1 混沌
眠りの森からはすでに追い出されていたのに、まだそこにいるふりを続けた。
膀胱の懇願も、胃の切望も、無視だ。気づいてない。だって私は眠っているのだから。
その努力になんの意味がある。むなしい。ばからしい。わかっていても、引き延ばしたかった。やがて来るそのときを。
なのにずれた毛布を掛けなおそうとした拍子に、うっかり離れてしまった私のまぶたったら。
ああっと思ったときにはもう遅かった。
見てしまった。
外は雨。カーテン越しの光は朝とは思えぬほど頼りない。なのに、そんな薄暗い中でも浮かび上がってしまう景色。一言で表すなら混沌。あるいは怠慢。それとも諦め。さもなくば。
もしかしたら私はこの瞬間を嫌って、どの朝もぐずぐずと起床をためらうのではあるまいか。そのくらいこの眺めには私のエネルギーを奪う力があった。
いったいこの部屋でなにがあったというのか。引っ越しの直前。大地震の直後。泥棒がひと仕事。あるいは。そうでもなければ許されないような有様なのだがしかし、特別なことなど何も起こらなかった。
あらゆる場所にモノがあふれ、あらゆるモノがあるべき場所にない。いつもだ。程度の差こそあれ、これがこの部屋におけるところのあたりまえ。
この手の部屋をこしらえる人がよく口にする言い訳を、私も言おう。どうしてこうなってしまうのか、どうしてもわからない。何度片付けても、いつのまにかこうなってしまう。
ここで私は寝起きしている。ここで食事をし身支度をして会社に行く。そんなことが可能なのか。できてしまうのだ。扉に鍵をかけてさえしまえば、こんな部屋など存在しないようなふりをしてしまえるのだ。
いやもしかしたらできていないのかもしれない。自分では隠しているつもりでも、もしかしたら人は背後から私を笑っているのかもしれない。
空しい努力を続ける理由が無くなったので、起き上がった。まずは膀胱の命令に従うため。
足の踏み場もないと形容される部屋ではあるけれども、けもの道はある。住んでいる人間にだけ見える道だ。それでも時々何かを踏む。輪ゴムやハンカチだったらいいけれど、ボールペンのキャップだったり耳かきだったりするとちょっと痛い。
そそくさと用を済ませるとまたふとんに戻った。
寝直すつもりはないし、そうなったら困る。でもしかたない。だって寒い。冬までにはまだ余裕があると思っていたのに、雨のせいだろうか、今日はまたぐっと気温が低い。
なのにいま、この部屋で私を暖めてくれるものはといえば、まだ温もりの残るこのふとんしかないのだった。
エアコンはもうずっと動かない。どうも反応が鈍いなと思っていたら、ある日ついにいくらボタンを押しても作動しなくなった。リモコンには何らかの異常を示すランプと謎の英数字が表示されるばかり。英数字の意味するところを解析しようにも取扱説明書はこの堆積のどこかで行方不明。修理の人を呼ぼうにもこの部屋を開陳するのはさすがのわたしもためらわれた。
もう少しまともな状態にしてからと先延ばしに先延ばしを重ね、そろそろ一年になる。
いくら雪が積もらないような地域ではあっても、冬は冬。暖房器具なしでは過ごせない。去年は小型の電気ストーブを買ってしのいだ。ふとんのまわりだけ暖めていた。
今年は使えないかもしれない。どこにあるのかはわかってる。去年と同じ場所にそのままある。埋もれているだけ。壊れたのでもない。春の初めまでは問題なく使えていた。なんなら新しいのだって買える。でも使えない。なぜか。モノが増殖してストーブの周囲のゆとり空間を浸食してしまった。いまのこの部屋でそんなものを使おうものなら、火事を出す覚悟が必要なのである。
せめて重ね着をしたいところだけれど、厚めのトレーナーもフリースの靴下も、いったいこの部屋のどのあたりのどの地層に埋もれているものか。あまり新しい年代にはないだろう。ジュラ紀あたり。春物と夏物が上に堆積しているはずだから。
いつだったか虫歯がひどくなったとき、はじめは歯のことばかり考えていた。だけどそのうち忘れてしまい、ものすごく痛むときだけ思い出すようになった。あれは脳みそが慢性的な痛みの感覚を省略してしまうんだそうだ。
それならこの部屋にいるときのわたしも、きっと何かを省略しているのだろう。ふだん何も感じないでいられるのだから。
そして何かの拍子で魔法が解けてしまうと、嫌悪でいっぱいになるのだ。いまみたいに。
なぜ我慢できたのだろう。埃や髪の毛でいっぱいのこの場所で、いったいどうして平気で食べたり眠ったりできていたのだろう。
でもね。言い訳させてもらうと、昨日まではこんなにひどくはなかった。
泥棒でさえ何も探せず諦めて帰ってしまいそうな部屋でも、それなりの秩序はあった。たしかアレはあそこ、アレはあっちというふうに、モノと私は記憶という細い糸でつながれていた。たとえ蜘蛛の糸のような脆く儚い糸であったとしても。
なのに昨夜、その糸さえ千切ってしまった。もうわからない。なにがどこにあるものやら。
幾つも並べた段ボール箱や紙袋には、糸を千切られたモノたちがつっこんである。おおまかには分類した……つもりだったんだけどね。眠りをはさんでしまったせいか、どんな根拠の分類をしたのか定かには思い出せない。
未だ混沌の海にたゆたっているモノたちは、その数倍ある。
そもそもはきのうの仕事の終わり際のことだ。私はふとカレンダーに目をとめ、ああ明日から三連休なのだっけと思い当たった。
「そうか。三日間、なにも予定がないんだ」
部屋を散らかしている人にありがちな習慣だが、私はやたら外出が多い。休みの日は外にいる。家が居心地悪いからなのか、現実逃避したいからなのか。家から出ないと元気にならないからなのか。
もともとの予定では、きのうは会社の帰りに映画を見てくるはずだった。外でごはんを食べてくるつもりだった。
それがどういうわけか会社からまっすぐ近所のスーパーに向かい、食料品と一緒に大量のゴミ袋だの住居の洗剤だのを買い込み、勢い込んで帰宅してしまった。
夕食を取ることも忘れて猛然と片付けを始め、はっと気づくとすっかり夜が深くなっていた。
それまでは頭から変な物質が分泌されていたのか、ぐいぐい動いてちっとも疲れなかったのに。
我に返ってしまった理由はわかってる。壁につきあたったからだ。すぐには解けない難問。
ふと気づくと部屋は前よりもずっとしっちゃかめっちゃかになっていた。
これは片付く前の一時的な状態、これからどんどんきれいになるんだってば。言い聞かせてもあまりにもひどく、この後始末が三連休で終わるとはとても思えず。
急になにもかもがいやになってしまい、そのままふとんにもぐりこんだ。
その結果が、これ。
逃げたい。着替えて出かけてしまいたい。文字通り山積みになっている問題をすべて明日のわたしに押しつけて。
だけどだめだ。踏みとどまらなくてはいけない。
ここまでしっちゃかめっちゃかにしてしまったからには、週明けから会社に行くことさえおぼつかない。
財布の入った鞄と、定期券の入った上着と、部屋の鍵を、私はこの混沌のどこかに行方不明にしてしまったのだから。
「なろう」初投稿です。あんまし「なろう」向き作品出ないのは自覚してます。せめて改行を増やしてみました。