううううう!)
あんまりだ。
なんだって究極のシチュエーションが、次から次へと自分で無駄打ちされていくのだ。
どうしたって感動は一度きり。
後からベルナルドに同じ行為が捧げられたとしても、それはもう二番煎じでしかないのに――!
パニックに陥ったローザが、
「いやっ、いや……っ! わたくしなんかのために、そんなことをしないで……!」
と、怯えた子どものように、手に絡んだ髪の束を取ろうともがくと、ベルナルドがそれを阻止するように、ぐっとその両手を握りしめてきた。
「姉様、受け入れて」
声は掠れている。
熱っぽくこちらを見つめる、その強い眼差しに、ローザは嫌な予感を覚えた。
まさか。
「絶対に姉様を失うわけにはいかないんだ。これだけ心を開かせておいて、勝手に僕を置いていくなんて許さない。だって――」
その声が、かつての自分の妄想と完全に一致する。
ぎゅっと握りしめた手は、小刻みに震えていた。
失うかもしれない恐怖と戦いながら、それでも相手を求めずにはいられない。
彼は勇気を振り絞り、投げやりな態度を捨てて縋り付く。
そして叫ぶのだ、
「あなたが僕に愛を教えた……っ!」
(んアぁああああああああ――!)
言っちゃった――!
ローザは真っ白な灰になった。
夢見ていたシチュエーションがすべて回収されてしまい、人生の希望が砕け散ってゆく。
ショックに見開かれた瞳から、はらりと涙の粒が零れた。
「だめ……だめよ……なぜ、わたくしなの……こんな薄汚れた、わたくしに……」
なんで自分なのだ。
せめて、ほかのイケメンに向けてくれれば、いくらか救われたのに。
性根の腐りきった女の前かがみ的症状を治すためだけに、きらきらしいシチュをすべてふいにしてしまうなんて。
もうダメだ。絶望しかない。
と、にわかに、髪の巻かれた手が熱くなってきた。
衝撃のあまり、拒絶態勢を解いた体に、一気に魔力が流れ込んできたのだ。
だが、レオンでなくとも十分強大なクリスの魔力は、ぼろぼろに疲弊し、絶望したローザの心身に、むしろ負荷ばかりを与えた。
心臓が軋む。
視界が明滅する。
強制終了に慣れた意識が、「この絶望に耐えられない、早く気絶させてくれ」と叫びを上げた。
それはそうだ。推しがいるのに萌えもできないなど、生き地獄でしかない――。
「いっそ、殺して……」
ぽつりと漏れた呟きに、周囲がはっと息を呑む。
仲良しか、と突っ込みたくなるくらいの息の揃いぶりだった。
(いや、あなたたちそれだけ仲良くなったのなら、そういうのをもっと前面に出してほしかったんですけど……!)
心の内で恨みがましく呟いて、それを最後に――とうとうローザは、ふうっと意識を失った。




