tomari
――私の中で何かが止まっている――
ある日唐突に思わぬ言葉を受けた千秋は、普段じゃ滅多に大きくすることのない切れ長の目を縦に縦に、見張った。
いつまでもいつまでも、その女を見つめた。
ブリーチされた金に近いアッシュの髪が波打ちながら腰まで流れている。つけまつ毛の施された瞼。上向きでも下向きでもない唇は、金魚のように小さくぽわっと開いたまんま。顔立ち自体は決して幼くないのに何処かこう、締まりが足りない。
年齢は……どうだろうか? 未成年と言われればそうだろうし、25くらいと言われたところでさほど驚きもしない。大体、化粧をばっちり施した女の実年齢を見抜くなど男にとっては至難の技と言えるだろう。
腕には三連のブレスレット、首にはやけに存在感のあるレザーのチョーカー。シースルーの袖が青白い素肌に描かれた何かの花を透かす。
それなりの美意識を有していることが伺える、だがしかし、よくよく見れば結構な隙が存在していることに気付くのだ。髪の毛先が白っぽくなって枝分かれしていたり、サンダルから覗くビビッドなブルーのペディキュアが禿げていたり……
何故かマニキュアの方は塗っていない。こちらはただ白いまんま伸び放題だ。こうした細かな部分に“残念”を見つけられる。完璧な人間など居ないだろうと言われちゃあそれまでなのだが、作り込んでいる部分が多い程に欠けた部分を探したがるのもまた人間の哀しいさがなのではないか。
気の強そうな顔を決め込んだって、決して強くはなりきれない女。
“トマリ”
散々話した後に女はそう名乗った。千秋は一瞬ばかり思考停止に陥った。
(仮にも仕事の間柄だ、普通は……いやしかし)
女の胸についたネームプレートを横目で見やると、聞いたものとはまるで違う綴りがあった。やはりな。千秋は気付かれないようにそっと苦笑を零す。
千秋こと、千秋カケルはアパレル会社の社員である。ずっと本社勤務を続けてきたのだが、社内の人員不足が深刻化した今年になって急遽店舗マネージャーを務めることとなった。年齢29歳。この業界では決して若すぎるということもない。
本社からさほど遠くない距離とは言え、慣れない地域に出向くことになる。更に店舗マネージャーと言っても、幾つかの店舗を掛け持ちで見なくてはならないという実質エリアマネージャーに近い状態。若い女性をターゲットとしたブランドが担当、ゆえにスタッフも当然若い女性ばかりだ。
「毎日毎日可愛い女の子たちに囲まれて働けるなんて!」
くっそぉ~、などと呻いて羨ましがる連中の声を聞くたびに、いい気なものだと千秋は鼻で笑った。馬鹿な、そんなお気楽な話ではない。女だらけの家庭で育った者ならこれが新たな苦難の始まりだと解釈するのは容易であろう。
担当となった店舗の一つは決して都会とは言い難い、かと言って田舎とも言えない、それなりに人の行き交いが多いベッドタウンと称される場所に在った。学校帰りの学生からベビーカーを押した主婦たちまで、幅広い客層が集うショッピングモールの中である。
データの整理をしたい。休憩も回し終わり、1日の中でも比較的人員が揃った時間帯に、千秋はタブレットを片手に店内から抜け出して休憩室までやってきた。
トマリとはここで出会った。
椅子があるにも関わらず片隅の床に座り込んで、壁にもたれてぼぉっと天井を眺めていた。見覚えのあるネームプレート。うちの店ではないかと気付いた千秋が営業スマイルを貼り付けて歩み寄ると、もうだいぶ距離が縮まったところでビクッと勝手に跳ね上がった。もう何度も呼びかけていたというのに。
「どうしたの? 今日出勤してたっけ?」
「……ヘルプから帰ってきました」
「そうか。嫌なことでもあった?」
「…………」
こうして思わぬところで元気の無いスタッフに遭遇するのもそう珍しいことではない。膝を抱えて丸まっている小さな女を前に千秋は納得の頷きを何度か繰り返す。
わりかし体育会系が多いとされるアパレル販売員だ。お客様に対してはもちろん、仲間にも笑顔で接して、悔しいことがあったときは人目に触れぬよう泣いたりするのだ……と。
「うちは個人売りもあるからね、ヘルプに行くのもプレッシャーかかるでしょ。プロ意識の高い店長はヘルプ先で一番を取れとか言うだろうし。だけどね、これも成長してほしいっていう君への思いやりから来てるもので……」
「お腹が空きました」
「へっ?」
「一服してきます」
何かスイッチが入ったみたいにすっくと立ち上がったスタッフの女は、慰めの言葉などまるで聞こえなかった風に喫煙所へと向かっていった。残された千秋はまさに宙ぶらりん状態である。
(いや、煙草ってご飯じゃないでしょ。ってか、喫煙者なんだ……意外)
普通なら目上の男が声をかけてきた時点で本社の人間かと察して身体を強張らせるものだろう。なのに彼女はどうだ、挨拶もしなければ名乗りもしなかった。
だけど不思議と腹が立つという感情には至らなかった。いいや、これが自分ではなく別の人間なら許さなかったかも知れない。ただ上司らしく胸を張って振る舞えるだけの経験も実績もプライドも、自分にはまだ無いだけだと千秋はこの一件を締め括ることにした。
それから数分後に戻ってきた女といくつかの話をした。そこで何やら意味深な言葉と、トマリという名を受け取った。
年齢も知った。
「27歳です」
なんと2つしか違わなかった。初対面の上司に対して姓ではなく名を告げるような女がだ。
この日から千秋は時間をかけて知っていった。
トマリは所謂“ギャップ”の多いタイプだ。
しかし彼女の隠し持っているギャップは決して“萌える”ものではない。
腹が減ったら煙草……これは単純に心配なだけだ。素直に栄養を摂取しろと言いたい。
抑揚の無い声色に無表情。礼儀を欠いた姿勢は社会に於いて不利でしかない。
酒には非常に弱く、カクテル一杯程度で効果は十分。可愛らしく酔うならまだしもイビキをかいて眠ってしまうときた。露出の多い服装まま、脚まで無防備に広げているのだから目も当てられない。色気? そんなものとは程遠い。
夏のセールが終盤に入るとブーツやストールを始めとした秋の小物が続々と入荷した。店長とサブは売り場を作り変えるので大忙しだ。若いスタッフたちはストック整理をしながらもその目はランランと輝いている。次に着るものを考えつつの作業なのだろう。
そんな中にぽつんと佇んでいたのがトマリだ。袋に入ったままの黄色いベレー帽を半分に折った彼女がおもむろに呟く。
「美味しそう。オムレツみたい」
いきなり何を言うのだと後輩たちは大笑い。店長は白い目である。
トマリは所謂“変わった人”だ。
“トレンドを取り入れた大人可愛いコーディネートの提案”をうたっている店内に、いつの日だったかごつい南京錠を首からぶら下げて出勤した。店長の指示によって、売り場に立つ頃には外されていた。ちょっぴり不満そうな顔に見えた。
「トマリンって束縛されるの好きそう!」
からかい気味の後輩からこんなレッテルを貼られても
「否定はできない」
真顔でこんな風に返してしまう。否定しないのか……と、あんぐりしていた千秋に気付いて首を傾げる。笑ってやり過ごすということをトマリは知らない。
こんな彼女にもどうやら彼氏が居るらしいことがわかってきた。そして彼女の繰り出す恋バナとやらはやはり何処かズレている。
「出会った頃は弟みたいだった。それがだんだん同級生っぽくなって、今はお兄ちゃん。このまま一緒に居続けたら多分そのうちパパになる」
やれ、この惚気……もとい、暗号をどう解読しようかと千秋はこっそり首を捻った。
これは彼氏がどんどん過保護になっていくといったところだろうか。いいや、それどころか束縛が激しくなっているのでは?
もしやあのいかつい南京錠を首にひっかけたのは彼なのではないか?
いつの間にか保護者のような心配をしている自分にふと気付いた千秋は、駆け抜けるむず痒さに身体を揺すった。
トマリは所謂“年齢不詳”だ。
若い後輩たちは彼女を先輩と思って接していないらしい。無理もないだろう。これを先輩と呼ぶにはあまりに頼りない。そして何より彼女自身に威厳を保つような姿勢が見られない。
店長は在籍しているスタッフの中から次期サブ候補を育てようとしている。現在のサブもそろそろ店長へ昇進して良い頃。意欲を示す若いスタッフたちの中で比較的年長者であるはずのトマリはぽかんと立ち止まったままである。
「あなたも目指すところを見つけなきゃね」
こんな風に語りかけてみても覇気の無い目をしたままなんだから、あの子は本当にどうしようもない……ぼやく店長はもはや諦めの境地だ。
千秋は時間をかけて知っていった。
出会ったあのときはよくわからなかった意味深な言葉の理由を少しずつ、少しずつ、確かに。
店長が手に負えないならもう自分しか居ない。ある種の責任感を得た千秋はトマリを休憩に誘った。妙な噂が立ったんじゃあどうしようもないからとそこは細心の注意を払った。
ある日の帰り道にトマリの後ろ姿を見つけた。声をかけてやろうかと思った矢先、彼女は一目散に人混みの中を駆け抜けて駅の構内に消えた。
どうやら乗り換えの駅までは一緒らしい。千秋は帰りの時間帯も合わせてみることにした。そしてこの選択は間違いではなかったのだとすぐに知る。
「あの人、怖い」
いつか一目散に駆け出した地点で下を向いたトマリが呟いた。千秋が顔を上げると、そこにはキャバクラのキャッチをする男が居た。
「なぁんだ、あれは……」
言いかけて千秋は口を閉ざした。
胸元で拳を握ったトマリが青ざめながらブルブルと震えていたからだ。
初めて出会った日、ちょっと声をかけただけで飛び上がった彼女の姿を千秋は思い出した。トマリにとっては上司だろうがキャッチだろうが、見知らぬ男に変わりない。そしてその存在は恐怖でしかない。何が原因かはわからないし、むしろわかったらそれこそ怖いような気さえした。
ただ一つわかること。
いつだってそう、受け流すということをトマリは知らないのだ。
時が流れて翌年の春……
が、来る前にトマリはこの店から、そしてこの街から姿を消した。
一年の中の大勝負、初売りが終わった後に体調を崩したことは聞いていた。そこから随分と情緒不安定に陥ったことも。
しかし人間の身体は一つしかない。複数の店舗を抱える千秋もさすがにフォローすることは出来なかった。もう長らく帰路を共にしていなかったことを思い出す。
退職の申し出を受けた店長はいつになく動揺してしまったそうだ。トマリの思惑は定かでない。むしろこの店長の方に千秋は自然と同情することが出来た。
新たな一年の始まり。更なる飛躍を目指したいこんなときになんてことを言い出すのだ。辞めるにしたってもう少しタイミングをわきまえられないものなのか。皆で一丸となって店を大きくする為にどれ程悩んできたことか……こんなところだろう。向上心の乏しい部下や手抜きをしたがる同期と直面するたびに、千秋もそんなやるせなさに苦しんできた。
そして空気の読めないトマリには通用しなかったのだろう。
「目標を持っていない人間はここに居ちゃいけないんでしょう?」
抑揚の無い淡々とした物言いに店長は悲しみと落胆を覚えた。そんな言い方、頑張っている人間に対して失礼ではないかと叱ったそうなのだが……
「店長が私を嫌いになっても、私は店長を嫌いたくはありません。ですから……」
深く深く頭を下げたトマリはこう言い放ったそうだ。
「別れて下さい」
言うまでもないが言葉の使いどころが明らかにおかしい。何故私がフラれたみたいになっているの、と店長が苦笑するのはもっともだ。
ところがしばらくして顔を上げたトマリを前に、店長はそれ以上を語れなくなってしまったそうだ。
「何が失礼なのかわからなくてごめんなさい。目標を見つけられなくて、生きることしか出来なくて、ごめんなさい」
限りなく無表情なトマリの頰の上をつうっと一筋の雫が伝い落ちたそうだ。
高い向上心を持つ店長は去っていったスタッフのことも簡単に忘れられはしないらしく、私はあの子にどうしてあげれば良かったのだろう、などとか細い独り言を零す。しばらく隣で考えてみた千秋だったが、結局は……
「いいんですよ、そのままで」
こう返しただけだ。実際、トマリは周りに何かしてほしかった訳ではないと思う。
初売りが終わった後も店内はそれなりに賑わっている。去年よりも業績が上がったと本社からもお褒めの言葉を貰った。
なのに何かが足りない。
作り込んだ部分が多い程に欠けている部分を探してしまう。人の気配で埋め尽くされているにも関わらず、何処ぞから隙間風が吹き抜ける乾いた気分の中……
「ねぇねぇ、千秋さん」
一人のスタッフが悪戯な笑みで尋ねてくる。
「ぶっちゃけ千秋さんって、トマリンのこと狙ってませんでした?」
(ああ、何が細心の注意だ)
呆気にとられたのは無礼とも言える質問をしたスタッフに対してではない。やがてクックッと短い含み笑いを零した千秋が一瞬ばかり目頭を押さえた。
見上げるスタッフは驚いている。その顔に傷心の者を労わるような憐れみが滲んでくる。
だけど答えははっきりしている。自分だけが知っている、もうそれで良いと開き直った千秋はほんの短い言葉で返すのだ。
「そういうのじゃないよ」
口にしてみると呆気なくひっくり返る。答えなんて本当はわからないのかも知れないと感じる矛盾。いいや、わかってはいけないのかも知れないとさえ思った。
本社の期待する業績と、スタッフとの良好な関係性、エリアマネージャーへの昇進の話。
あれだけ欲しくてたまらなかったものを一通り手にしたはずの千秋が今、思い出すのはただ一つ。ただ1日だけの記憶だった。
「私の中で何かが止まっている」
すぐに理解へ至らなかった千秋は、へぇ~などという気の利かない相槌を打った。名乗り合った後に年齢を聞いてみると27と言うものだから、ああなるほどと勝手に理解して、勝手な推測で適切と思える言葉を紡ぎ出した。
「27には見えないね。若いって言われるでしょ?」
だけど実際のところ、それは適切ではなかったようだ。
ぎゅっと寄せたトマリの眉の間には深い縦皺が走った。胸元を握って妙な呻きを漏らした。そんなの欲しくない……今思えばこれだったのだろう。
「いつからか正直であることが罪になってしまった」
「そ、そうかな? 潔くっていいんじゃない?」
「元々はファッションイラストを描くのが好きでした。ここへ来る前は、知り合いに依頼されて地域新聞の挿絵を描いたりしてました」
「へぇ! 凄いじゃん!」
「でもすぐにやめました。だって依頼される絵のほとんどが円満な家族像だったから」
「駄目なの?」
「はい、だって私はそういう家庭を知りません。似たような絵を参考にして嘘の家族を描いていたんです。自分の描いた絵を見るたびに気持ち悪くなってきました。上手いと言われても嬉しくなかったです」
「そうなんだ……で、でもさ」
「知りもしない幸せそうな雰囲気なんて、求められるのも嫌だった。私は私の砂でお城を作りたかっただけ。そこを大人の大きな足で蹴散らされた気分でした。嘘を見せるのも悪いと思いました。イラストレーターには向きませんね」
「う、うん」
あの頃はまるで話が噛み合っていなかった。トマリの持ち出す話が唐突すぎて、千秋は声をかけたことを少し後悔したくらいなのだ。
「大人は完成されたものを求めているのかなって思いました。夢のお城なんて実際には存在しないと思ってる。そんなのきっと興味無いんでしょ?」
自分も大人のくせに大人は……などと言う。小ぶりな唇を尖らせる仕草は、まるでやさぐれている少女のようであった。
これだって今思えばわかる気がするのだ。
「今度本社でマネージャー同士の交流会があってね、なかなか凄いんだよ。割と有名なホテルのロビーを使って今後の抱負とか目指すところとか、一人一人スピーチするんだ」
何度でも何度でも覆い被さってくる記憶を紛らわせようと切り出した。自慢とも取れる話を千秋が語り出すと、スタッフの子がすご~い! などという黄色い声を上げてくれる。
「それで千秋さんはどんな話をするんですか!?」
だけど結局戻ってしまう。スタッフのせいじゃない、他でもない自分が戻りたがっているのだと千秋はもう気付いている。
「正直が罪とならない世の中の実現、かな」
「わぁ! なんか壮大!!」
「……そうでもないよ」
本当にそうでもないのだ。なんとか仕事にこじつけて説明するんだろうけど……と、千秋は小さく自嘲する。続けてこう口にする。
「皮肉なことに大人は正直であればあるほど誤解されやすくなるんだ。正直でいなさいと教わって育ったはずなのにね」
――そうでしょ? トマリ。
実際のところ、これを届けたいのはただ一人。
約束をすることも叶わなかった、内側ばかり時を止めた大きな子どもなのだともう気付いている。