23.ローザは異教を「箱推し」したい(1)
「ああ……」
王宮の誇る、大陸最大の図書室に足を踏み入れたローザは、天井まで続く大量の書架を見上げて、ほうと溜息を漏らした。
「何度見ても素敵……」
それは、大陸中の叡智の集合――と見せかけて、ローザからすれば、大陸中のBLの集合体だ。
彼女は小ぶりな鼻をすん、と鳴らして、紙の匂いと、そこに秘められているはずの薔薇の芳香を堪能した。
(今日はまずどのあたりを開拓しようかしら。隣国の神話? いいえ、動物図鑑? それとも、騎士団の報告書がいいかしら)
この王宮図書室には、大陸中で出版されているほぼすべての書物が納められている。
誠に残念ながら、現在のベルク王国では、男性同士の恋愛を扱った小説は存在しないものの、国外の書物にまで探索の手を広げれば、それっぽいものは意外に見つけることができるのである。
また、貴腐人ならではの脳内補完能力や妄想力を活かせば、なんら淫靡でない書物からも、BL的要素を見つけて楽しむこともできる。
特に聖書や神話、動物の生態を扱った図鑑や、職業男子の実態を綴ったレポートなどからは、いろいろと妄想の捗る情報を得られることが多く、そうした書物を大量に蔵書するこの図書室は、最近のローザの聖地となりつつあった。
(ちょっと耳たぶを切られたくらいで……というか、わたくし自身が布教のために望んでしたことで、こんなに優遇されていいのかしら)
うっとりと背表紙に指を走らせながらも、胸の片隅では良心の呵責を覚える。
そう。
彼女がこうして本殿の図書室通いを許されているのは、先日の傷害事件を受けてのことなのだ。
あの日、うっかり本宮を探索しすぎたローザは、少々遅れて離宮に戻ってきた。
すると、クリスとベルナルド、そしてアリーナの間で話し合いがすっかり完了しており、クリスはローザの傷が癒えるまで離宮でひとり謹慎、アリーナは実家ときちんと向き合うために帰省、とのことが決まってしまっていたのである。
もちろんローザはアリーナに、「無理して向き合う必要なんてない、今すぐラングハイム領へ逗留を」と必死に訴えた。
が、アリーナはそれを聞いてますます涙ぐむと、「いいえ、私はローザ様に恥じぬよう、逃げずに自分の罪に向き合ってまいります」などと、かえって意志を固めてしまったのだ。
せめてクリスのぷんデレを日々見守りたかったのに、彼女も意固地に「謹慎する」と言う。
結局、ローザは半泣きになりながら、彼女たちの意志の固さに折れたのである。
(ベルたんが来るまではすべて計画通りだったのに、いったいなぜ突然、二人とも意見を翻してしまったのかしら)
答えは、庇護欲をこじらせたベルナルドが、アリーナたちに「ローザの過去」を打ち明け、強い改悛を迫ったからだ。
「虐待を受けて育ったローザに、肌を刻まれる恐怖を味わわせるなんて言語道断」という嘘情報だらけの訴えを聞いて、アリーナもクリスもそれまでの甘ったれた考えを振り捨てたのだったが、ローザはそんなことを知る由もなかった。
結局、静養の名のもと、話し相手の座を一時御免になってしまったローザは、レオンに本宮通いを許可されたこともあり、図書室で時間を過ごすことにしたのである。
そして、いざ通い始めてみると、世界最大の蔵書というのは即ち、薔薇の宝庫であった。
しかも、窓から第一騎士団の練習風景も見えるし、医療室も同じ棟にある。
時間帯によっては司書すらおらず、没頭できる。
かつ、時折レオン王子に遭遇することがあるのだが、その際には遠慮なく弟をアピールして、彼にベルナルドの存在を刷り込むこともできる。
現金にも、ローザはすっかり傷心を癒やし、日々ニマニマと図書室通いを続けているというわけである。
ちなみに、本人はあずかり知らぬことだが、可憐な美少女が微笑を湛えながら読書する様は、「図書室の天使」とあだ名され、彼女が集中しやすいように、人々はそっと席を外していた。
(悲しいことの後には、必ず喜びがある……。このタイミングで図書室に通えるようになったのも、薔薇神の思し召しだわ。ならば、それに恥じぬよう、がんがん腐読みをこなしてゆかねば。そして今日は――いよいよ春書を攻める……!)
ローザは書物を選ぶふりをしながら、ちらりと奥の扉を見やる。
図書室の奥、暗がりになったそこには、小部屋がいくつか並んでおり、そこには専門性の高い書物が集められているとのことだった。
司書はいつも、そこへの入室だけはきちんと管理しているようなので、あまり人の目に触れさせたくない異端の書であるとか、禁呪の類も、そこに隠されているのだろう。
だが、ローザの勘はこう告げていた。
絶対、春書もあるだろ、と。
(思えば、お父様の蔵書の八割は、秘密裏に集めた春書だった……。この王国内に、少なくとも五つ以上の春書レーベルが存在していることを、わたくしは確認しているわ。「大陸中の書物を集めた」と自認するこの図書室に、それがないはずが、ない)
ベルク王国は、貞操や純潔を尊ぶ宗教観から、その手の書物の流通は公的には認められていない。
男性同士のそれなど、なおさらだ。
だが、大陸最大の蔵書を誇る王宮図書室であるならば。
いや、いっそベルク内でなくてもいい。
もっと性に奔放な国々の小説であれば、あるいは。
(いでよ、春書……!)
ローザは神妙な顔で両手を組み、腐りきったことを祈った。
ベルク国内ではまずお目にかかれない、いわば「異端の書」。
けれど、間違いなく世の中に存在しているに違いないそれと出会うために、ローザは可能な限りの言語を身に着けてきた。
近隣主要五か国語ならまずいける。
言語体系を押さえているので、マイナー言語であっても、辞書を片手にすれば、大抵読める。
エロ本を読むために語学に励む、貴腐人の根性を舐めてもらっては困るのだ。
ちら、と入り口付近を一瞥する。
司書はいない。
そのままぐるりと室内を見渡す。
小部屋付近に人影はない。
ついでに、窓にも視線を送り、騎士団の訓練風景を確かめる。
図書室内部を気にしている輩はいないし、訓練中のベルたんは今日もきゃわゆい。
ローザはひとつ頷いた。
敵影なし。
今こそ進軍の時だ。
(さあ、何語でもかかってらっしゃい!)
ローザがげすな笑み――傍から見れば、慈愛溢れる微笑――を浮かべて、小部屋の扉に手を掛けた、その時だ。
突然扉が内側に引かれ、中から一人の青年が出てきた。
『――おや』
ベルク内では見かけぬ、長服姿に、褐色の肌。
悪戯っぽい鳶色の瞳が印象的な、すらりとした人物である。
その外見や、彼が口にした耳慣れぬ言語での呟き、そして医療室が近いことから、ローザはすぐに彼の正体を察した。
癒術師。
一方、青年のほうもローザを見ると、驚いたように目を瞬かせ、それから、人懐っこい笑みを浮かべた。
「こんにちは。アプトの本に、興味でも? ローザちゃん」
予想外に流暢なベルク語だ。
思いがけず人と出会ってしまったことと、いきなり名前を呼ばれたことに動揺していると、彼はくすりと笑って名乗った。
「初めまして。俺は、ラドゥ・アル・アプタン。アプトから連れて来られた、しがない医師だよ。お見知りおきを、お嬢サマ」
にこやかだが、琥珀色の瞳はけっして微笑んでいない。
むしろ物見高くこちらを値踏みするような色が覗く。
その、人懐っこさの裏に潜ませた、毒。
(こ……っ、これは……っ)
一見気さくなようでありながら、その実切れるような鋭さを漂わせる彼を見て、ローザは咄嗟に胸を押さえた。
異国出身のイケメンで、医師であり色気がありしかもちょっとSっぽさが覗く、この青年。
(エキゾチック担当、キターーーーー!)
脳内で、ローザは思わず顔を両手に押し当て激しくのけぞった。
「ベルナルド総受け計画」の「攻め」要員にぴったりな人物が、突然目の前に現れたことに、興奮を抑えられなかったのだ。
彼が加われば、これでベルナルドを囲む「攻め」要員は、性格的にも色彩的にも一気に多彩になる。
。
興奮のあまり、一瞬黙り込んでしまった彼女を、相手は不審に思ったらしい。
首を傾げ、
『おやま。君も、アプトの民に話しかけられるのは汚らわしい、って口かな?』
などと呟くので、ローザははっとした。
ここで変に誤解されて、距離を取られてはならない。
むしろ全力で擦り寄って、なんとかベルナルドと縁を繋がなくては。
『い……いえ! 違う、です。わたし、アプト、好き。知る、したい、です!』
よって彼女は、思い付くアプト語を掻き集めて、必死に叫んだ。
アプト語は詳しくないが、たしか隣国のクシュマル語を、南部特有のダズー発音体系で訛らせたような言語だったはずだ。
簡単な動詞やイエス・ノーだけなら、クシュマル語と共有するものも多い。
そして、性に奔放な隣国の言葉を、ローザは一時期猛勉強したので、クシュマル語は骨の髄まで染み込んでいる。
つまりこれらを総動員すれば――
(アプト語っぽい言葉が、話せなくもない……!)
きっとネイティブからすれば、発音も文法もめちゃくちゃだろうが、アプト語を話そうとしている意志くらいは伝わるだろう。
まずはそれでいい。
全力で擦り寄るのだ。
ローザの返事を聞き取ったラドゥは、驚いたように目を瞠る。
『君……アプト語がわかるの?』
少なくともヒアリングはできていたようだ。