12.幕間
初秋の涼しい風がカーテンを揺らす、昼下がり。
巨大なタペストリーや重厚な家具を配した、いかにも豪華な部屋。
そのソファで、だらりと腕を垂らしたまま眠る青年の姿があった。
「レオン様。レオン様! なに眠っていらっしゃるんですか」
「――……ああ……? なんだ、カミルか」
側近の騎士カミルに肩を揺すられた青年――レオンは、面倒そうに瞼を持ち上げた。
「少しだけだ。あと五分か十分……または、五十分……」
「そんなこと言って、滑らかに眠りに戻ろうとしないでください。今日はお忙しいはずでしょう?」
再び寝ようとしたところを、カミルにぴしりと告げられ、レオンは仕方なく身を起こす。
くぁ……、とあくびをかきながら伸びあがる様子には、どこか野生の獅子のようなしなやかさがあった。
年の頃は、二十に少し届かぬほど。
それでいながら、すでに他者を従える貫禄を帯びる彼は、名を、レオン・フォン・ベルクヴァインという。
この広大なるベルク王国の王子であり、次期王と目される青年だ。
少し癖のある短い髪は、まるで燃える太陽のような黄金色をしている。
男らしく整った顔に、精悍な体つき。
中でもひときわ人目を引くのは、その力強い、金色の瞳だった。
神の威光を宿した金髪と、明るい色彩の瞳。
それらは、王侯貴族のステータスであると同時に、魔力の強さを示す物差しでもある。
色が明るければ明るいほど魔力が強い、つまり神の恩寵が深いとされるなか、彼の金色の瞳は、至高の身分を示すものであった。
「決裁ならすべて終えた。調書も向こう五日分までは読んで暗記してある。ということは、夕方の騎士団との模擬戦まで、俺の仕事はない。つまり昼寝の時間だ」
「十四時からの茶会を忘れられていませんか? お母君――王妃陛下の見舞いを兼ねた、ご令嬢たちとの茶会です。仕事が片付いているなら、息子としては、茶の一杯でも飲みに行かなくてはならないでしょう」
「媚薬入りの茶を、か?」
皮肉気に片方の眉を上げてレオンが笑えば、カミルはばつが悪そうに顎を引く。
「今回は、防いでみせます。毎回盛られては、第一騎士団としても顔が立ちませんので」
「まあ、俺の魔力がある限り、大抵の毒は無害だがな。こうも堂々と種馬扱いされると、さすがにげんなりする」
「……どのご令嬢も、それだけレオン様のことをお慕いしているのですよ」
「正確には、俺の魔力を、な」
レオンは軽く混ぜ返してから、滑らかな動きでソファを立った。
魔力とは、王侯貴族にだけ許された力であり、特権。
彼らの特別な身分を保証する、その優越性の源泉だ。
必然、貴族たちは亜麻色の髪よりも金色の髪を、栗色の瞳よりも淡い色の瞳を称える。
そんな彼らからすれば、王国始祖と同じと言われる、最も輝きの強い金色の瞳は、喉から手が出るほどに欲しい色彩だ。
その血統を引き入れられれば、家格が上がる。
貴族令嬢たちは、それだけでもこぞって、レオンの気を引こうとするのだった。
そのうえ。
「秋とはいえ、まだ日が長い。こんな明るいうちに瞳を覗き込まれて、発情されても困る」
鏡の前で、寛げていた襟元を直したレオンが溜息をつく。
そう。
あまりに強い魔力を帯びた瞳は、見る者の心を強く惹きつけ、狂わせる。
特に、その者が隠し持つ欲望や本性を、強く刺激し、露わにしてしまうのだ。
おかげでレオンは、淑やかに見えた令嬢が色狂いのように迫ってきたり、穏やかに見えた紳士が悪鬼のような形相で他者を蹴落としたりする様子を、何度となく目にする羽目になった。
「いっそ、平凡な茶髪に茶色の瞳だった頃に戻りたいものだ」
「レオン様……」
鏡から視線を逸らしながら告げるレオンに、カミルがそっと目を伏せる。
王子のこの奇跡のような色彩が、生まれつきのものではなかったということを、側近であり、従兄であり、親友でもあるカミルだけは知っていた。
むしろ誕生当初、レオンは王侯貴族の色彩を持たぬ赤子――忌子とすら思われていたのだ。
レオンの母ドロテアは、海を一つ隔てた属国から、その豊かな金髪と緑の瞳を見込まれて嫁いできた。
ただ王家の色を継承させることだけを望まれ、娶られた妃。
当然彼女は子どもの色彩を気にしたが、しかし生まれてきたレオンが持っていたのは、平民のような茶色の髪と瞳だった。
「侮られたし、国を追い出されたが、そのぶんのびのび暮らせたしな」
不貞の醜聞を恐れた妃は、生後半年の間だけレオンを離宮に隠し、体が弱いからと言い張って、親友となった公爵夫人以外には姿を見せようとしなかった。
その後は療養を名目に、己の母国にレオンを預けてしまったのだ。
そのため、幼少時の彼の姿を知る者は、このベルク王国内に数人しかいない。
預けられた先でもレオンの存在はほとんど伏せられ、王子に相応しい扱いは受けなかった。
ただ、レオンにとって幸いだったのは、王国内に比べて、属国はさほど魔力信仰が旺盛ではなかったということだ。
茶髪茶瞳のレオンは、王子として讃えられることはなかったが、同時に虐げられることもなかった。
結果、彼は下町の少年たちに混ざって遊び、商人の屋敷に居着いて金儲けを学び、衛兵たちに剣を教わりと、なかなか充実した日々を過ごすことができたのだ。
瞳や髪の色彩は異なれど、王家の血。
レオンはあらゆる面で優れた才能を発揮していった。
風向きが変わったのは今から三年ほど前、彼が十五になった年だ。
いよいよレオンの存在が無視できなくなってきたのを不安視した母の手の者が、彼に攻撃を仕掛けてきたとき。
前後を刺客に囲まれ、生命の危機に陥ったレオンは、そこで初めて魔力を覚醒させたのである。
獰猛な炎に怒涛の水流、風、雷、土、光。
高位貴族でも、複数持てば賞賛される属性の、ほぼすべて。
それをかなり高レベルで発現させたレオンは、そのときを境に金髪と金の瞳となった。
つまりそれまでの茶色い色彩とは、あまりに高濃度の魔力が凝縮された結果であったのだ。
それを理解した母親は、鮮やかに掌を返した。
これまで後継者と目していた第一王女や、打診をしていた養子などをすべて押しやり、熱烈な態度でレオンをベルクに迎え入れたのだ。
レオンは反発したが、属国で様々な層と交流し、逞しく育った彼は、皮肉にも王として高い適性を有していた。
そうして、彼は今や、誰もが憧れる理想の王子として、このベルクの王宮に居を構えることとなったのである――茶髪茶瞳の凡庸な少年だった過去を、完全に隠匿した状態で。
「……ま、冗談だ。曲がりなりにも王子として生まれてしまった以上、務めは果たさねばな。おまえからも託されたことだし」
レオンは肩を竦めて笑う。
実は三年前までは、王女クリスを後継者と見込みつつ、同時に、公爵家の長子であり宰相の息子でもあるカミルを、王家の養子とする話が持ち上がっていたのだ。
ところが、魔力覚醒を機に王妃がレオンを呼び戻したため、話は白紙になってしまった。
宰相は息子を手放す準備を進めていただけに、宰相としての後継者教育は施していない。
突然進路を宙ぶらりんにされてしまったカミルだったが、幸い、癒力を持つ彼を第一騎士団が熱烈に欲しがったため、彼は王子の側近兼、騎士団中隊長としての身分を確保するに至った、というわけである。
大人の都合で好き勝手翻弄されたにもかかわらず、カミルはそれを気にしていないように見える。
それどころか、身勝手な王妃が数年前から体調を崩しはじめると、癒力者として積極的に看病にあたるほどだ。
そうした従兄の姿を目の当たりにすると、レオンとしても、不本意ながら他者を蹴落として得た次期王の身分を、粛々と務めねばという気にさせられる。
少なくとも、カミルに報いねばと思うくらいには、彼も律儀なところがあった。
「実際、レオン様はほかの誰よりも強く、優秀でいらっしゃいますから。これらの書類とて、三日分の仕事にはなるかと思ってお持ちしましたのに」
「おまえの仕業か、カミル」
半眼になって突っ込みつつも、レオンは書類の束を取り上げ、カミルに押し付ける。
「だが、今回はなかなかに興味深い案件があったぞ。おかげで、退屈せず読めた」
「ああ。ラングハイム領の一件ですね?」
「そう。『薔薇の天使』とあだ名される伯爵令嬢と、突然見つかった下町育ちの隠し子が、ともに手を取り合って父親の違法奴隷売買を摘発。領内での迅速な裁判の上、伯爵は修道院送りに。子ども二人は、その責を負って自ら領地の一部を手放すことを王都に申し出たが、なんと領民たちが嘆願の署名を提出した――まるで物語だ」
レオンの話を聞きながら書類の束をめくっていたカミルは、その内容を拾い読んで目を見開いた。
「陛下は結局、伯爵領の維持を認めたのですか。ただし爵位を継ぐまでの三年間、弟のベルナルドには第一騎士団付きとして王宮で勤めるよう下命……ふむ、幼いうちにしっかり王への忠誠心を刷り込もう、といったところですかね」
納得したカミルに、レオンは「それより」と、報告書の一部分を指し示した。
「ここも読んでみろ。『姉のローザには、同期間、クリスティーネ王女の話し相手として離宮での勤務を下命』とある」
「おやおや、姉のほうも来るのですか。もしやこちらは王妃陛下の差し金ですか? あの方も、最近いよいよ王女殿下の性格矯正に躍起になっていますね」
「自身の病が一向に治らないものだから、子の行く末がにわかに気に掛かってきたんだろうよ。俺には結婚相手、妹には友人、と、勝手に手配してこようとする」
そう言うのは、「レオン王子の婚約者になれるかも」という餌に釣られて、頭の軽い貴族子女が毎月のように「王女殿下のお話し相手」として王宮に召し上げられているからである。
レオンは憂鬱そうな溜息を落とした。
カミルたち癒力者から成る宮廷医師団が全力を尽くしているにも関わらず、三年前から王妃の病状は一向に改善しない。
荒れ果てた肌、抜け毛、止まらない嘔吐と脱力症状。
元気な日もあるが、ひどいときには寝台から起き上がれなくなるほどだ。
そんな妻を見かねた王が、昨年は医術を得意とする異教の一族を、わざわざ侵略して連行してきたのだったが、それも早々に匙を投げられ、今や王妃の死は目前というのが王宮の雰囲気だ。
そして己の影響力が弱まっているのがよほど悔しいのか、少しでも病状がましとなると、王妃はやれレオンに婚約をけしかけ、娘のクリスティーネに友人を手配し、と、なにかと干渉しようとするのである。
「結局、王宮内では異教徒との衝突だけが増えて、俺は媚薬を盛られ、妹は親の息のかかった『友人』を押し付けられ。まったく、厄介ごとの玉手箱のような御仁だ」
実の母について、レオンは冷ややかに漏らす。
特に、王子として無理やり手伝わされた、異教の里――アプトの里侵略については、かなりわだかまりを抱いていた。
せめてと思い、規格外の魔力で無血開城させたし、焚書せよと息巻く教会を宥め、王宮図書室にアプトの文化品を保護したりもしたものだが、もちろんそんなことで、アプトからの憎悪は避けられない。
結局、王妃を起因として厄介ごとばかり増えてゆくのに、レオンはうんざりしているのだった。
「最近特に、王宮内に留まるアプトの癒術師――ラドゥの苛立ちは強まっているようだしな。騎士団の調べによれば、令嬢たちが盛ってくる媚薬の出どころは、あいつなんだろう? よほど俺の周辺を掻きまわしたいと見える。ああ、今度やってくるローザ嬢とやらも、彼の毒牙にかからなければいいんだが」
「まあ、レオン様ももう少し、癒術師殿に厳しく対処してもいいと思いますがね。どうせレオン様は手を出してこないからと、彼も高を括っているところはあるでしょう?」
カミルは困ったように指摘してから、報告書に視線を戻した。
「あ、ですが今回は大丈夫かもしれませんよ。なにしろこの『薔薇の天使』は、病弱なうえに、大層奥ゆかしく謙虚な女性だそうで。それってつまり、臆病な性格、ということでしょう? 少なくとも、野心ばりばりのご令嬢たちに比べれば、引き起こす厄介ごともましかもしれません」
「奥床しく謙虚、ねえ……」
だが、レオンは口元を歪めて呟く。
彼は再びカミルに向かって身を乗り出すと、「ここを読んでみろ」と改めて報告書の一部分を指し示した。ちょうど、ラングハイムの領民が、ローザたちの伯爵領維持を願って署名を提出したくだりだ。
「署名の総数、約三千……成人領民すべてということですか。凄まじい忠誠心ですね」
「そして凄まじい識字率だと思わないか。気になって調べてみたら、どうやら数年前から、この『薔薇の天使』なる娘が、領民に文字を教えていたというんだ。もっとも、今はまだ名前を書ける程度のようだが」
「それは、なんと……」
思いもかけぬ着眼点、そして真相に、カミルが目を瞠る。
レオンは報告書から離れると、今度はチェスボードの前に立ち、手慰みに駒を拾い上げた。
「ラングハイムの小麦の質は、五年ほど前から年々向上している。噂では、薔薇の天使――ローザ・フォン・ラングハイムが、魔力で腐葉土を拵えて、領内に行き渡らせているらしい。識字率向上に、地質向上。年端もゆかぬ少女が成したのだとしたら、なかなかのことだ」
「それは、たしかに……」
カミルは頷く。
話が本当なのだとしたら、恐ろしいほどの知性と、胆力を持った人物だということになる。
「それであれば、……レオン様の金の瞳の誘惑にも、耐えてみせるかもしれませんね」
「心にもないことを」
掌で駒を弄んでいたレオンは、肩を竦めながら、それらをボードに戻した。
「結局、この瞳の前では、どんなに聡明で高潔な人物も、醜い本性を露わにするんだ。違いがあるとすればせいぜい、その本性がどんな類の醜さか、というくらい」
手にしていたのは、白の女王と、黒の女王。
それを見下ろすと、彼は皮肉気に唇を歪めた。
「おまえは、『ラングハイムの薔薇の天使』を臆病な娘と見なした。俺は逆に強欲でずる賢い娘だと踏んでいる。あのじゃじゃ馬の王女を相手にするんだ、早晩正体は明らかになるだろうが――」
とん、と、彼はその二つともの駒を弾いてみせる。
白と黒の女王は、ころころと静かな音を立て、やがてチェス盤から転がり落ちた。
「まあ……それを見届けるのだけは、ほんの少し楽しみではあるかな」
言葉の割に、金色の瞳はさして楽しそうでもない。
耳に心地よい低い声には、なににも期待しない、乾いた感情だけが宿っていた。
俺様攻め、アーンド真面目攻め、登場。




