22.ローザは「攻め」を揃えたい(4)
『あっぶなー。やっぱ、勘が鋭いのかなぁ、あの子』
ローザが医療室から去った途端、寝台のカーテンに内側から手をかける者があった。
年の頃は、十六、七か。
癖のある黒髪に、褐色の肌。彫りの深いエキゾチックな顔立ちと、王国内ではまず見られない、白い長服を身にまとった彼は、昨年ベルクに征服され、この王宮に連れて来られたアプト族の癒術師、ラドゥ・アル・アプタンだった。
アプト国内でも数本の指に入ると言われるほどの医術を誇る、首領の六番目の息子である。
責務である講義を放棄しているという彼は、なんと持ち場の医療室で、のうのうと昼寝をしていたのだった。
『王子がいるときに見つかったら、さすがにまずかったろうけど……でも、ふうん、おかげで面白いものが見られちゃった』
悪戯な子どものような鳶色の瞳を輝かせて、ラドゥはアプト語で呟く。
膨大な魔力を持ち、腕の一振りでアプトを降伏させた若き王子、レオン。
溢れ出る魔力の誘惑と美貌を持ち、呼吸するだけで女がしなだれかかってくるという彼が、女性からああも無関心に接せられるところなど、初めて見た。
(茶髪に、茶色の瞳、ねえ? なんだろ、体質を見抜く魔力の保持者とかなのかな、あの子)
魔力と無縁のアプト人であるラドゥからすれば、王子の外見など毛ほども興味はないが、ローザと呼ばれた少女が、身体的特徴を見抜く力を持っているというのなら、そちらは医師として気になる。
診察に便利そうだ。
(ローザ・フォン・ラングハイム。……ああ、前に、性病に罹ってこそこそ医療室にやってきた伯爵の娘ってことか)
優れた記憶力を発揮して、少女の周辺情報を思い出す。
たしかラドゥが王宮に連れて来られて間もない頃に、たるみきった体を隠すようにしながら、診療にかかった男がいたはずだ。
金髪と水色の瞳をした高慢なその男の名が、たしかラングハイムだった。
(あの子を薔薇とするなら、伯爵は豚ってとこだな。笑えるくらい似てない。豚から薔薇が生まれるって、どんな奇跡的な遺伝子を引き当てたんだか)
物見高く忍び笑いを浮かべたラドゥだが、すぐに笑みを引っ込める。
他人のお家事情を見物している場合ではないのだ。
(俺に「処遇を考えさせる」、ねえ。物騒なことで)
脳裏によみがえるのは、カミルと呼ばれる王子付き従者の不穏な呟きだ。
それは、この王宮に勤める、上位貴族の総意でもあるということを、ラドゥは理解していた。
王妃の病を癒すために、あるいは、ベルクに医術を伝えるために、生かしてやっている異端の徒。
どちらもせぬのなら、アプトの民に用は無い。
さっさと殺すなり、放逐してしまえ――王宮の人間はそう考えている。
『こっちだって、好きでサボってるわけじゃないっつーの』
だが、ラドゥとしてはそうぼやきたかった。
彼の立場は、少々複雑だ。
れっきとしたアプト首領一族の一員でありながら、踊り子であった側妃の息子ゆえ、立場は低い。
それでいながら、アプト随一の頭脳と医術を持ち合わせていたために、こうして人質役を押し付けられたのだ。
魔力にすっかり怯えた異母兄たちからは、「王国の命令には従い、くれぐれも怒りを買わないように」「『用無し』と思われてしまえば、我らの教本は焚かれ、里は焼き払われるのだぞ」と散々言い含められているが、ラドゥからすれば、そんなのはナンセンスだ。
王国はしょせん王国。
アプト側がどれだけ努力しても、彼らの都合で焚書はするし、里も焼くだろう。
ラドゥが思うに、彼らがアプトに火を放つのは、彼らがアプトの医術をすべて修めたその時だ。
それこそ、アプトが「用無し」になるのだから。
結局里に残った異母兄たちは、せっせと祈祷画に向かって祈る以外、なにもしていない。
となれば、里の安否は、王宮に連行されたラドゥの肩にかかっているというわけだ。
唯一の財産であり、駆け引きの道具たりえる医術を出し惜しみするのは、だから彼としては当然のことだ。
だいたい、アプトの医術は、聖典によって「アプトの言葉を解し、アプトの土地を慈しむ者にのみ授けられるべし」と定められている以上、選民思想に凝り固まったベルク貴族に教えることなどできるわけがない。
きちんと講義の初回に、「アプト語を日常会話程度も話せない相手には講義できない」と宣言しているのだから、ラドゥの講義拒否はなんら不当ではない。
「宿題」もこなさぬ、傲慢で怠惰な生徒が悪いのだ。
王妃の病については、すでに医術の領域ではないと診断を伝えた。
講義は生徒に資格がない。
とすれば、ラドゥがこなすべき仕事は、せいぜい惰眠を貪ることくらいである。
(それとも腹いせに、王宮内を掻きまわして、あの傲慢王子の鼻を明かしてやるくらい?)
ラドゥは、形のよい唇を、片方だけ持ち上げる。
魔力至上主義のベルク王国、そして膨大な魔力によって人気を誇るレオン王子というのが、ラドゥは大層気に食わなかった。
魔力ですべてを従えられる気になっているのを見ると、その金色の瞳に、劇薬でもかけてやろうかという気分になるのだ。
(腕の一振りで里を焼き払い、こちらの文化を否定し、あまつさえ異端として焚いてしまえる……傲慢なベルク人め)
魔力を持たないからと、アプトへの蔑みを隠さない彼ら。
異母兄たちからは、そんな彼らを刺激せぬように、と毎日のように手紙が来るが、そんなもの知ったことか。
(脅されたら、従えって? ふん、やり返すくらいの気概を持てって話でしょ)
たとえば、王子への接近を目論む女たちに、要望通りに媚薬を処方してみたり。
きな臭い情報や思惑に、気付かぬふりをしてやり過ごしたり。
べつに、押し付けられた職務を越えることも不足することもしていないのだから、ラドゥが責められるいわれはない。
『早くくたばってしまえ、こんな王国』
冷ややかに呟いて、ラドゥは薬品棚を振り返った。
最上段に掲げられた祈祷画を見上げると、右の拳を額、心臓の順に当てて、祈りを捧げる。
『焼くなら焼けばいい。巡り巡って、いつか困窮するのは、あんたらだ』
伏せた瞼を再び持ち上げた時、猫を思わせる瞳には、皮肉気な表情だけが浮かんでいた。