24.ローザは異教を「箱推し」したい(2)
ローザは今一歩青年に向かって踏み出しながら、必死に頷いた。
『アプト、好き。アプト、知る、したいです。アプト勉強、します』
コミュニケーションの基本、自己開示。
そして、とにかく相手に対して好意を示す。
瞳をぎらぎら輝かせて近寄ると、ラドゥは圧倒されたのか息を呑み、『ふぅん』と呟いた。
『君も、医術を学びたいということ?』
『はい!』
ローザは力いっぱい嘘をついた。
医術などかけらも興味はない。
いや、しかし、媚薬の精製なら、いずれ来るべき「ベルたん総受け計画」の発展のため、大いに興味がある。
ということは、やはりこれは嘘というわけではない。
自己欺瞞を軽やかにスルーして頷くと、ラドゥは片方の眉を引き上げて、再度『ふぅん』と呟いた。今度は、楽し気な声だ。
『じゃ、このへんを読んでみなよ。意味がわかったら、医療室まで会いにおいで』
彼はそう言うと、小部屋の中に引き返し、数冊を引き抜いてローザに押し付けた。
一冊は、アプト語をクシュマル語に置き換えた辞書。
あとは、美しい表紙の付いた小説のようなものと、宗教画を集めた画集のようなものだ――どうやら小部屋の中には、本当に異端の資料しかなかったようだと、ローザは内心でがっかりした。
『ただし、早めにね。あんまりのんびりしていると、ここらへんの本は、焚書の憂き目にあうかもしれないから』
『フンショ?』
「あ、さすがにわからないか。本を燃やす、ってこと。気に入らない本、都合の悪い本を、偉いやつが燃やす。わかる?」
ラドゥはかなり二か国語に堪能なのだろう。
すんなりとベルク語に切り替えて解説してくれる。
焚書。
ようやく意味を理解して、その不穏さにローザは驚いた。
が、そうしている間にも、ラドゥはさっさとその場を去ってしまう。
その飄々とした後姿に、S系「攻め」の芳しさを感じてうっとりしたが、ローザは首を振って意識を切り替えた。
今日は春書を読もうと息巻いていたが、それよりも課題図書の読破が優先だ。
まずは彼と会話の糸口をつかみ、そこにベルナルドを巻き込んでゆく。
ともに医術を学び、けれどローザだけ途中でフェードアウトし、結果、残された教師ラドゥと生徒ベルナルドがときめきスクールラブ! みたいな展開になればいい。
いや、絶対そうさせる。
(待っていてね、ベルたん。これがどんなに難解な文章でも、あるいは逆に、どんなにつまらない、鼻クソのような駄文だったとしても、わたくし、三日で読み通してみせるわ……!)
ローザはそのまま小部屋に突入し、そびえたつ本棚の間に蹲るようにして本を広げた。
今は、閲覧用のスペースを探してまわる手間すら惜しい。
そうして、かっと目を見開き、鼻息も荒くそれらを読みはじめたのだが――、
「――……ッンア!」
数時間後、彼女はもう何度目になるかわからぬ感嘆の叫びをあげ、目頭を押さえて床に崩れ落ちた。
結論から言おう。
アプトの文化は……最高だった。
(な……っ、なにこれ……!)
ローザは鼻の付け根を押さえながら、涙ぐんで書物を見下ろした。
ラドゥに手渡された三冊の書物。
一冊は辞書で、一冊は聖典――神々の一族アプタスの活躍を描いた伝承で、一冊はその聖典を絵で表した祈祷画だった。
そして、その後者二つが、とんでもなく素晴らしい代物だったのだ。
(アプタス一族……最高……っ!)
ローザは瞳の色を深め、この数時間で新たな「推し」となった存在――アプタス一族を称える。
辞書を片手に、ローザが驚異の執念と学習能力で読みこんだ内容とは、このようなものだった。
ベルクをはじめとする国々で信仰されている女神教とは異なり、アプトの民は、「守護者」と呼ばれる神々の一族を敬う。
神々とは創始者ではなく、この世界を守るための存在で、いわば番人。
アプタス一族は守り人であると同時に狩人なのだ。
世界の維持を旨とする彼らのもとには、日々様々な禍が降りかかるのだが、アプタス一族は聡明さや果敢さ、そして団結力によって、それを撥ね退けてゆく。
そして、その描かれ方が、とんでもなくかっこよかった。
(こ……っ、このね!? まず、安易に主神を立てずに、群像劇風に宗教観を表現しようというところが超斬新! 圧倒的な能力を持つ一柱が悪を蹴散らすのではなく、個々の能力を持った英雄たちが、力を合わせて悪を倒してゆく展開に、胸のときめきが止まらない!)
ローザの知る神話や聖書というのは、大抵、「絶対的に正しい存在が悪を封じる、ないし諭す」といったものだったのだが、アプタス一族は一味違う。
それぞれ異なる能力、そして限界を持った人間臭い神々が、時に過ちを犯しながら戦いを続けるのだ。
敵を仕損じたアプタスもあった。
味方を敵と見誤り、殺してしまうアプタスもあった。
けれど、その過ちの記憶が引き継がれ、次世代で執念の復讐を果たすエピソードでは、ローザはどれだけ心を震わせたことか。
常にあっけらかんと前線に出ていたガル・アプタスなる青年神が、最後、己の体を引き裂いて敵を共倒れにし、やがて溶け消えた遺体の跡に黄色い花の群れが出現したというエピソードでは、ローザの中の全ローザがむせび泣いた。
アプタスがほぼ全員男神であるためか、描写は時々苛烈な暴力を含み、同族を害するシーンや、敵を物理的に食してしまう話までもあるため、このあたりが原因で異端視されているのかもしれない。
が、ローザからすれば、狂ってしまった同胞を殺害するために生まれた美しき男神ラジェ・アプタスなどは、もう設定からして激推しとしか言えない。
ラジェ・アプタスが最後まで視線を絡ませ合いながら、かつての親友を手にかけ、その遺骸から滴る血を含む一幕など、前後左右天地あらゆる角度から、三百回ほど妄想を楽しんだ。
かつ、そうした神々が、時に殺し合い、己の宿命に苦しみながらも、根底では深く信頼しあい、総出で世界を守ってゆくというのが、もう堪らないのだ。
(この聖典には、わたくしが萌える関係性のすべてが詰まっている……。キャラ単体だけでなく、この世界観そのものに激しく滾るこの感情を、わたくしはなんと名付ければいいの?)
ローザは「箱推し」の概念を学んだ。
こんなに素晴らしい世界、文化が、焚書の危機に瀕しているなど受け入れがたい。
これは世界の終末まで、子孫代々語り継がれるべき不朽の名作。
この世のあらゆるイケメンと関係性萌えを詰め込んだ、まさに聖書だ。
世の統治者こそこれを読み、魂に刻みつけた方がいい。
(あとはもう、麗しき青年神ファズ・アプタスが、親友の少年神ミニアル・アプタスを失ったことで闇堕ちして、世界を焼け野原に変えてしまう一幕なんて、全人類が鼻血を噴くレベル。このシーンを描いた祈祷画は国宝に指定するべきだし、この一幕は詩歌小説演劇あらゆる形を取って大陸中で再現されるべきよ……!)
もともと線の細いキャラを好むローザは、特にこのファズ・アプタスがお気に入りだった。
舞台化されるなら、ぜひここには、あの猫のような気高さと嗜虐性を滲ませたラドゥ氏を充てたい。
そして、彼の親友の少年神ミニアルには、もちろんベルナルドを。
飄々とした皮肉屋ながらも――この辺は脳内補完だ――、純粋な少年神の存在で善性を保っていたファズ・アプタス。
けれど、親友の死によって、彼の心は破壊し尽くされてしまう。
骸を掻き抱いたまま、呆然とする孤独な神。
その中性的な美貌に、やがて狂気を宿した笑みが浮かびはじめる。
初めて得た、執念。
同時に、彼を中心として、一気に業火が――!
「ぅきゃあああああ!」
あまりの尊さに、ローザは両手で顔を覆って絶叫し、勢いよく後ろにのけぞった。
――ゴッ!
「ぐふぉ!」
そして激しく後頭部を殴打した。
しまった、ここが書架の間の狭小空間であることをすっかり忘れていた。
やはり「無理、尊い」と後ろに倒れ込むスペースを確保しないことには、貴腐人の読書は成り立たないのだ。
結構な勢いで打ち付けたようで、頭がガンガンする。
痛みに悶絶して蹲っていると、たらり、と血がこめかみを伝う気配すらあった。
「しまったわ……」
ただでさえ、ここまで数時間ノンストップで興奮してきて、心臓への負荷は限界だったのだ。
無理やり気力で無視していた眩暈や吐き気が、出血を機に一気にやって来るのを感じる。
きんと耳が鳴り、視界が狭まった。
まさか、自分はこんなことで気絶しようというのか。
「嘘でしょ……待って……お願い……」
今ここで倒れるわけにはいかない。
自重しようとした矢先に、興奮のあまり自傷したなんて知られたら、ベルナルドにどれだけ軽蔑されることか。
あの美しい瞳に、「性根の腐りきった生ごみめ」とでもいった嫌悪が滲む様が、ありありと脳裏に浮かぶ。
嫌がるベルナルドも最高にきゃわわだが、いやしかし、実際に彼から嫌われてしまったら、ローザはもう人生の希望を失くしてしまう。
やっちまった。
どうかどうか、ベルナルドに見つからぬうちに、目覚められますように――。
泣きそうな思いで祈りながら、ローザはどさりとその場に崩れ落ちた。
朝っぱらからこんな主人公で、本当に申し訳ない…