30.ローザは萌え画を守りたい(5)
一方、図書室に残されたベルナルド、レオン、クリスの三人は、侍女を帰したうえで、散らばった祈祷画や書物を片付けていた。
とはいえ、それもすぐに終わり、気づまりな沈黙が訪れる。
ややあって、ベルナルドが硬い声で切り出した。
「――あの、王女殿下」
彼は、胸を押さえ、どこか落ち着かない様子であった。
「先ほどカミル様には窘められましたが……姉が心配なのです。男性の医療室立入を控えるべきということなら、やはり王女殿下に、様子を見に行ってもらうことはできませんか」
「ああ。実は、僕もそれを考えていた」
クリスは即座に頷く。
過保護な二人に、これまでのレオンだったら呆れて肩でも竦めていただろうが、意外にも、彼は黙って一瞥をくれるだけだった。
己の炎のせいで傷付けてしまったローザのことが、彼としても気に掛かっていたのである。
これまで、レオンはローザに対し、得体の知れない印象を抱いていた。
見かけこそ可憐だが、中身はどろりと邪な感情を抱いているように思えて、本能的な警戒心を抱いていたのだ。
だが、そんな彼女でも、血を流して倒れている姿を見たときは大いに気を揉んだし、目覚めた直後の怯えぶりには、男として手を差し伸べずにはいられないような痛々しさがあった。
その後の、火傷も厭わず祈祷画を守る様子や、祈祷画の意味を見抜いた聡明さも相まって、今では、自分の見立てが間違っていたのではないか、という考えに心が傾きつつあるのである。
とはいえ、女性の診察現場に踏み入っていくのは、礼を失しているようにも思われる。
レオンが難色を示しているのを見て取ると、ベルナルドが意を決したように口を開いた。
「過保護だし、マナー違反に思われますよね。ですが、それでも僕は、姉の傍にいたいのです。なぜなら……姉は、男を怖がっている節があるからです。よりにもよって、実の父親から加えられた虐待のせいで」
「なんだと?」
告げられた内容に、レオンは目を見開いた。
虐待。
どうにも穏やかでないし、「薔薇の天使」とまで持て囃される少女に、そんな陰惨な実情があったのだとは、俄かに信じられない。
「ローザ本人から聞かされたのか? 悪いが、『こんな被害を受けた』と大げさに嘆いて周囲に触れ込むのは、年頃の自意識過剰な娘がよく取る手段だぞ」
慎重を期してレオンが指摘すると、ベルナルドは厳しい顔で首を横に振った。
「いえ、姉はそうした内容をけっして周囲に語ろうとはしません。むしろ、あの傍から見ても邪悪な父親を慕い、庇っているくらいなのです。ですが、僕は虐待の事実を古参の使用人から聞かされました」
ベルナルドは、そこで怒りを堪えるように拳を握り、視線を落とした。
「なんでも姉は、不仲だった母親に似ているということで父親から疎まれ、幼い頃から暗い部屋に押し込められ、満足な食事も与えられなかったそうです。一時期は、酔っぱらった父親に書斎に呼び出され、折檻を受けていたとも聞きます。実際僕は、姉が父親に酒と暴言を浴びせられる場面に遭遇しました」
「なんてことだ……」
いよいよ信憑性を増した話に、レオンは顔を強張らせた。
では、ローザは本当に虐待に遭って――男に怯えているというのか。
そう思うと、これまで拭えずにいた、ローザに対する警戒心の最後のひとかけらが、みるみる溶けてしまうような心地を覚えた。
代わりにその空間を埋めたのは、息苦しくなるほどの同情心と、罪悪感であった。
彼女は、計算高く強かな少女などではなく、単に思慮深く芯の強い少女だった。
時折見せる妙な凝視、そして得も言われぬ負の気配は、邪な感情によるものなどではなく、恐怖や緊張によるものだったのだろう。
そのような目に遭っていながら、民の暮らしに心を砕き、異母弟を慈しむというのは、いったいなんという高潔さ、そして慈愛深さだろう。
(だというのに、俺はありもしない邪な本性を見抜いた気になって、勝手に彼女を見下していたというのか……)
レオンは焼けるような羞恥を覚え、己の頬を殴ってやりたくなった。
いえいえ、あなたの見立てでほぼ合っていましたよ、と言える人間は、残念ながらこの場にいなかった。
「たしかにそれなら、いくらカミルが誠実な男とはいえ、ローザは不安がるだろうな。結局、彼女に危害を加えた人間が誰なのかも、はっきりしていないことだし――」
「それなのですが、兄上」
とそこに、クリスが言葉を遮るようにして口を開いた。
「……兄上に、お伝えしておきたいことがあるのです」
「なんだ?」
「その、……確たる話ではないうえに、兄上には不快な内容だとは思うのですが……」
珍しく歯切れが悪い。
レオンが視線で促すと、クリスは思い切ったように顔を上げた。
「僕は、むしろカミルに違和感を抱いているのです」
「なんだと……?」
思いもかけぬ発言に、レオンは無意識に眉を寄せる。
険しい表情に、クリスは少し怯んだようだったが、やがて唇を湿らせると再び続けた。
「僕には、誠実を好む土属性の影響で、偽りを感じ取る力があります。これまで多くの話し相手を退けてきたのは、彼女たちの欺瞞を体が受け付けなかったから。どれだけ美しく善い言葉を聞いても、それが偽りであると、肌がざわつくのです。隠されているものが、邪悪であればあるほどです。そして先ほど、カミルがローザを『ちゃんと守る』と言ったときも、同じ、嫌な感じを受けました」
レオンは静かに耳を傾けていたが、カミルの名前が出ると顔を顰めた。
「いったい、なにを言うんだ。あのカミルだぞ。おまえの能力を疑うわけではないが、ローザへの敵意ではなく、ラドゥへの職務的な苛立ちを察知したのではないか?」
たしかに、クリスの感知能力は、けっして精密なわけではない。
先程の不快感だって、発言のどこかほかの部分に反応した可能性もある。
「あいつは小言こそ多いが、出戻った俺を反発することもなく受け入れ、好き勝手に養子縁組を放棄した王妃のことすら、甲斐甲斐しく看病する男だ。だいたい、あいつがローザに敵意を抱く理由なんて――」
「それは違います」
だが、レオンの滑らかな主張を、クリスは上ずった口調で遮った。
「それは違います、兄上」
彼女は、その翡翠色の瞳を興奮できらめかせ、頬を赤く染めて告げた。
「あなたが想像している以上に、僕たちは傷付いたんだ」
声を震わせる感情の正体は、怒りだった。
あまりに真っすぐな視線に、レオンが言葉を失う。
クリスは拳を握った。
「僕も、カミルも……もうずっと何年も、後継者の座をちらつかされて、それに向かって努力を重ねてきた。兄上に心苦しく思いながらも、周囲の期待に応えたくて、……母上の期待が恐ろしいながらも甘美で、ずっと、ずっと、一心にそれを目指してきた」
期待に押しつぶされそうになることもあった。
己の容量を超える鍛錬を自らに課し、倒れたことだって。
自由のない身分も、苦痛も、すべて期待と引き換えに受け入れた。
なのに、と、クリスはまなじりを吊り上げた。
「あなたが戻ってきたことで、我々のその努力のすべては、無駄になってしまった。より強い者が王になる――頭では理解しても、ある日突然用無しの烙印を押され、あらゆる関心を引き上げられてしまう、その恐ろしさが……厭わしさが、兄上にわかりますか!?」
声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「舌は簡単に嘘をつく。僕は誰よりそれを知っている。どれだけ平然と見えても、内側ではどんな憎悪をたぎらせているかなんて、本人にしかわからない! 少なくとも僕は、押し付けられる王女像を叩き壊さずにはいられなかった」
クリスはそこで一度息を吐き出すと、射抜くようにレオンを見つめた。
「僕がカミルなら、……僕より賢くて、しかも僕より手ひどく母上に捨てられたカミルなら、笑みを浮かべて、兄上や母上に復讐を企むくらいは、きっとする。例えば、――アプトの癒術師と兄上を仲違いさせて、母上の回復を遅らせようであるとか」
一気に核心に踏み込んだ発言に、レオンもベルナルドも息を呑む。
その言葉だけで、クリスがなにを警戒しているかを理解するほどには、彼らは聡明であった。
「姉様が、癒術師の真意を明らかにした……つまり、……仲違いさせる企みを、妨げてしまった……?」
ベルナルドがぽつりと呟く。
クリスは明言を避けたが、否定はしなかった。
「……おいおい。いくらなんでも、たった一度敵意を感じ取ったくらいで――」
カミルを信頼しているレオンは、緩く首を振りながら反論を口にしたが、しかし、言葉は途切れてしまった。
先ほどのラドゥとのやり取りで、確かに齟齬があったことを、思い出したからだ。
「…………」
ラドゥの意図を追及しようとしたタイミングで、ローザの手当てを優先すべきだと申し出たのも、カミルだった。
なにかにつけ、ラドゥが怠惰で信用ならぬ人間であると発言し、そう印象付けたのも。
(……落ち着け。俺は、ずっと信頼してきた人間のことを、こんな簡単なことで疑うような人間なのか?)
レオンは、自分を落ち着けようと額に手を当てる。
だが、その傍から次々と、クリスの仮説と符合するような事実に気付いてしまった。
癒力者として、王妃の治療に深くかかわっていたカミル。
赴任したばかりでベルク語が覚束なかったラドゥと、癒力者集団の間に入って、通訳を請け負ったのも彼だった。
そもそも、王妃が体調を崩したのはいつからだったか。
三年前、レオンが帰国して間もない頃だ。
つまりそれは同時に――、カミルが帝国の後継者となる機会を奪われて、間もない頃。
ふと、本棚に戻したばかりの、ファズ・アプタスの祈祷画が脳裏によみがえる。
自己免疫の異常。過剰に力を得た免疫構造が、体中に異常を引き起こす。
そしてそれは、癒術師の「領域ではない」。
もし原因が――癒力の重ね掛けだったのだとしたら?
すぅ、と、心臓に冷たい水が流れるような心地を覚える。
レオンの傍らでは、同じく青褪めたベルナルドが、低く呟いていた。
「『許して』……『アプタンが燃える』……もしや、姉様……」
彼の頭には、顔を強張らせながらも、「一人で医療室に向かいたい」と告げたローザの姿があった。
もし彼女が、カミルの企みをいち早く察知していたのだとしたら。
ベルナルドを巻き込むことなく、一人でカミルに対峙し、そうして、なんらかの危機に巻き込まれようとしているのなら。
「…………っ」
気付けば、ベルナルドは図書室の扉を蹴る勢いで、廊下に飛び出していた。
レオンも、クリスも、すぐにそれに続く。
考えすぎの可能性は、もちろんある。
むしろ、その可能性のほうが高い――いや、高くあってほしい。
それでも、三人は言い知れぬ焦燥感に胸を搔き乱されながら、廊下を走り抜けた。
逸る心臓を抑え、乱暴に医療室の扉をノックする。
応えはない。
三人はますます顔を強張らせて、とうとう扉を強引に押し開けた。
そして――
「…………!」
窓辺のカーテンがふわりと揺れるだけの、無人の医療室。
その素っ気ない石づくりの床に、わずかな移動陣の痕跡が残るのを認めて、揃って顔色を失ったのである。