25.ローザは異教を「箱推し」したい(3)
「熱心に、なにを読んでいるんだ?」
騎士団の訓練の休憩時間、木陰に胡坐をかいて本を読み込んでいたベルナルドは、頭上から降ってきた声に、はっと顔を上げた。
見れば、その場に佇んでいるのはレオン王子と、従者のカミルである。
しかもなぜか、クリス王女までもが決まり悪そうにこちらを見ている。
思いがけぬ面子を前に、ベルナルドは慌てて立ち上がった。
「申し訳ございません。まさか本日、両殿下がおいでになるとは知りませんで――」
「いい。休憩時間になにをしようと自由だ。それに、俺は礼儀にうるさい方ではない。妹も、カミルもな。なんなら、敬語も取ってくれていいぞ」
魅力的な笑顔で告げられたが、男相手にときめく趣味のないベルナルドは、かえって気を引き締めた。
実際、この金色の瞳を前にすると、どうも、かぶり慣れているはずの猫が剥がれ、口が滑りやすくなるような感覚を抱く。
間違いなく、彼の魔力の影響だろう。
無理矢理本性を暴かれるのは、好きではない。
「いえ。両殿下並びに先輩の前で、礼を失するわけにはまいりませんので」
つい挑むような気持ちになって、慇懃な口調で返したが、するとレオンは、愉快そうに口の端を持ち上げた。
「そうか。で、読んでいるのは、……なんだ、語学の教本か?」
「はい。その……私はまだ、書き取りが苦手なものでして。姉に毎週宿題を出されているのです」
一国の王子、それも、ローザに関心を抱きつつある男の前で、下町出身であるという弱みを見せるのは気が進まない。
ベルナルドはわずかに眉を寄せて答えたが、レオンは別のところに興味を惹かれたようだった。
「ほう。ローザがおまえの読み書きも指導しているのか」
「ええ。姉は語学堪能で、教えるのもとても上手なのです。ラングハイムでも無償で領民に文字を教えていて、王都に移った今でも、手紙を通じて彼らの文字を添削しているほどなのですよ」
「それはすごい」
レオンだけでなく、背後のカミルやクリスまでもが感嘆の表情を見せる。
ベルナルドは誇らしい気持ちになって、姉の偉業を彼らに伝えた。
「姉は、『想像力は何よりの財産だから』とよく言うのです。文字を知れば本が読める、そしてそれは、世界を広げることになるからと。しかもその善行をひけらかすことなく、むしろ弟の私に気兼ねする素振りさえ見せて取り組んでいるのです」
「気兼ね? なぜだ?」
「恐らくですが、女性の身で出過ぎた真似をしてはならない、ということを気にしているのではないでしょうか。身内の欲目もありますが、姉は、そうした奥ゆかしさのある、貴婦人の中の貴婦人ですから」
ひねくれ者の彼には珍しく、声には素直な敬意が籠もっていたが、もしそれをローザが聞いていたなら、きっと顔を引き攣らせていたことだろう。
だって、彼女はべつに高尚な思想のもと領民に字を教えているわけではない。
いつの日か領民たちに薔薇本読者になってもらいたいという、遠大な下心をもとに、ベルナルドに叱られぬようこそこそ動いているだけなのだから。
ちなみに、書き取りの例文に出てくる「ベル」はベルナルドがモデルだし、長文読解は、すべて深読みやキャラ萌えを促す工夫が施されている。
「なるほど……たしかに彼女には、高潔さというか、他人のためにばかり心を砕くところがあるようですね」
つい熱のこもってしまった主張を、後ろで聞いていたカミルが穏やかな口調で受け止める。
彼はちらりとレオンに一瞥を向けると、からかうように微笑んだ。
「レオン王子がいくら『誘惑』しても、彼女が話すのはあくまで弟のことばかりなのだから」
「言うな」
レオンはぶすっと答える。
なんでも、図書室に通うようになったローザに、それとなく接近を試みているのに、レオンがどれだけ金の瞳で見つめても、茶会などに誘っても、彼女はすべて「ところでベルナルドのことはどのように思われます?」「ベルナルドも同伴でよろしいですか?」などと、無邪気にそれを受け流してしまうのだそうだ。
「この瞳で見つめられれば、大抵の人間は己の中の欲をさらけ出さずにはいられなくなるはずなんだが……。それで出てくるのが弟の話題ばかりということは、彼女には本当に、自身が目立ちたいだとか、愛されたいだとか、そうした欲がないんだろうか」
眉を寄せるレオンは、未だにそれが信じられないようだ。
しかし同時に、彼がどうしようもなくローザにそそられているのもまた、感じ取れる。
ベルナルドは警戒を深め、慎重に尋ねた。
「お褒めに与かり、光栄でございます。……それで、私に話しかけてくださったのは、どのようなご用件があってのことでしょうか?」
気さくさで知られる王子とはいえ、騎士としては末端の自分に、それも王女まで伴って話しかけてくる理由がわからない。
(もし、姉様の攻略法を教えてくれとかだったら、正反対の好みを吹き込んで撃退してやるけど)
緊張を装った顔の下で、そんな腹黒い思考を渦巻かせていたベルナルドだったが、レオンが口にしたのは、意外な内容だった。
「まさにそのローザのことで、忠告――というか、協力を頼みたくてな」
「え……?」
ベルナルドが驚きに眉を寄せると、カミルが説明を買って出た。
「ベルナルドくんは、王宮における癒術師の立場、というのは知っているかな?」
「はい、それなりには。癒術師というのは、医術の腕を見込まれたアプトの民のことで……ただし、魔力を持たない彼らは、王宮内ではあまり信用を集められてはいない、ということですよね?」
「ええ。残念な現状ですが、やはり、容姿や価値観の違いを乗り越えるには、双方多大な努力を必要とするということでしょうね。こちらとしては、なるべく歩み寄っているつもりなんですが……ただ、ラドゥ・アル・アプタン――癒術師の彼がなかなかに御しがたい人物で」
カミルによれば、ラドゥというのは優れた医術を持つアプトの第六王子で、その技術提供と、アプトの自治維持を交換条件に、王宮に招聘されたらしい。
ところが彼は、実質人質であるという境遇も弁えず、不遜な態度を崩さない。
上位貴族相手にすら敬語を使わぬのは、外国人だから仕方ないとしても、与えられた責務もこなさず、怠け放題で過ごしている。
のみならず、よほどアプトへの攻略が気に食わなかったのか、王族や騎士団を目の敵にし、彼らを引っかきまわす真似ばかりするのだとか。
「たとえば彼は、その薬を操作する能力を悪用し、レオン王子を慕う令嬢たちに媚薬をばらまいていましてね。今朝もまた、それが一件見つかったばかりで」
また、カミル自身、ローザと同様、癒しの魔力を持つために癒力が効かない人間なのだが、かつて怪我をして医療室を訪ねた際には、ラドゥは治療を拒否するどころか、誤った薬を処方して、傷を悪化させたこともあるのだという。
しかもそれを、あくまで「必要な薬を提供しただけ」と主張し、責任を回避するのだそうだ。
なんと卑劣な、とベルナルドが顔を顰めたところで、今度は、それまで大人しく話を聞いていたクリスが身を乗り出した。
「私は今日、アリーナの処遇の相談に兄上のところへ来ていたんだが、偶然カミルからそうした話を聞いて、そういえばアリーナも癒術師から薬を処方されていたということを思い出してな。媚薬だけでなく、攻撃性を高めるような薬まで操っているのだとしたら、いよいよ悪質だ」
それで、癒術師の世話になる可能性のあるローザが、万が一にもその毒牙にかかってはまずいと、こうして忠告に来たのだと言う。
「これは俺の責任だが、本宮に出入りし、王族である俺や妹とも繋がりのあるローザは、ラドゥにとっては狙い甲斐のある標的に映るかもしれない。折しもこの週末は、アプト攻略から一年が経つ日だ。宗教心が高まって、ラドゥもいよいよ攻撃的になるものと思う。これからローザ本人にも注意を促すが、できれば弟のおまえにも、警戒していてほしいと思ってな」
最後に、レオンはそう締めくくった。
その精悍な顔を、ベルナルドはじっと窺う。
「……姉のために心を砕いてくださっていること、心より感謝いたします。ですが――」
形ばかり感謝を述べたが、どうしても付け足さずにはいられなくなった。
「意外な気もいたします。殿下は、どちらかといえば、姉に対して不信感を抱いているように感じていたものですから」
それは、真意の確認であると同時に、牽制だ。
ベルナルドは、レオンが時折、あの高潔な姉に対して、警戒や不信感をにじませるのが気に食わなかった。
王子という立場やその美貌から、女性に執拗に追い回されていることは知っているが、そこで培われた女性不信を、繊細なローザに向けてくれるなと言いたかったのだ。
てっきり、レオンは気まずい顔になるか、適当に誤魔化してくるものと思ったが、相手はにやりと笑みを浮かべた。
同性でも憧れてしまうような、ちょっと意地の悪い、魅力的な笑顔だ。
「間違いない。だが、本性が強かなのであれ、高潔なのであれ、この瞳の前になびかない娘というのには、大いに興味をそそられるものでね」
そこで彼は、肉食獣を思わせる仕草で、目を細めた。
「気に入った獲物が、ほかからちょっかいを出されるのは気に食わないんだ」
その傲慢な台詞も、この男が言うとなんと様になることか。
ベルナルドは、格の違いを見せつけられた気がして、内心でほぞを噛んだ。
少なくとも、「愛らしい弟」に擬態してローザの隣を確保している自分よりは、この傲慢な王子のほうが、いくらか潔い。
「……さようでございますか。ですが、それなら、そんな危険人物、王子殿下のご一存で、さっさと芽を摘んでしまうわけにはゆかないのでしょうか? 悠長に姉の周辺を見守るよりも、早々に相手の戦意をそいでしまったほうが、確実だと思うのですが」
苛立ちは、人を攻撃的にする。
ベルナルドが視線を逸らしながら文句を付けると、レオンは「カミルと同じようなことを言うな」と肩を竦めた。
「国の都合で国を行き来させられる身分というのには、これで思うところがあってな。里を侵略しておいてなんだが、できるなら、悪意が明確に認められない限りは、相手の尊厳を守りたい」
皮肉気に歪められた口元からは、己の発言の幼稚さや、傲慢さを理解していることも窺える。
そうとなれば、ベルナルドに王子の考えを追及する権利などない。
さらに言えば、ローザにさえ危害が及ばないのなら、彼としては別に、癒術師の処遇などどうでもいいのだ。
(姉様は、やたら厄介ごとに巻き込まれやすいうえに、すぐに相手を庇おうとするからな……。俺がきちんと目を光らせておかないと)
内心でそう意志を固めたまさにそのとき、
「きゃあああああ!」
図書室の方角から、女性の絹を裂くような悲鳴が聞こえて、一同ははっと顔を上げた。
「今のは……!?」
「姉様――!」
敬愛するローザの声を、ベルナルドが聞き間違えるはずもない。
顔色を変えたベルナルドを見て、レオンたちは素早く視線を交わし合うと、一斉に図書室へと走り出した。