18.ローザは腐った友を得たい(3)
「ローザ!」
「殿下、ご無事ですね?」
ぱっと身を起こした彼女は、心配そうに眉を寄せて、クリスの顔を見つめる。
そして、そこに別状がないと見て取るや、ほっと安堵の溜息を漏らした。
「もう。いけません、殿下。女性相手に、ドキドキのバトルなど演じては」
少々不思議な言い回しだが、要は、女性相手に手を上げるなと言いたいのだろう。
そんなローザの髪は、一筋ぶんが切り取られ、刃が触れたのだろう耳たぶからは、薄く血が滲んでいた。
「おまえ――血が! 髪が……!」
「大したことではございません」
ローザはきっぱりと言い切ると、アリーナに向き直る。
「あ……、あ……私……」
「アリーナ様も、ご無事ですね? ……大丈夫。殿下もわたくしも、無事ですわ」
我に返ったように、激しく震えだす相手に微笑みかけると、ローザはそっと剃刀を取り上げ、それを床に捨てた。
そうして無防備になったアリーナの手を、ぎゅっと両手で包み込んだ。
「アリーナ様の境遇には、心から同情いたしますわ。わたくし、あなたが他人とはとても思えませんもの。ただし……どうか二点だけ、わたくしの反論を聞いてください」
静かなのに、すっと耳に沁み込む美しい声。
神秘的な紫色に輝く瞳。
傍らのクリスまでもが魅入られたように動きを止める中、ローザはゆっくりと言葉を紡いだ。
彼女には、今、どうしてもアリーナに刷り込んでおきたいことがあったのだ。
「一つ目。殿下の御髪を、中途半端などと言わないでください。これで、よいのです」
「え……?」
二人の声が重なる。
ローザは神妙な表情で頷いた。
(わかるわ。わたくしも最初は、潔くないと思ったもの。けれどこれは、いずれクリスたんが「攻め」へとリバする際の、重要なアイテム)
残念ながら、BLが浸透していない状況でリバの概念を持ち出すのは無理があったため、ローザはひとまず結論だけを伝えることにした。
「殿下の御髪は、いずれ、きっと重要な役目を帯びることになる、かけがえのないものなのです」
「重要な、役目……?」
困惑したように呟くアリーナに、ローザは優しく目を細めた。
今はまだわからなくてもいい。
いずれ、手取り足取りBL哲学を叩き込んであげるから――そんな思いを込めて。
「二つ目。殿下のお姿を、どうか悪く仰らないで。わたくしは、殿下のこの姿を、とても好ましく思います。相反する要素を抱え持つお姿は、見ていて胸が締め付けられるほど。わたくしは、このお姿の殿下を、どこまでも応援したいし、守りたいのです」
ローザの言う相反する要素とは、もちろん「ぷん」と「デレ」のことである。
どこまでも腐りきった、しかしだからこそ譲れない主張をきっちり述べると、ローザは一つ頷いた。
ここからが重要だ。
「けれど同時に、あなたの苦しみにも、胸を痛めずにはいられません」
ローザはそう言って床に屈み、散らばった己の金髪を掬うと、それをアリーナの手に押し付けた。
「金髪が欲しいと仰いましたね。ならば、わたくしの髪で満足していただけませんか。そうして、あなたに課せられた使命や重圧から離れて、一度よく、考えてみてほしいのです。本当に大切なものはなんなのか。親の命令や周囲の悪意なんかに囚われず、あなたは今、なにに目を向けるべきなのかを」
ちなみに問いの答えは「BL」である。
ローザは、性急に答えを教えてしまいたい衝動をぐっとこらえて、アリーナに訴えかけた。
「この髪を、どうかお持ちください。そして、わたくしの今の言葉を、よく考えて。聡明なあなた様ならば、きっとすぐに、わたくしの言わんとすることを理解してくれるはず」
キャラ萌えタイプで深読み派の彼女なら、ぷんデレなクリスの尊さにも、きっと気付いてくれるはず。
ローザは腐った祈りを込めながら、目を見開くアリーナに金髪を握らせた。
そう。
ローザは、アリーナに自分の髪を押し付けるために、こうした行動を取ったのである。
髪には当人の魔力が籠もるという。ならば、ローザの腐った力と腐った価値観も、髪を通じていくばくかアリーナに移植、というか、洗脳に近いことができるのではないかと、そう考えたのだ。
好きな相手の飲み物に髪の毛を混入するのとなんら変わらない、狂気じみた発想であった。
(感染れ、薔薇愛!)
腐ォースを込めて、ローザは微笑んだ。
「ねえ、アリーナ様。きっと真面目なあなた様は、疲れてしまったのですね。男爵家に戻りづらいなら、いっそ少しの間、わたくしの領、ラングハイムで療養しませんか?」
「え……?」
「ラングハイムは田舎ですが、とても静かな場所です。詩作に耽ってもいいし、部屋に籠って日がな本を読んでいてもいい」
「なに、を……」
アリーナは驚きにかすれた声で、ぽつりと呟く。
それほど、ローザの提案は予想外のものだったのだ。
だって、アリーナは離宮の侍女の中で最も身分の低い男爵令嬢。
大した特技もなく、ぱっとしない彼女を、格上の伯爵令嬢が気に掛ける必要なんてない。
しかも、今の自分は、王女に刃を向け、令嬢の肌と髪を傷付けた大罪人だと言うのに――。
「なぜ、あなた様が……そんな……」
「だって、わたくし、アリーナ様とお友達になりたいのですもの」
アリーナより幼く、華奢なはずのローザは、しかし凛と言い切る。
一切の偽りを含まない、その真っすぐな紫色の瞳に、思わずアリーナは釘付けになった。
「わたくし、本気ですわ。もし、二年ほど過ごしても心が癒えなければ、修道院に出家しましょう? 必ず、わたくしもご一緒しますから」
「…………っ」
そこまで言われて、とうとうアリーナの目から涙が溢れる。
自分の耳が、信じられなかった。
「ローザ、様……っ」
自分は、加害者なのに。
ローザは無関係どころか、自分を憎んだっていい立場なのに。
なのにどうして彼女は、こんなにも穏やかで、――一番ほしかった優しさを、ぽんと差し出してくれるのか。
単なる慰めであっても、「ともに修道院に行ってあげる」の言葉は、アリーナの傷付いた心の一番深くまで、すぅっと染み込んでいった。
「わ、私……っ、自分に全然、自信がなくて……っ。魔力が少なく、容姿も冴えず、家でも離宮でも、足手まといで、……だからこそ、今回こそは、言いつけを……守らなくてはと、思ってて……っ」
言葉は、涙とともにぽろぽろと零れ出た。
震え上ずるみっともない告白を、ローザはテンポのよい詩でも聞くような顔で、真剣に耳を澄ませている。
その真摯さに、ますます胸が締め付けられた。
「ずっとずっと、苦しくて……。いつもこの世に、独りきり。味方も帰る場所もない、そんな自分が、情けなくて……っ」
「……アリーナ様はこんなに才能に溢れているというのに」
ローザは、眉を寄せてぽつりと呟くと、改めてアリーナの傍に跪き、彼女を抱きしめた。
「わたくしは、アリーナ様とお友達になりたいです。……ね、お願いです。ラングハイムで療養、してくださいますでしょう?」
アリーナはとうとう大きな嗚咽を漏らし、それから両手で顔を覆って、こくこくと頷いた。
ローザが差しだしてくれた庇護と友情が、なによりもありがたかったのだ。
「すみませんでした、ローザ様。殿下も、本当に申し訳ございません。ローザ様……本当に、……ありがとうございます……っ」
「いいえ、全然」
ローザは、慈愛の天使のように微笑んでいる。
(腐腐腐……計画通り……!)
いや違う、彼女は作家候補を確保した喜びに、どす黒い笑みを浮かべているだけだった。
だが、偽りを見抜くはずのクリスは、それに気付くことができなかった。
なぜなら、ローザの言葉は、腐りきっているとはいえ本心の表れでしかなかったし、そもそも、クリスがそれどころではなかったからである。
(まったく、……彼女はなんて寛容で、慈愛深い人間なんだ……)
そう。クリスは、アリーナに見せた優しさはもちろんのこと、その前段でローザが口にした、「王女はこのままでよい」との発言に、強く心を打たれていたのだ。
うっかり潤んでしまった瞳を恥じて、彼女はこっそり目頭を押さえていた。
(ローザは、本心から僕の姿を受け入れてくれた。相反する要素……つまり、周囲に反抗したいと願う気持ちと、それでも踏み切れないでいる僕のこの葛藤を、ローザは見抜いたうえで、受け入れてくれていたんだ……)
残念ながら、ローザが受け入れたのはそんな深刻な葛藤ではなかったが、クリスはそう信じて疑わなかった。
刃物を持った人物相手に立ち向かっていったローザ。
中途半端な髪を、わざわざかばってくれた彼女。
躊躇い、思い悩むクリスの姿こそを、好ましいと言ってくれた。応援したい、守りたいと。
こんなにも丸ごと、自分の存在を受け入れてくれた人物が、ほかにいただろうか。
いや、いない。
そう思った瞬間、クリスの中で冷え固まっていた、周囲への敵意や苛立ち、そして、見捨てられていじけていた気持ちが、すっと溶け消えていくのを感じた。
今なら、刃を向けてきたアリーナのことも、こちらの反抗に巻き込んでしまって申し訳なかったと、素直に思える。
クリスはきゅっと口を引き結ぶと、懐からハンカチを取り出し、それをアリーナに押し付けた。
「使え。……いや、使ってくれ。おまえのものにしていい。僕の子どもじみた反抗で、おまえを追い詰めてしまってすまなかった。おまえが家に帰れないというなら、ラングハイムに逗留が実現できるよう、僕も協力する」
驚いてこちらを見るアリーナに、頷く。
それから、クリスはふと自分の唇を押さえた。
今となっては、頑なに「僕」と名乗る必要性も感じない。
自分もそろそろ、大人になるときだ。
(今度女物のドレスを仕立てて、「私」と名乗ってみようかな。ローザのおかげだと告げて。……べ、べつに、こいつの喜ぶ顔が見たいとか、そういうわけじゃないけど)
実現したら、ローザが悲嘆に暮れてしまうだろうプランをわくわくと練る。
そうと知らぬローザは、アリーナ誘致の援護射撃に心躍らせ、上機嫌で微笑んだ。
「殿下にもご協力いただけるなんて、本当に嬉しいですわ。アリーナ様、友人としてこれからよろしくお願いいたしますね。そうだわ、早速、お勧めの本があるのです。主人公は男性二人なのですが――」
勢いあまって、その場でうきうきとBL初級本の売り込みを始める。
が、
「姉様! なにごとですか!?」
その時、言葉を遮るようにして、激しい足音とともに突然部屋に踏み込んできた人物があった。
ベルナルドだ。
「あ……っ、ベ、ベベベ、ベルナルド……っ? ど、どうしたの? わたくし、べつに、やましいことなど――」
ローザは、最愛の弟の姿を視界に入れた途端、盛大に慌てだす。
まずい。
あれだけ禁止されていたのに、腐教、もとい、布教現場を押さえられてしまった。
冷や汗を浮かべるローザを、ベルナルドは、じっと検分するように見つめた。
「離宮周辺の警備をしていたのですが、膨大な魔力を練る気配がしたもので。何ごとかと思って飛んできたのですが――」
美しい水色の瞳が、にわかに剣呑な表情を浮かべる。
「なぜ、姉様の髪が、一筋切られていて……なぜ、耳から出血しているのです?」
「え、あ、そちら? ええと、それはその――」
「僕のせいだ」
口ごもるローザに代わって、クリスが一歩踏み出す。
王女相手にもかかわらず、ベルナルドが「どういうことです?」と睨み付けると、彼女はばつが悪そうに口を歪めた。
「僕のせいで、不幸な事件が起こってな。ローザは私を庇って、代わりに傷を負ったんだ」
「わ……私です! 私が、ローザ様を……! 申し訳ございません!」
被せるようにして、アリーナがその場に跪いて叫ぶ。
「いえあの、全然大したことはなくて、むしろ、わたくしがしたくて、したことなので……」
ローザもまた、焦った様子で割って入ったが、ベルナルドはそれを視線で遮り、溜息を落とした。
「港での一件のとき、もうこんなことはしないでほしいと、あれほど頼んだのに」
誰かを庇って、危険な目に遭いにゆくなとあれほど言ったのに、今回もまた同じことを繰り返していると、ベルナルドは一瞬で見抜いてみせたのである。
だが、やましさでいっぱいのローザは、彼の発言を、べつの向きに受け取った。
(ベルたんのこの、腐探知機能の精密さはなに!? この場にいなかったというのに、なぜわたくしがアリーナ様へ腐教活動をしようとしていたと見抜いているの!? 慧眼! でもつらい!)
弟が腐に厳しすぎる。
しかし、最愛の推しの怒りを買い、無視でもされたらと思うと、ローザとしては強く出られない。
うっと怯えたように口を引き結んだ姉を見て、ベルナルドはばつが悪そうに語調を緩めた。
「……べつに、姉様を責めているわけではありません」
(嘘つき!)
たった今、思い切り責め立てていたではないか。
だが、こういう理不尽でわがままなところも魅力的だと思えるので、本当に末期だ。
いや、考えてみれば、ローザが末期でない時などなかった。
「とにかく、今は傷の手当です。失礼」
と、なにかを思い切ったらしいベルナルドが、ひょいとローザの体を抱き上げる。
同じくらいの身長だというのに、まさかのお姫様抱っこだ。
ローザはぎょっとした。
「ベ……、ベルナルド! あなたがそんなことをしてはいけません!」
だって、ベルナルドは「される」側だというのに。
「なぜ? 僕だって、今や騎士の端くれなのに」
だが、ベルナルドは頓珍漢な――傍から見れば実に真っ当な――答えを寄越し、そのまま扉へと向かってしまった。
「ベルナルド! 下ろして!」
「いやです」
なんてことだ。
全然こちらの言うことを聞いてくれない。
夢見ていた「受け」的シチュエーションの一つ、お姫様抱っこを、まさか自分なんかに消費されてしまうだなんて。
ローザは心に大打撃を負った。
こんなミスキャスト、いったい誰の得になるというのか。
思わず涙目になったが、ベルナルドは険しい顔のまま、つかつかと部屋を出てゆく。
扉をくぐる直前、
「殿下、御前失礼いたしますが、ご了承いただけますね? そこのご令嬢も含めて、後ほど話はしっかり聞かせていただきますので、――そのおつもりで」
「あ……ああ」
彼は不敬にも、そんな言葉すら吐いてみせたが、それをたしなめられる人間は、クリスも含め、残念ながらその場にいなかった。