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亡き母へ、ただ一つ出来ること

作者: 東垣 結

皆さんには大切な人を亡くした経験があるだろうか。


私は3年前に最愛の母をなくした。


強く優しく、心から尊敬する母だった。


母は最後まで必死に病気と戦った。


そんな母から私は目を背けた。


母が私のためにしてくれたこと。

伝えてくれたこと。


それらすべてを後になって理解し、強く感じ、深く後悔した。


私は母を忘れてはならない。

母が生きてきた証を残しておかなければならない。


この文を読んでいるあなたに伝えたい。


どうか、大切な人を大切にしてほしい。


失ってからでは後悔が大きすぎる。


どうか、どうか、親を、家族を、友達を、大切にしてください。


私は小学校6年生の春、最愛の母を亡くした。


優しくて時に厳しく、心から尊敬する母だった。

どんな時も強く、どんな時も正しく、私が何かに悩んだ時は、必ず正しい答えを与えてくれた。

母が私の道しるべだった。


そんな母が死んだ。

あれほど強かった母の最期は、痩せこけて、喋ることもできなくなり、繋いだ手さえも力を感じないほど弱い姿だった。


死に顔は眠ったようだった、なんて言葉は嘘だ。

母の死に顔は血の気がなく、頬骨が出て、私の知っている母の顔ではなかった。



母を苦しめたのは、膵臓がんだ。

検査を受けた時は既に末期で、手遅れだった。

そしてそのがんは、母の体を少しずつ、だが確実に蝕んでいった。



日に日に母は容態が悪化した。

私はそれを見ることしかできなかった。

いや、見ることさえしていなかったのかもしれない。



母が死んだ今、私は大きな自責の念にさいなまれている。

後悔は消えることなく、むしろ大きくなるばかりで私を苦しめた。

それとともに、私の中から母が消えていきそうな、そんな恐怖にも包まれていた。


だから私は残しておこうと決めた。


母が残してくれたこと、伝えてくれたこと、忘れてはならないこと、母が生きていたということ。

全てこの文に残そうと思った。


それが唯一の恩返し、母への親孝行だと思う。













2012_10_14

寒かった。

まだ10月というのに私の前髪を揺らす風がとても冷たく、肌寒かった。

いや、もう10月と捉えた方が正しいのかもしれない。

ただ、とにかく寒かった。


当時私は小学5年生だった。

私立小学校に通い、登校はスクールバス。

バス内は暖房がついていたため、バスから降りると外の寒さに毎日身震いしていた。


この日も同じように、制服のポケットに手を突っ込み、肩を縮めながら家路を急いだ。

早く帰りたい、その一心だった。


当時の私は毎日学校から帰るとすぐに、母に向かってその日あった事を全て話すのが日課になっていた。

とにかく母が大好きだったのだ。

他愛のない話もとりとめなく聞いてくれ、何でも楽しそうに笑ってくれて、悲しいことがあった日は抱きしめてくれる、そんな母が大好きだった。


「今日はドッジボールで負けちゃったことと、給食のことと、それと、あと、うーん、何話そうかな」

家へ続くエレベーターの中で思わず声に出しながら、今日話すことを考えていた。

エレベーターを降りて左に曲がればすぐ我が家だ。

大好きな母の待つ家がある。


鍵を取り出して思いっきり開けて

「ただいま!」

と叫んでリビングにかける。


しかし、母はいなかった。


私が帰ってきた時に母がいないのは、その日が初めてだった。


少し不安に思いながらテレビを見ていると、母が帰ってきた。

「あら、ゆい、帰ってたの、おかえり」

母はいつもの笑顔を私に向けてそう言った。


その笑顔が嬉しくて飛び跳ねながら私は

「聞いて!今日ね、今日ね!」

と話を始めるのであった。


この日が始まりだったことなんて何一つ知らずに。




2012_11_03

母が体調を崩すようになった。

といっても、母は元々体調が悪かった。

きつい、と言って寝る日も多かった。

だから私は気にも留めなかった。

というよりも、母が構ってくれないのが寂しくて拗ねていた。

姉は中2だったが、この頃からすでに塾に入り浸っており、構ってくれる相手がいなかったのだ。


しかし、この日を境に母の体調はどんどんひどくなっていった。

ご飯を作ることさえきついと言い、祖母に家に来てもらうようになった。

父は海外出張が多く、ほとんど家にいなかったのだが、少しずつ、家に帰る日が多くなった。


母が布団で寝ることが多くなると、それと共に私も拗ねたり怒ることが多くなった。


「ママきついのよ、怒らないでお願い」

母が初めて私に泣きそうな声で言った。

私は反抗期だったのかもしれない。

そんな言葉も全く聞きいれず、余計拗ねていた。



2012_11_26


私の好きなおでんが食べれる時期になった。

しかし私は憂鬱だった。

なぜなら相変わらず母の体調が悪いままだったからだ。

祖母が私の家に来るのも、もう毎日になっており、私もそんな生活になれた。

ただ一つ慣れないことがあった。

それは、母が私のズル休みを許すようになったことだ。


母は私と姉を塾に入れていた。

私は塾が嫌いだった。

私の塾は毎月1回あるテストの成績でクラス分けがされる。クラスが落ちたら教科書が変わるため、買い替えなくてはいけない。その分お金がかかる。だから落ちてはいけない、そんなプレッシャーが苦しかったのだ。

だが母は厳しかった。

成績が下がると

「テスト前ちゃんと勉強してなかったでしょう。次は頑張りなさい」

と少し怒った顔で言われる。


だが、テスト前勉強して、それでも成績が落ちることもある。

そんな時は母は必ず

「惜しかったね。でもあなたの努力は次に繋がってるから大丈夫、頑張りなさい」

と言ってくれた。


母は常に厳しかったが、沢山応援してくれていた。


だがそれでも私はきつかった。

勉強が苦だった。

だから毎日のように

「塾休みたいなぁ」

「塾行きたくない」

と呟いていた。


そんなつぶやきはもちろん聞き入れてもらえず、いつもしぶしぶ塾に行っていたのだった。


しかし、この頃から塾を休むことを許されるようになった。


「休んでいい?」

と聞くと

「仕方ないねぇもう。」

と母は言うのだ。


無理して掃除しながら

「ちゃんと明日は行きなさいよ」

と言うのだ。


私は、体調悪くて少し気持ち的に弱くなってるのだろうか、と疑問に思いながらも母の言葉に甘えてしょっちゅう塾を休んでいた。



2012_12_05


母が入院した。

入院することは父から聞かされた。

「最近、体調悪いから治してもらうために入院するよ。でも少しの間だから大丈夫。」

父から聞いた時は驚いたが、さほど気にしてもいなかった。


母のいる病院は近かったため、よく御見舞に行った。


母は点滴を打っていたものの、割と元気だった。

やはり病院に行ったら治るんだ、幼かった私はそう信じて疑わなかった。


御見舞から帰ってきた後も母と電話して

「明日も御見舞行くからね!」

と伝え、

「ありがとね、待ってるよ、それじゃあおやすみ。」

と聞くまでは布団に入らなかった。


母の入院は2週間だった。

何回か御見舞に行けなかったものの、ほぼ毎日学校帰りに御見舞に行き、学校での事を話した。


母のベットで隣で寝たこともあった。


母が大好きだったのだ。



2012_12_25


母は退院したというのに、相変わらず体調が悪かった。

「治ってないじゃん」

と母にも父にも言ったのだが2人とも

「そうかな?だいぶ良くなったよ」

とごまかすだけであった。


大好きなクリスマスも家族4人で過ごすことが出来た。


今思えば、最高のクリスマスだったと思う。




2013_01_14


新しい年が始まり、冬も真っ只中。

相変わらず母の体調は変わらなかった。

変わったといえば、家政婦さんを雇ったことだ。


土日は祖母が家事をしに来るものの、平日は家政婦さんが家事をしてくれた。


私は母以外の人にあまりなつけず、家政婦さんとも仲良くなれなかった。


家政婦さんの出す料理は美味しかった。

毎日バランスのある料理で、飽きないように様々なものを出してくれた。


けれど私は好きになれなかった。


母の料理が1番大好きだったからだ。

どうしても母と比べてしまうのだ。


悪いと思いながらもほとんど残していた。



2013_01_22


「スマホ買おっか」

母が私と姉にそう言った。


私と姉は大喜びした。

その頃スマホが人々の間に普及し、周りの友達もスマホを持つ人が増えた。


私と姉はガラケーだったため、何度も母や父に買ってもらうよう頼んだのだが、いつもうまく流されたり、断られたりしていた。


しかし、母の方から買おうと言い出したのだ。


あまりの嬉しさに涙が出るほどだった。


「いつ行く?いつ買う?」

そう聞くと、

「なら明日携帯会社に行こうか」

と母も笑いながら行った。


母はその頃、在宅治療というものをしていた。

オレンジ色の小さい点滴ケースに繋いで歩いていた。


私はそれがなんなのかは知らなかったが、体調をよくする薬をつけてるとだけ聞かされており、それで治るのなら、と気にしていなかった。


次の日になり、学校から帰りすぐ母に

「早く行こう!早く!」

とせがんだ。


しかし母はきつそうに横になっていた。

そして

「ごめんね、今日はきつくて行けないかも」

と私に言った。


きつそうなのは見てわかった。

でも私はそれを聞いて大激怒。

相当楽しみにしていたのだ。


姉が

「仕方ないよ、きついらしいし」

となだめたものの、私の怒りは収まらず。


「なんで!昨日買いに行くって行ったじゃん、もうむかつく、消えろ!」

母に向かってそんな暴言を吐いた。

沢山吐いた。


母は一瞬悲しそうな顔をし、布団から立ち上がった。

弱々しい声で

「わかったよ、今から行こっか」

と言ってくれた。


いつもオシャレに気を配る母が、少しださめのジャンパーをはおり、オレンジ色の点滴ケースをバックに入れ、準備をし始めた。


私はスマホを買えることにワクワクしていた。


私は何もわかっていなかった。

本当に何も。



2013_04_11


新学期になった。

クラス替えもあり、新しい顔ぶれ。

今日も母に話すことは沢山あるな、そう思いながら学校から帰宅した。


母は自分の部屋で寝ており、私は隣に入り込んだ。


「あら、おかえり」

その言葉に笑顔があふれ、学校であったことを全て話した。

楽しくて、嬉しくて、あっという間に時間は流れた。


気づいたら6:00。塾が始まるのは6:20。家から塾までら10分かかる。

私は慌てて飛び起き、準備をし始めた。


この週にクラス分けのテストがあるため、休んではいけない授業があった。


慌てて焦りながら準備をする私に、父は送るから下で車を出して待っとくと伝え、家を出ていった。


私も部屋の中をバタバタ走りながら準備していた。

やっと準備が終わり、家を出ようとした、その時だ。


「ゆいー!」

私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

母だ。


こんなに急いでる時になんだ、と私はイラつきながら

「もう、なに?」

と立ち止まった。


「ちょっと来てくれる?」

母がそう言った。


私はイライラしながら母の部屋へ行った。

すると、母がベットの端に座って私を見ていた。


「何?何か用なの?」

私がそう聞くと、母は急に立ち上がった。

そして私を強く、抱きしめた。

母は細かった。

あまりの細さに声も出なかった。

こんなに細かったのだろうか。


私な驚いていたものの、塾に間に合わないかもしれないと焦りを感じ、母を押しのけた。

「もう、なんなの!」

少し怒った声で母を睨んだ。

母は

「ごめんね、行ってらっしゃい」

と笑って行った。

「はぁい」

無愛想な返事をして家を出た。




母が立つ事が出来たのはこの日が最後だった。




2013_04_28


母はもう全く動けなくなっていた。

ずっと部屋に寝たきりになった。


幼いながらに私も、何か感じていた。


感じてはいたのだ。

だが、認めようとしなかった。


認めたくなかった。

怖かった。



母はどんどん細くなっていった。

そして、どんどん優しくなっていった。

どんどん私と姉に甘えるようになった。


「ゆい、今日一緒に寝よう」

私にそういう日もあれば

「あかり、今日一緒に寝よう」

と姉にいう日もあった。


母が大好きな私は、暇な時は常に、母のベットで隣に寝ていた。

そんな私に

「あかりは何してるの?」

と聞き、

「もうリビングで寝たよ」

と伝えると、

「えー、今日はあかりと沢山お話したかったのにな」

という日もあった。


あんなに強く、厳しかった母の面影はもうどこにもなかった。

そこには優しく、弱く、やせ細った母しかいなかった。


私は何もわからないふりをしていた。




2013_05_03


母は喋れなくなっていた。

何かを喋ろうとしても、呂律が回らず、何を伝えたいのか聞き取れなかった。


この頃にはもう母は、自分の部屋ではなく、私と姉の寝ているリビングの布団で寝ていた。


父が歩けない母をお姫様抱っこで移動させたのだ。


母はもう何も食べなくなった。

いや、食べれなくなったという方が正しいのかもしれない。


何かを食べても後から吐いていた。


ほとんど目をつぶっていた。



2013_05_11


少し雨の降る夜だった。

いつものように風呂に入り、牛乳を飲んでいた時だ。

姉は塾に行っており、家には1人のはずだった。

突然、私を呼ぶ声が聞こえ、驚いた。父の声だ。

父はダイニングの椅子に腰掛け、私を呼んでいた。


いつの間に帰ってきたのだろう。そう思いながらも父と向かい合って座った。


重たい空気が私たちを包んだ。


その空気に耐えられなくなり、私は思わず下を向いた。


その時だ。すすり泣く声が聞こえてきたのは。


怪訝に思い、顔をあげると、そこには声を殺して泣く父の姿があった。


私が父の涙を見たのはこの日が、最初で最後だ。


いつもは厳しく、威厳のある父が、肩を震わせて泣いている。

驚きのあまり、ただただ父を見つめることしかできなかった。


父はハンカチで涙を吹きながら息を吐いた。

そして少しずつ話し始めた。


「ママはね、ガンなんだよ。見つけた頃にはもう手遅れだった。末期だったんだよ。」

静まり返った部屋に父の声は嫌なくらいに響いていた。

胸の鼓動が収まらず、嫌な汗が背中を流れた。


父は静かに泣きながら続けた。

「本当はね、年を越せないだろうって言われてたんだ。でもほら、ママは強いだろ。喧嘩してもパパが負けちゃうくらい口も強いし、根が強いだろ。だから頑張ったんだろうなぁ、年も越したし、こんなに生きてる。」

何を言い出すのかわかる気がした。

聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。

しかし、体が動かなかった。

まるで金縛りにあったかのように、私の体は固く、冷たくなっていた。


「ママは、ママはね。もうダメかもしれない。一週間もつかわからない。」

父は嗚咽をこぼしながら私にそう告げた。

気づけば私は涙をこぼしていた。

目の前が真っ暗になる、とはこういうことなのかもしれない。

手の震えを感じた。


何を言っているのか、理解はできた。

ただ、納得はできなかった。


「なにいってんの、どういうこと」

やっと出た言葉は震えていた。


「ごめんなぁ、伝えてなくて」

父は泣きながら私に謝った。

いつもの無口な父はどこへ行ったのだ。

いつもの怖い顔をした父はどこへ行ったのだ。


「なんで、ねぇ、なんで先に言わなかったの、言ってたら変わることだってあるじゃない」

私は父を責めた。

泣きながら責めた。

自分のしてきたことの後悔を父のせいにするように責めた。

父は子供のように泣きじゃくった。


「ママが、ママがね。最後までゆいには伝えるなって言ってたんだ。ママは、最期までゆいの心からの笑顔が見たかったんだよ」

その言葉を聞いて、震えが止まらなかった。


「言わなくてごめんなぁ」

壊れた機械のように父はその言葉を繰り返した。


なにが最期だよ、ママが死ぬわけないじゃないか。

声にならない叫びは私の涙と変わり、私は迷子になった赤ん坊のように声を上げて泣いた。


母がリビングで寝ているというのに、声が止まらなかった。

父も泣いた。


涙が止まらなかった。

胸が締め付けられた。苦しかった。


その時だ。

「ゆい、ゆい」

母の声がした。

呂律の回らない口で、必死で私を呼ぶ声がした。


私は泣きながら母の元へ行った。

母は私を見て、また何か言った。

必死で何かを伝えようとしていた。

「電話をかけて。村上さんに。」

やっと聞き取れた言葉に私はとりあえず頷き、村上さんに電話をかけた。


村上さんは母がママ友の中で1番仲が良く、姉と同級生の娘、私より一つ上の娘を持つ、家族ぐるみで仲の深かった友達だ。


私は慌てて電話をかけて母の耳に電話をあてた。


「はい、もしもし、どうしたの?」

電話の奥から聞き慣れた村上さんの声が聞こえた。


「ゆいを、ゆいをお願いね」

母が言った。

何度も何度も電話に向かって言った。


「ゆいを、お願い。ゆいを、お願い」

私は電話を持ちながら涙が止まらなかった。

母から目を背けた。

胸が痛かった。


「ゆいがね、ゆいがね、泣いてるの」

母は何度も同じ言葉を繰り返した。


「ゆいがね、泣いてるの。お願い、ゆいをお願い」

母はこんなに弱った体で、最後まで私のことをお願いしていた。


喉の奥も締め付けられた。

母は私のことを思っていた。

いつも私のことを思ってくれていた。


私はそんな母に怒ったり、すねたり、突き飛ばしたり、なんて事をしたのだろう。

何一つ親孝行できなかった。

どれほど馬鹿なのだろう。

自分を責めても責めても責めきらなかった。


母も泣いていた。

泣きながら何かを伝えていた。

もう何を話しているのかわからなかった。


私は電話をきった。


その日、私は寝れなかった。




2013_05_14


母が死んだ。


父から

「もう危ないから一週間学校休みなさい」

と言われ、私と姉は学校を休んでいた。


在宅治療の担当医が母の容態を見て、私と姉と父を呼んだ。

「もういよいよです。側にいてあげてください」

私は母の手を握った。

父は祖母と祖父を電話で呼んだ。


恐ろしく長い時間かのように感じた。


母は浅い呼吸を何度も繰り返していた。


私と姉は何も言わずただ母の手を握っていた。


祖母と祖父が慌てて家に来た。


2人が母のそばにより、家族全員で母を見守った。


祖父と祖母が来た数分後、母は息を引き取った。


「午後0時13分。ご臨終です。」

担当医がそう言った。


握っていた手はまだ暖かく、今にもまた呼吸をし始めそうだった。


「お母さんお父さんが来られるのをきっと、待っていたんでしょうね」

担当医の言葉に、祖父と祖母が泣き出した。


その姿に私の何かがプチっと切れ、泣き叫んだ。


「ママァァァァァァァ」

何度も叫んだ。何度も手を強く握った。


私が握ると必ず強く握り返してくれた母の手は、いくら待っても強く握り返してくれなかった。


姉も泣いた。

父も泣いた。


母はそれでも息を吹き返さなかった。


母は死んだ。


あんなに強かった母の最期は、痩せこけて、喋ることもできなくなり、繋いだ手さえも力を感じないほど弱い姿だった。


死に顔は眠ったようだった、なんて言葉は嘘だ。

母の死に顔は血の気がなく、頬骨が出て、私の知っている母の顔ではなかった。





母は強かった。

どんな時も正しかった。

どんな時も私に正しい答えを導いてくれた。

悩んだ時、母の言葉があれば強くなれた。

不安な時、母に抱きつけば不安なんてすぐに消えた。

悲しい時、母が優しくなでてくれれば何ともなくなった。


母は強かった。

母は勇敢にがんと戦った。

私に弱音なんて吐いたことがなかった。



後から聞いた話によると、母ががんの宣告を受けたのは、10月14日、私が学校から帰ってきた時初めて母が家にいなかった日のことだったそうだ。


あの時母は、どんな思いで私に「おかえり」と言ったのだろう。

どんな苦しみを隠しながら私に笑顔を向けたのだろう。

どんな思いを隠して私と話していたのだろう。


母が立てなくなる前日、抱きしめてくれたあの日、どんな思いで私を抱きしめたのだろう。

立てなくなることがわかっていたのだろうか。

立てなくなる前に、最後に、と私を抱きしめたのだろうか。

そんな母を押しのけた私をどんな思いで「行ってらっしゃい」と見送ったのだろうか。



ヒントはすぐそこにあった。

海外出張の多い父が家にいることが増えた。

祖母が家事をするようになった。

母が急に優しくなった。

母が入院した。

母が在宅治療を始めた。

母が私を抱きしめた。

母が立てなくなった。

母が「一緒に寝よう」と言うようになった。

母が喋れなくなった。

母がリビングで寝るようになった。

母が何も食べられなくなった。


すぐに気づくようなヒントがすぐそこにあったのだ。


私はそれに気づかなかった。

いや、気づかないふりをした。


嫌なことから目をそらした。


現実と必死に戦うは母から目をそらした。


信じたくなかった、受け入れたくなかった。


母はどんな思いで私を、私たち家族を残していったのだろう。


こんなに親不孝な私をなぜあんなにも愛してくれたのだろう。


私には後悔しかなかった。



母が死んだ日の夜、母の携帯を見た。

母がママ友とメールのやり取りをしていた。

中身はすべて、私と姉のことだった。


「あの子達をおいて死ねるわけがない!」

「私は強いよ、ガンになんて負けないよ」

「絶対ガンに勝つよ」


母は1度も弱音をはいていなかった。

それどころか、諦めていなかった。

母は生きることを信じていた。


泣きながら母のメールを読み終わり、ふと目に入った写真のフォルダを開いてみた。


写真はたったの9枚。

何だろうと開くと、そこには私と姉の写真しかなかった。


ふてくされた顔で携帯をいじる私の横顔。


ピアノを弾く姉の横顔。


私と姉が話している時の顔。


どれも私と姉の何気ない一瞬の写真だった。


母はどれだけ私たちのことを愛してくれたのだろう。


間違えて撮ったのであろうたった1秒の動画。

「あっ」

母の間違えた、とでもいうような言葉が入っていた。


ああ、母の声だ。

大好きな母の声だ。

少ししわがれて、少し低い、大好きな母の声だ。


母は私たちを愛してくれていた。


母の強い愛を感じた。


いなくなってから気づく大きなものに、私は後悔してもしきれなかった。




2013_09_30


母が亡くなってから4ヶ月。

母が亡くなった当初は気にかけてくれていた周りも、今はもう何事もなかったかのように過ごしている。


それが無性に悲しかった。


母が死んだ現実は時が経てば忘れ去られるものなのだろうか。


私は母への後悔でいっぱいで母を忘れる日なんて1度もなかった。


忘れようとしても忘れさせない日々がそこにはあった。

授業参観、親とのフォークダンス練習、修学旅行説明会。

見渡せばみんな母親がいる。

私だけいない。


毎日、毎日、現実を突きつけられた。


この日もそうだった。

この日は私の誕生日だ。


毎年家族で祝ってもらっていた誕生日。

今年は母がいない。


母がいなくては意味が無い。


大好きな母を失った私は、心にぽっかり穴が空いたかのように、何事にも本気になれなかった。


誕生日の夜も、姉からのプレゼントをもらっても、嬉しい、と感じることさえできなくなっていた。


父はまた海外出張が多くなった。

母の看病の為に会社を休んでいたのだな、と改めて感じさせられて苦しかった。


今年の誕生日はこんなに寂しいものか。

思わず笑いが出るほど寂しい誕生日が終わろうとしていた。


「プルルルル」

突如、私のスマホがなった。

スマホを手に取ると、村上さんからの電話だった。


母が亡くなってからというもの、村上さんは本当に私によくしてくれていた。


寂しくないようにと学校帰りにショッピングにつれていったりしてくれたいた。


そんな村上さんからの電話に驚きつつ、私は電話に出た。


「少し降りてこれる?今ゆいの家の下にいるのよ」

村上さんは電話の奥でそういった。


誕生日プレゼントだろうか、少し期待しながらも、私はマンションの下へむかった。


村上さんの車から、村上さんが出てきた。


その手には大きな風船と何やら小包があった。


「はい、誕生日プレゼント。家で開けてごらん」

嬉しそうに村上さんは私に、それらを渡した。


私はなんだか嬉しくなり

「ありがとうございます」

と頭を下げ家へ入った。


少しだけ嬉しく感じた。

久々、嬉しい、と思えたことにもまた嬉しくなった。


家に入り、姉に

「もらったんだ」

と見せびらかせた後、もらった小包をあけた。

姉も

「なになに?」

と興味津々に除いてくる。


小包の中にはケーキと、何やら1枚の折りたたんである紙が入っていた。


「なにこれ?」

不思議に思い、紙を開いてみた。


その紙を見て、私は驚きのあまり、声が出なかった。

その紙にはこう書いてあったのだ。


「ママの大切なゆいへ。

12歳の誕生日おめでとう。一緒に祝うことができなくてごめんね。本当は一緒に祝う予定だったんだけどね、ごめんね。

ゆいもついに12歳だね。もう来年には中学生かぁ。ママもゆいの中学生姿見たかったです。

ママはね、ゆいの頑張り屋さんなところ、負けず嫌いなところ、頑固なところ、でも本当は人1倍傷つきやすいことだって沢山知っています。プライドも高いし、敵を作りやすいことだって知っています。

だからね、ちゃんと見守っているから、何事も逃げずに挑戦して欲しい。ママはそばにいて応援はできないかもしれないけど、ちゃんと見守っています。

ママの子供なんだから強いでしょ!ゆいなら大丈夫。頑張れ。 ママより」


私は声を上げて泣いた。


母を亡くしてからこんなにも泣いたことはなかった。


泣いて泣いて、泣きまくった。


母の優しさに涙が止まらなかった。


姉もそれを見て涙ぐんだ。


その時村上さんからメールが届いた。


「ゆいのママからね、もしいなくなったらあげてほしいって私に預けてたのよ。ゆいのママはゆいのためにまだまだ沢山沢山残してることがあるのよ。負けていられないよね。頑張れゆい。」


そのメールを読んで更に泣いた。


強くならなきゃ、そう思った。

学校で抜け殻のように過ごし、笑うことも忘れ、生きる意味がわからなかった。

母のいない現実に生きていたくなかった。


そんな私に母は、生きろと伝えている。

負けるな、頑張れと、伝えている。


強く背中を押された気がした。

私は前を向こうと思った。




2016_現在


母を亡くして3年。

まだ3年。もう3年。やっと3年なのかもしれない。


あれからいろいろと変わった。

私と姉は県外に引っ越した。

姉の受かった私立高校が県外だったため、私もついてきたのだ。

身の回り、友達、何もかもがかわった。


ただやはり、変わらないのは母への気持ちだ。

まだまだ寂しくもなるし、苦しくもなる。


でも母は私に会いにきてくれる。


母は、私の夢によく現れるのだ。


母を亡くした当日の日。

泣きまくったため、すぐ寝れたあの日。

夢の中で私は母と鬼ごっこをしていた。

しばらく駆け回り、疲れきった頃、私の家の前で母が「ここでお別れだね、じゃあね、またね」と言い、消えていく夢だ。


今思うと、母が私に別れを告げたのだろうな、と思う。

ちゃんとお別れをしに来てくれたのかもしれない。


また、母の日だったり、授業参観など、母がいない寂しさを強く感じる日の夜、母はよく夢に現れる。


つい先日。確か母の日だ。

夢の中で母が現れた。

今、住んでいる新しい家で母が皿を洗っている。

私はその時、母を亡くしたことを理解していて

「なんで?え、なんでママ?なんでいるの?」

と呟いた。

母は振り返り、皿洗いを済ませ、笑いながら私に向かって歩み寄ってきた。

私は泣きながら母を抱きしめるという夢を見た。


目が覚めると、自分を強く抱きしめながら泣いて「ママ…ママ…」と呟いていた。


かなりリアルだったのだ。


その話を姉にすると

「ママはゆいに会いに来てくれてるんだろうね。ゆいはママに甘えん坊だったもんなぁ。やっぱりまだ心配なのかもね」

と苦笑しながら私に言う。


やはり、そうなのかもしれない。

母を亡くしてから月日は沢山流れたけれど、やはりまだ苦しいものもある。


母を忘れてしまいそうで怖い日もある。


この間、ふと母の携帯はどうなっているのだろう、と思い電源をつけてみた。


メールを開いてみた。


全てのメールが消えていた。


きっと母の携帯が解約されたのだろう。


無性に悲しかった。無性に寂しくなった。


母が生きてきた証が消えていく気がした。


私の中の母も、もうどんな声か、どんな顔か思い出せないでいる。


写真を見たらもちろんわかる。

だが、頭の中で描こうとしても無理なのだ。


それが怖くなった。


あんな大好きなだった母を私はこんなにも簡単に忘れてしまうのだろうか。


こんなにもいとも簡単に忘れていいのだろうか。



私は忘れたくない。


そう思い、この文を綴ることにした。


母が生きてきた証があることを、残しておきたい、だからここに綴った。


私は忘れてはならない。

母への後悔を、母への愛を、そして母からの沢山の愛情と優しさを。

文章にまとまりがなく、読みにくいものだったかもしれません。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


母が私に残したものはまだまだ沢山あります。


母のように残していく者、私のように残された者はどちらが辛いのでしょうか。


私はこの3年、苦しんで苦しんで、私ばかりが苦しいものと思っていました。


しかし、自ら別れをし、去っていく者の思いはどれほどの辛さなのでしょうか。


大好きな家族と自ら別れをする、その苦しみはどれほどのものなのでしょうか。


私にはわかりません。

母ともっともっと、話しておくべきだった。


後悔ばかりが大きくなります。


後悔してからでは遅いと思います。


みなさんは大切な人を大切にしてください。

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― 新着の感想 ―
[一言] 昨年9月にすい臓ガンで母を亡くし、涙しながら読みました。僕は今45歳。いつも頭の片隅に母がいます。今でも時々泣いています。 僕もゆいさんと一緒で母とはよくケンカもしました。言いたい事を感情の…
[一言] 読んで涙が止まりませんでした。 私の母も膵臓癌で、今月の4日に亡くなりました。 強く、優しく最後まで生きようと頑張ってくれました。 もっと生きたかっただろうと思うと辛いです。 ゆいさんは立派…
[良い点] 母が大好き [一言] 私も最近大好きな母を亡くしてしまいました。ゆいさんの気持ち、少なからず共感します。母が安心出来るように、前を向いて行くしかないのかもしれませんね。きついですよね。
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