26.ローザは萌え画を守りたい(1)
声の聞こえた方角や状況から、すぐに図書館奥の小部屋へとたどり着いたベルナルドたちは、狼狽えるだけの司書を視線一つで黙らせ、扉に手を掛けた。
「――……!」
そして、狭い通路のある場所に目を留めた瞬間、一斉に青褪めた。
そこには、繊細な美貌から血の気を引かせ、ぐったりと横たわるローザの姿があったのだから。
「くそ――っ! 姉様……!」
緊急事態に、ベルナルドがつい口調を乱して駆け寄る。
震える手で抱き起こすと、はらりと金髪が肩を滑り、血を滲ませたこめかみが露わになった。
「この傷は……!?」
青褪めたベルナルドが叫ぶと、一同は一瞬だけ押し黙り、視線を交わす。
「……たぶん、何者かに殴られたか、突き飛ばされたんだろう」
押し殺した声で、クリスが遠回しに示唆したが、その場にいた誰もが、脳裏に同じ人物を思い描いていることは確かだった。
ベルクに悪意を抱く癒術師――ラドゥ・アル・アプタン。
「レオン様。ただいま司書に確認しましたところ、ローザ嬢が入室したタイミングは定かではないものの、……この部屋には、彼女とラドゥ・アル・アプタン以外に、入室した者はいないそうです」
と、有能な従者らしく、すでに司書への聞き取りを済ませたカミルが、レオンたちに追いついてきて付け加える。
「となると、やはり……」
アプトの資料を集めたこの部屋で、ラドゥの入室が確認されていて、しかも、ちょうど彼の悪行について話していたこのタイミング。
ローザの奇行による自爆は、すっかり異国の民による攻撃として、一同に解釈されてしまった。
「くそっ。カミル、ローザにおまえの癒力は――」
「体質的に、効きは相当悪いかと……。申し訳ございません」
「なら、手当は奴に頼むしかないということか」
レオンが苛立たしげに呟く。
彼はぎらりと金色の瞳を細めると、カミルに命じた。
「ラドゥ・アル・アプタンをこの場に連れて来い。ローザの手当てと――話し合いのためにな」
「はい」
「僕は、癒術師が捕まらなかったときに備えて、念のため、手当の心得のある侍女を連れてくる!」
カミルが素早く頷く横では、使命感に燃えたクリスが申し出る。
レオンは二人を見送ると、険しい顔でローザに向き直った。
これまで、ラドゥの境遇への同情もあり鷹揚に構えていたレオンだったが、だからこそ、自分が一線と定めたそれを越えた相手に、激しい怒りを覚えたのである。
また、金髪を床に広げて倒れ込んでいた少女は、あまりに無力で痛々しかった。
それが、強いリーダーシップと同じだけ、強い庇護欲を持ち合わせているレオンの逆鱗に触れようとしていた。
「姉様。姉様! しっかりしてください。僕の声が聞こえますか?」
ローザは、駆け寄ったベルナルドによって身を起こされている。
弟の悲愴な声が届いたのか、金色の長い睫毛が、ふるりと震えた。
「ぅ……、アプたん……萌え……」
未だ意識は夢の中なのか、小さく首を振ってなにかを呟いている。
(アプトの里が、燃える……?)
意味を捉え損ね、眉を寄せたベルナルドの前で、美貌の姉は、とうとう潤んだ紫の瞳を開いた。
「――……? わたくし……」
ぼんやりと視線をさまよわせ、ベルナルドの姿を捉える。
彼女は目を見開き、さらに自分が半身を抱きしめられていることに気付くと、体を強張らせ、小刻みに震え出した。
「あ……っ、あ、あ」
「姉様――」
「ご、ごめんなさい!」
彼女は身を縮こませて、かすれた声で詫びを告げる。
絶句したベルナルドの視線を避けるように、彼女は上ずった口調で謝り続けた。
「汚らわしくてごめんなさい。性根が腐っていてごめんなさい。わたくしのようなのが家族でごめんなさい、ど、どうか、見捨てないで……」
うっすらと涙まで浮かべ、彼女が錯乱しているのが窺える。
うわごとのように謝る姿を見て、ベルナルドは冷水を浴びせられた心地を覚えた。
(まさか、虐待に遭ったときのことを思い出して……!?)
保護してやっているベルナルドに対して、ローザが申し訳なく思うはずがない以上、彼女が見捨てられたくない家族とは、父親のことに決まっている。
実際ベルナルドは、伯爵が「性根の腐った女め」とローザに酒を浴びせる場面すら目撃したのだ。彼女がこうして、たびたび残酷な攻撃に晒されていたことは、間違いないだろう。
そのときの恐怖を、今こうやって負傷したことで、思い出してしまったのだ。
「どういうことだ……?」
背後では、ローザのあまりの取り乱しように、レオンが怪訝そうに眉を寄せている。
ベルナルドは、それに応える余裕すらなく、強く姉を抱きしめた。
「くそ……っ。許さない……!」
「ひっ」
憎悪の呟きは、もちろんラングハイム伯爵や、彼女を傷付けたと思しきラドゥに向けたものだ。
だが、その苛烈さに怯えたのだろう、ローザがびくりと肩を揺らしたので、ベルナルドは猛省し、腕の力を緩めた。
傷付いた彼女の前で、負の感情を見せるべきではなかった。
「姉様、もう大丈夫です。誰もあなたを傷付けません。ここは、王宮図書館の特殊資料室。ご自分の状況が、わかりますか?」
そっと、ローザが好む優しい声で囁きかける。
すると、彼女は徐々に怯えた態度を落ち着けて、おずおずとベルナルドを見つめた。
「ええ、と……?」
ローザは困惑していた。
(待って待って待って待って。今これってどういう状況?)
つい先ほどまで、ローザは薔薇色の夢の中にいたのだ。
そこでは、アプタス――いや、アプたんたちが、萌え萌えしい言動で男たちの友情や愛を謳っていた。
からの、目を開けた途端ベルナルド登場である。
しかも、言い逃れは許さないとばかりに、強く身を拘束されている。
祈り虚しく、またも腐った現場をばっちりベルナルドに目撃されてしまったのだと悟り、謝りまくったが、彼は許さないと言う。
かなり立腹しているようだ。
(けれど、怯えまくったわたくしを見て、ここが王宮図書室――公の場だと思い至ったのか、ひとまずこの場での断罪は見送ることにしてくれた。……という理解で、オーケーかしら?)
まったくオーケーではない。
だが、それが貴腐人ローザに理解できる精いっぱいであった。
言い訳させてもらえるならば、絶対に嫌われたくない推しに腐現場を目撃されて、あまつさえすべすべボディで抱きしめられて、思考能力が爆殺されているのだ。
ローザは無意識にベルナルドの細腰をさわさわと撫でかけて、救いようのない己の思考回路と行動に絶望した。
もうダメだ。
「姉様。大丈夫ですか?」
「頭が……大丈夫でないみたい……」
ぼそぼそと答えると、ベルナルドが顔を強張らせる。
「――で、その傷を、俺が負わせたって?」
皮肉気な声が降ってきたのは、その時だった。
見れば、いつの間にか扉口には、今日も異国の衣装に身を包んだラドゥが、行儀悪く背を預けて立っている。
見事癒術師の連行に成功したらしいカミルが、
「断定はしていません。手当ののち、事情を聞かせてくれと言っているだけです」
と眉を寄せたが、ラドゥは「はっ」と一笑するだけだった。
「聞かせてくれ? よく言う。すでに何度も、アプトの誠意に耳を塞いでみせたくせに。どうせ今回だって、俺がその子を殴ったか突き飛ばしたっていう筋書きで固まってるんでしょ?」
鳶色の瞳には、隠しようのない敵意が滲む。
彼は、先ほど見せてくれた、愉快そうな目つきなど忘れてしまったように、底冷えするような一瞥をローザに向けた。
「あんた、可愛い顔して、あざとい手を使うじゃない。お目当てはレオン王子?」
吐き捨てるような口調に、一同が顔を顰める。
なにやらとんでもない誤解をされようとしていると察したローザは、慌てて身を起こした。
「い、いえあの……誤解です! わたくしは、ラドゥ様に殴られてなんか――」
「姉様。そこの癒術師に怯える必要なんてありません。庇う必要もね」
だが、それは、同じく冷え冷えとした声のベルナルドによって遮られてしまった。
「姉様、下手な嘘は付かない方がいいですよ。殴られもしないで、どうして頭に傷をこさえることになるんです?」
「だ、だからそれは、その、興奮のあまり、わたくしが自分で棚に頭を打ち付けて――」
「そういうところが、嘘が下手だと言うんです。難解な民俗資料に興奮して、あまつさえ気絶するほど自傷する人間なんて、いるわけないでしょう!?」
汚れのない瞳で真っすぐに断じられて、ローザは頭を抱えそうになった。
ここにいるのだ。
「で、でも……っ、本当に――」
「もう、姉様は少し黙っていてください」
ベルナルドはきっぱりと言い渡す。
彼には、ローザが襲われたという確信があった。
もし本当に自分のうっかりで気絶しただけなら、目覚めた時、あんなに怯える必要はないからだ。
暴言か、暴力か――恐らくは、過去の恐怖を引き戻すような何か。それが、昏倒直前の彼女を襲っていたはず。
ローザが必死になってラドゥを庇えば庇うほど、彼女が父親との一件を重ねて、被害を隠そうとしているのではないかと、ベルナルドは疑いを深めずにはいられないのだった。
「やれやれ、茶番がまだ続くようなら、俺はもう帰っていい? せいぜい軽い脳震盪でしょ。傷も人間としての底も浅そうだし、傷口には王子が唾でも吐きかけてやったら、その子、大喜びするんじゃない?」
やり取りを白けた顔で見ていたラドゥは、さっさと踵を返そうとする。
さすがにレオンの唾を喜ぶ趣味はないが、底が浅いのも茶番なのも事実だったので、ローザはうっかり彼の慧眼ぶりに感嘆してしまう。
だが、「あ、どうぞ……」みたいなポーズでラドゥを送り出そうとしたローザに代わり、扉口にいたカミルが、彼の腕を掴んで引き留めた。
「待ちなさい。まだ謝罪を聞いていませんよ」
「はっ。さっき『断定はしていない』と言ったその口で、詫びの要求?」
「少なくとも、今ローザ嬢と王子殿下に無礼な口を叩いたのは事実でしょう。正義の守り人の異名を持つ騎士のはしくれとしては、到底見逃せるものではありません」
静かな迫力を滲ませて告げるカミルは、癒力者らしい清廉さと相俟って、正義の使徒のように見える。
だが、ラドゥは掴まれた腕を振り払い、相手をせせら笑った。
「守り人? 大層な口を。むしろ、あんたらはその成れの果て、膿のほうじゃないか。いや、役目を果たしもしない分、その例えじゃ膿に失礼だ」
守り人がどう成り果てたら膿になるのか、周囲はその表現に微かな違和感を抱いたが、それよりも彼の無礼さに顔を顰めた。
不敬を働いた輩に、「膿以下」などと罵られる謂れはない。
「……ラドゥ・アル・アプタン。少々、調子に乗りすぎているようだな」
唸るような低い声で告げたのは、レオンだ。
誇り高い性質の彼は、か弱い女性や、大切な従者を貶める発言を、いよいよ見過ごすことはできなかったのだ。
ローザの本性は未だにつかめていなかったが、だからといって、それは彼女が傷付けられていいという理由にはならない。
「立証できない以上、無力な娘に暴力を働いても処分されないと高を括っているのか? だが、与えられた責務も果たさず、不当にベルクの民を貶めるおまえに、罰を躊躇う俺ではない」
「ふぅん? 拷問でも焼き討ちでもやってみれば? 言っとくけど、こちらは痛みを失くす医術を持ち合わせてるし、今、里を襲われたところで、王国が欲しがっていた医術が失われるだけ。あんたらの徒労が増えるだけだ」
だが、ラドゥも引かない。
小国とはいえ、王子らしい誇りを瞳に湛え、皮肉っぽく口の端を引き上げて応じるだけだった。
「ほう。だが、もっと効率のいい方法が、なくもないんだが」
しかし、レオンが続けた言葉には、微かな動揺を見せた。
「たとえば――この部屋にあるすべての書物を、燃やすとかな」
「…………」
無言で見返してきたラドゥの前で、レオンは片手を挙げる。
途端に、書架に収められていた大量の書物が、ふわりと風に乗るようにして宙に浮かんだ。
無詠唱の、風の魔力だ。
「これでも多少、属国の性質や成り立ちは気にするほうでな。アプトは魔力を持たない代わりに、独自の宗教のもと団結する民。そうだろう?」
レオンは、その精悍な顔に、肉食獣のような鋭い笑みを閃かせた。
「攻略時に多くが失われ、今やこの図書室にわずかな部数を残すだけとなった祈祷画や聖書。俺なりに保護をしたつもりだが、おまえの傲岸さは目に余る。これらを燃やせば、誇りを踏みにじられる痛みを、多少は理解してもらえるんじゃないか?」
『……くたばれ、この野蛮人が』
とうとう、ラドゥがアプト語で低く罵る。
たとえ言語がわからなくても、十分に憎悪の伝わる声だ。
相手があくまで謝罪を口にする気はないと見ると、とうとうレオンは宙に浮かべた祈祷画の一つに向けて、くるりと人差し指を回してみせた。
――ボ……ッ!
途端に、どこからともなく炎が出現し、祈祷画を包み込む。
年季の入った羊皮紙が、先端から丸まって炎に呑まれていった。
「なんということを!」
部屋に悲痛な叫びが響き渡る。
ただし、声を上げたのはラドゥではなく、ローザだった。
(し、信じられない、信じられない、信じられない! この世で最も尊い祈祷画を、こんなことで焼いてしまえるなんて!)
彼女は、萌えと尊みを詰め込んだ祈祷画を、やすやす燃やそうとしているレオンに愕然とした。
こんなの、文化の破壊、人類の損失だ。
いや、レオンの怒りの源泉は、ローザが傷付けられたことにもあるようだが、だとしたら誤解だし大きなお世話だ。
恐らくこれは、人類史上最もくだらない焚書だろう。
(しかもそれ、ファズ・アプたんが闇堕ちしてる名場面のやつーーー!!)
熱に翻った羊皮紙に、地に伏して慟哭するファズ・アプタスを見て取ったローザの行動は、素早かった。
「だめ……――!!」
「姉様!?」
彼女は、ベルナルドの手を振り払い、勢いよく祈祷画を抱え込んだのである。