34.ローザは聖地を守りたい(2)
ラドゥは頷くと、すぐに話しはじめた。
「症状としては、一見、敗血症にも似ている。全身の炎症と発熱、個人差はあるけど嘔吐。ただ、敗血症の場合には、血小板が凝固して血が固まることがあるのに、今回は血が固まらず、むしろ粘膜からの出血が続いている。これは恐らく、免疫の一員である組織球が強制的に活性化されすぎて、異常をきたしているからだと思う」
「『ファズの暴走』……」
ローザはぐっと拳を握った。
(つまり、最愛の仲間を失って闇堕ちしたファズ様が、業火に囲まれながら暴走する例の一幕……)
脳裏ではすかさず、例の祈祷画を引っ張り出す。
アプト語や専門用語が入り混じる説明であっても、こうすれば一気に理解が容易になるのだ。
ちなみに、組織球と血小板のキャストはもちろん、前回に引き続きラドゥとベルナルドである。
祈祷画を引き合いに、すんなり理解を示してみせたローザに、ラドゥは内心で感嘆しつつ続けた。
「そう。組織球は強力に外敵を殲滅する力を持ち、血小板は血を凝固させて出血を止める役割がある。それらは本来仲間だ。しかし、ファズが異様に活性化された結果、外敵を捕食する力が暴走し、身内である血小板――血を止める役割を持つ細胞を、食い殺してしまっている」
「え……っ」
ローザの目が見開かれる。
脳内劇場でラドゥがベルナルドを惨殺しはじめ、慌てて上映を差し止めた。
喧嘩ップルは好物だが、さすがにカニバリズムは許容できない。
(やはりこの事態はなんとしても食い止めなくては……! ……あ、でも、性的な意味で「頂いてしまう」ということなら、全然問題ない……というか、むしろ大歓迎の展開……いえいえダメよローザ、それはつまり病状を肯定してしまうということに……あくまで全年齢で……)
額に手を押し当て、ローザは宙を見据えて真剣に考え始めた。
「なにがファズを異常に活性化させているのかはわからない。魔力が、というのが答えなんだろうけど、魔力が何にどうやって作用しているか、その具体が、俺たちではわからない。ただ、どうにかして全身の炎症と、血球貪食を抑え込みたい」
「……大丈夫。多少効率は落ちますが、経過を指定しきれずとも、得たい結果を明確に定義できれば、魔力は揮えますわ」
思考リソースをだいぶ妄想のほうに持っていかれつつも、辛うじて答える。
そう、すべてのメカニズムを明らかにせずとも揮えてしまう、この大雑把さこそが魔力の強みなのだ。
ただ、定義を明確にすればするほど、もちろん威力は上がる。
だからこそ、こうした情報が重要なのである。
「ほかに、なにか情報はありますか? なんでもいいのです、お教えください。わたくしがより緻密な癒力を紡げるように」
たとえばファズやミニアルの外見的特徴とか。
趣味嗜好とか。好きなシチュエーションとか。
そうした情報があれば、妄想は一気に着火・爆発するのだが。
ローザは彼女なりに真剣に問うたが、ラドゥはもちろん、真っ当な答えを寄越した。
「ああ――そうだな、炎症は、ファズが伝達物質を感知することで引き起こされる。本来、炎症それ自体は、病原菌を殺すための正しい防御反応なんだ。つまり、伝達物質というのは、敵襲に備えよという、警笛のようなもの。今、俺たちの体内では、それが魔力によって過剰に分泌されているのかもしれない。それを抑え込めれば、あるいは……」
「なるほど……」
思ったのと違ったが、ローザはそれをも織り込み、深々と頷いた。
(落ち着くのよ、ローザ。あらゆる情報を織り込んで、点在するそれらを、想像の線で結んでゆく……。世界を物語として捉えて、心を乗せて魔力を揮うの。絶対にできるわ)
たとえば目の前にペンとインク壺があったとき。
ローザはそこから、「ペンは先が尖っているから、ツンとした性格のスマートな『攻め』。インク壺は机上でペンを待ち受けているから、おっとりタイプの『受け』。ペンは文字を紡ぐ花形で、文房具界のエリートだから、日頃はインク壺を従えているけど、インク壺の補助なしには働けなくなってしまうから、本当はインク壺優位。インク壺の蓋が固いとそれだけで取り乱しちゃったりするの……ッ」くらいのことは二秒で想像できる、妄想有段者だ。
その鍛えられた擬人化妄想力を、今ここで活かさぬ手はない。
「…………」
ローザはすぅ、と息を吸い、吐いた。
魔力を練りながら、それを揮うべき対象――アプトの民の体内で起こっていることについて、強く思い描いてゆく。
(ファズは……きっと、随一の武技を誇る、守り手の精鋭にして、目つきの鋭いイケメン。周囲には怖がられているけれど、愛らしいミニアルには頼られ、ファズも心を許している。そんなある日、世界に物々しい警笛が鳴り響き、ファズは愛する者を守るため、即座に立ち上がる。けれど、その警笛こそが敵の罠。あまりに凄まじい音量の警笛は、ファズの覚醒促進を越え、理性を奪い去ってしまう……)
本来、ファズの戦闘意欲を引き出すはずだったその警笛は、度を越したことにより、彼を血に狂った戦士に変えてしまったのだ。
鳴りやまぬ警笛。
耳を貫き、脳の奥を痺れさせる、悪魔の音色。
彼は狂った本能の命じるままに、炎の魔力をぶつけ続ける。
燃える大地。
怯えるほかのアプタス。
(猛り狂ったファズの牙は、とうとう仲間へと向かう。一番無力で、一番愛しかったはずの、ミニアルへ。襲い掛かるファズ。驚愕に固まったまま動けないミニアル……けれど)
ローザはぐっと口を引き結び、重ね合わせた両手を宙に掲げた。
ここからが正念場だ。
(けれど、ミニアルはそこで、口を引き結び、真っすぐにファズを見つめ返す! なぜなら、彼こそは世界最強の「受け」だから!)
脳内劇場では、ベルナルド演ずる血小板が、毅然とした態度ですっと両手を掲げていた。
喉笛を食いちぎろうとするラドゥ、もとい組織球を、受け入れるためだ。
白く細い喉に、獰猛な牙を食いこませながらも、小柄なミニアルはこう告げるのだ。
――落ち着いて。大丈夫……怖くないよ。
血飛沫にまみれ、正気を失っていたファズの瞳が、大きく見開かれる。
ぴたりと動きを止めた相手を、ミニアルは背伸びするようにして強く抱きしめるのだ。
――敵はいない。警笛は嘘だったんだ。お願い、鎮まって。
そうして、二人にだけわかる独特の口調で、彼に笑いかけるのだ。
――この、けだものさん。
(エモぉおおおおおおおお!)
ローザは内心で雄叫びを上げた。
可憐でありながら大胆さと小悪魔要素を持つ役者の魅力をぞんぶんに活かしたこのエピソード。
そして、二人が既に深い仲であることを匂わすこのセリフはどうだ。
『…………! 光が……!』
ローザの重ね合わせた両手からは、洪水のように光が溢れだしている。
ラドゥはその神秘的な紫色の光に息を呑んだが、その実態は、ただの全開になった腐力であった。
今、脳内で紡がれているイメージの通りに、ローザは組織球を宥め、傷付いた血小板を修復しようとしているのだ。
(獣と化していたファズの瞳が、牙が、みるみる元の姿に戻ってゆく! 微笑んで見守るミニアル、いえ、アルたん! その可愛ゆさに、炎はすっかり収まり、大地に緑が戻り出す。やがて我に返ったファズは、相手の首に震える指を伸ばすのよ! 己の牙を突き立てた、血を流す首へと! はい、この流血はずばり破瓜の比喩!)
いつのまにか獣化設定まで加わっていたが、もうローザは絶好調だ。
それはつまり、興奮しすぎて青褪めているということで、傍からは、壮絶な負荷に堪えながら癒力を揮っているようにしか見えなかったが、少なくとも本人は恍惚状態だった。
(青褪めるファズ! けれど首を振るアルたん! 大丈夫、彼がひとたび祈れば、たちどころに傷は塞がり、すべての被害は修復されるのだから! これぞ世界の強制力! 強引にでもハッピーエンドに、……わたくしが持っていく……!)
ローザはぎゅっと目を瞑った。
「世界よ……修復せよ!」
それは彼女にとって初めての、そして渾身の、詠唱だった。
叫んだ途端、建物の中にごうっと風が轟き、それは光を伴って扉までを吹き抜けると、里全体に広がっていく。
光を浴びた人々は咄嗟に顔を庇い、次の瞬間には、驚きに目を見開いた。
あれほどの苦しみが、すっかりなくなっている。
『嘘だろ……?』
ラドゥは呆然として、己の手を見つめた。
熱は――測るまでもなく、下がっている。
脈も一気に落ち着いた。
全身の痺れるような痛みも、嘔吐感も、すべて風が吹き飛ばしたかのようになくなっている。
つい先ほどまで、だらだらと粘膜から流血していた患者の血が、止まっていた。
建物の中で蹲っていた人々すべてが、驚きながら身を起こしている。
その顔は、健常な血色を取り戻していた。
『治った……』
まるで、奇跡だ。
ラドゥははっとして、隣に座すローザを振り返った。
彼女はそのほっそりとした背中を折り曲げ、固く目を瞑ったまま、未だ両手を宙に掲げている。
幼い美貌は、今や苦しげに歪められ、唇からは荒い息が漏れていた。
陽光を思わせる金髪は、びっしょりと汗で額に張り付いている。
「く……っ、ぅ」
漏れ出る呟きは、凄まじい重圧に耐えているかのようだった。
(愛を確かめ合った二人に、炎で荒らされた世界なんて似合わない。彼らに必要なのは、豊かな大地に薔薇が咲き乱れる、光溢れる光景よ……っ)
そして、そんな佇まいの内側で、ローザはひたすら、エンディングの演出に腐心していた。
(ひび割れた大地は滑らかに縫い合わされ、その上を澄んだ川が流れてゆく。青い空の下、仲間のアプタスたちは一斉に若々しい歓声を上げ、はにかみ抱き合う二人に祝福を投げかける……っ)
『あれ……? なんだか俺、肌荒れまでよくなってきたような……』
『ああ、俺も、前より血行がよくなった気がするぞ!』
『体が軽いわ! 若返ったみたい!』
院内に押し寄せた人々が、驚きの声を上げて己の体を見下ろす。
ラドゥは慌てて、ローザの肩を揺さぶった。
「ローザ! もう十分だ、もういい!」
だが、精神を統一しすぎたローザは、それに気付かなかった。
(咲き乱れる薔薇の芳香……っ、照れたように見つめ合う二人! ああ、雲雀よ歌え、福音を告げよ! 今こそ二人のイケメンが、熱きベーゼを交わすとき……! ふぐぅ!!)
「ローザ……!」
肝心のキスシーンを前に、しかしとうとう体が負荷に耐え切れず、ぐらりと倒れる。
それを、素早く手を伸ばしたラドゥに抱き留められた。
『ローザ! ローザ……!』
彼は、先ほどローザが身を挺して祈祷画を守ったときよりも、さらに取り乱している。
それは、躊躇いもなく身を捧げ、アプトを救ってみせたこの美しい少女に、ラドゥがそれだけ心を囚われているからだった。
『くそっ、しっかり、ローザ――!』
「姉様!」
「ここか!」
時を同じくして、切羽詰まった叫び声を上げながら、次々と人物が飛び込んでくる。
もちろん、里に下りたローザを心配し、追いかけてきたベルナルドたちである。
カミルが広めた恐ろしい「病」を聞き出した彼らは、王宮に癒力者の援軍を要請したり、レオンの規格外の魔力で防御壁を体にまとわせたり、カミルを逃走せぬよう拘束したり、と、様々な対処をしたうえでこの場に来たので、これだけ時間が掛かってしまった。
そうして、ラドゥの腕の中でぐったりと倒れているローザを見つけて、一斉に息を呑んだ。
先ほど建物を中心に里中に炸裂した美しい光、驚きどよめいている大勢の人々、そして奥でぐったりと倒れているローザ。
なにが起こったかは、すぐにわかった。