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 翌日の木曜の昼下がり、祐一郎は成関市の国道を走るバスに乗っていた。疲れていたし、体じゅう痛いし、ペットショップで買った三十センチ四方の水槽が、原付に乗せるには大きすぎるからだ。

 昼前に目を覚まし、あわてて高校に電話すると、体調不良により欠勤という連絡がすでに入っており、祐一郎は心のなかで剣治に手を合わせた。

 バス停から宿泊所まで、祐一郎は水槽を何度も道ばたに置き、傷のいえない両足をふらつかせながら、たどりついた玄関にすべりこんだ。

 ほんとうは、実験には金魚よりもハツカネズミやカエルが欲しかった。だけど、祐一郎には、とにかく時間がなかった。アンプルを失ったことに気づいて、彰良がいつ襲ってくるかわからない。宿泊所からいちばん近いペットショップで、一種だけ大量に売っていた体長2センチくらいの金魚を、祐一郎はバカみたいにたくさん買った。年配の男性の、マスクをかけた店長に代金を渡すと、しゃがれた声でお礼をいわれた。アパートに帰るのは気がすすまなかったけど、ほかに使える場所がないので仕方がなく、祐一郎は部屋に戻った。そのかわり、出来るだけ手早く済ませて、カプセルホテルかどこかへ逃げ出すつもりだった。

 五匹目の金魚に注射を行ったとき、初めて変化があらわれた。それまでの四匹はみんな、腹を上にして水面に浮いていた。

 金魚の赤かった鱗の色が白く、黒かった目が真っ赤になり、異様な速度で水槽のなかを泳ぎまわる。金魚の変化は祐一郎にサトリを連想させた。

 変異した金魚は二、三分泳いでたと思うと、ほかの金魚の一匹にむかって体当たりをしはじめた。あきらかにそいつは、たくさんいる金魚のうちの一匹だけを狙った。体当たりを受けたほうの金魚は、水槽のガラスに何度か体をぶつけ、動きが鈍っていった。獲物が十分によわると、変異した金魚につぎの変化が起きた。例の触手みたいなものを頭部からつき出し、その先っちょを、弱った金魚の頭に突き刺す。刺された金魚が、ひれをばたばたさせながら、動かなくなる。刺し殺したほうは、まるで考えごとをするみたいに、水中で動きを止めた。

 それから、最後に、その金魚は祐一郎に飛びかかった。水面から飛び上がり、一直線に祐一郎のコメカミにぶつかる。

 予期していなかったので、祐一郎は反応が遅れ、座っていた椅子ごと仰向けにひっくりかえった。片手で頭をおさえて上体を起こすと、手のひらにぬるりと血の手触りがする。あわてて金魚をさがすと、床のうえでぐったりとしている。ありがたいことに、水の中をはなれては生きられない、という性質までは変化しなかったみたいだ。絆創膏をさがしてきて貼り、作業をつづける。

 金魚は全部で二十匹あった。そのうち、変異を起こしたのは、三匹もいた。確率十五パーセントだから、かなり高いといえる。変異しなかった金魚は、全滅してしまった。死んだ金魚のう二匹は、変異しかけたような跡がみられた。変異した金魚たちは、すべて祐一郎に飛びかかってきて、いまは床のうえで死んでいる。

 祐一郎は、実験結果を踏まえて、仮説を組み立てる。『サトリ』は遺伝子変化であり、なんらかの経過をたどって生物の頭部に伝染する。有力なのは、血液感染するウイルス性の伝染病だ。この場合、ウイルスはまず感染された個体の脳を侵す。だから、金魚たちも、犬も、渉も、最後の時に頭部を狙ったんじゃないだろうか。そこが、ウイルスにとって、宿主の体でいちばん重要な部分だとすれば、死ぬ間際に生き残るため、同じ部分から感染しようとする行動は、理に適っている。

 祐一郎がすぐに気づいた位だから、二人はかなり早い段階で、『サトリ』の仕組みを理解したに違いない。にもかかわらず、研究が長引いているのは、その毒性の強さと、突然変異の確率の高さのせいだろう。 金魚だからなのか、他の動物ではどうなのか、わからない。これが人間でも同じように、一五パーセントの確率でサトリになるとしたら、大変なことだ。だけど――。

 ――渉や花とは、ちがう。二人には攻撃性なんて、見られてない。いや、渉の最期の時をのぞけば、だけどさ……。

 だとすると、人間に感染した場合は、定着しやすいのか。それとも攻撃性は死ぬ間際にだけ現れるものなのか。可能性はいくつか考えられる。そもそも変異するだけでは意味がなくて、二十匹の金魚たちのうち、渉たちみたいに正常な変異を遂げたものは一匹もなかったのかもしれない。

 そしてそれらを検証する理想の方法は人体への直接投与だけど、現実的にできる実験は種類を変えた様々な動物への投与となる。研究所では、いまは犬やカラスを使ってて、恐らくラットの使用はずっと前に終わってたんだろう。

 リビングの椅子に体を沈め、祐一郎はなまぐさい手で青ざめた顔をおおう。机の上には、授業で使うプリントと、幾つかの仮説を走り書きしたメモ用紙が散乱している。パソコンを開いて、今日の実験の過程と仮説を一つに絞る気力もなく、ぜんぶ打ち込んで、空いているメモリに保存しする。剣治にメールアドレスを聞いておけばよかったと、舌打ちする。

 やるべきことを終えると、祐一郎は押入れからスーツケースを出して広げた。お気に入りのワイシャツとTシャツを三枚、ズボンを二本、セーターを一枚、それからパジャマと下着類、授業で使う参考書と遺伝子工学関係の本を詰め、ふたを閉める。

 玄関に立ってリビングとキッチンを振りかえると、不意に祐一郎の目に涙が湧いた。悲しかった。渉も花もいないこと、研究所を首になるっていう現実が、考えてたよりもずっと悲しい。

 玄関の鍵を閉め、スーツケースを転がして、祐一郎は宿泊所から出て、表通りを駅のほうへと歩き出す。空には冬の晴れ間がのぞき、日差しが、成関町に明るく降りそそいでいる。行く当てはないけど、このまま自分が居なくなれば、向こうから連絡が来るだろう、という妙な自信があった。アンプルを取り返すために、祐一郎を見つけ出そうとするはずだ。じぶんはそれまで、どこかに身をひそめていればいい。

 その時、どうするのか。考えても分からないけど、考えながら、祐一郎の足は駅へ向かって進む。片手でスーツケースをさげ、反対の腕でアンプルの入った鞄をきつく抱いていた。



 成関駅の二つ隣の駅の北口改札を出て歩道橋を渡ったところに、田舎には不釣り合いな八階建ての白く綺麗なホテルが建っている。ホテル『ステーションズ』は、地代が安いせいか、部屋の値段は見た目ほど高くない。祐一郎はその中でも一番安い一人部屋に十八時にチェックインした。

 部屋のドアをノックする音が聞こえると、祐一郎は食べ終わった夕飯のコンビニ弁当のプラスチック容器をゴミ箱に押し込み、背筋を伸ばし、息をのんだ。ノックは一度止んだが、間をおいてもう一度鳴った。今度はさっきより音が大きい。

 祐一郎の口もとがゆがみ、ため息が吐きだされる。椅子の手すりを強く握って、ゆっくりと立ちあがる。ノックは同じリズムで続いている。祐一郎は大股で歩いてゆき、ドアノブをまわした。眠そうな目をした麻衣が、狭い廊下に立っていた。相変わらず真黒な服を着ていて、髪を切ったようで、短くなった髪型のせいで少し若く見える。

 麻衣は挨拶しながら部屋にすべりこむと、白い壁紙によりかかって腰に手を当てた。細長い目が祐一郎を視界にとらえる。

「私がここに何をしに来たか、わかる?」

「アパートの鍵を受け取りに来たんでしょう?」

 祐一郎は鞄から鍵束を取り出し、鍵を一つ外して麻衣の手のひらに握らせた。

「忘れちゃって、すいません」

 そういって祐一郎がベッドに腰かけると、麻衣も隅の事務机の椅子を引いて座る。祐一郎のほうをむいたまま、タバコに火をつけ、言う。

「私と取引しましょう」

「どういうことです」

 祐一郎は、麻衣のほうに顔をむけずに問いなおす。

「私たちは、あなたが持ち去った薬品を、返して欲しい。あなたは、実験体をとり戻したい……ちがう?」

 祐一郎の手が、ふるえながらベッドのシーツを握りしめる。

「あんなもの、ぼくが捨ててしまってたら、どうなんです。あんなもの、ぜんぶ、便器に流したかも入れないし、その辺のドブに捨てたかもしれない」

「あなたにはそんなことはできない。なぜなら、会社を辞めてまで、研究をやりつづけてる人だから」

「僕は辞めたわけじゃありません。ただ、アルバイトでしか、やりたいことに関われなかったから、バイトにしてもらったんですよ」

 麻衣が笑いながらうなずき、椅子を祐一郎のほうに近づけ、足を組んで座りなおす。

「どっちにしても……」

 と囁くような声をだす。

「あなたは捨ててない。だったら交換しましょう。あの薬と、あなたのお気に入りの実験体の女の子」

 雄一郎はうつむいていたが、それを聞いて顔をあげ、麻衣と一度目を合わせ、またすぐ下をむいた。

「……いいですよ。あいつ、元気ですか?」

 麻衣がほほえんだ。電話で話すかと聞いてきたので、祐一郎はそれを断って取引の方法をたずねた。

「僕は、どうしたら、いいんです?」

「その返事は、交渉成立と思っていいのよね」

 麻衣が聞きかえし、祐一郎は顔をあげる。麻衣のうれしそうな表情がムカついた。

 祐一郎は立ちあがって歩いていき、座ってる麻衣の目の前に立った。

「どうしたらいいかって、聞いてるんですよ」

「……ありがと。明日の午後十一時、千葉カントリー公園で」

 祐一郎はおどろいて両目をひろげた。麻衣が黙って、頬杖をつき、煙草をくわえて、こっちを観察する。

「わかりました」

 といい、間を一つ置いて、祐一郎は手帳を取りだし、ボールペンで時間を書きこむ。満足そうな麻衣の口もとに浮かぶシワにも腹が立った。

 場所と時間が決まると、麻衣はゆっくり時間をかけてタバコを吸い、あらためてお礼をいって部屋から出ていった。残された祐一郎はベッドに倒れこみ、両目を腕でおおって考える。

 取引の内容は予想どおりのものだ。期待通り、といってもいい。気に入らないのは、事態が思い通りの方向に進みすぎてるような気がするからだ。成関公園を指定してきたことも、気に入らない。

 ――尾行、してたのか?

 あまりに早くホテルを見つけられたことが、祐一郎には不満だった。いつから、自分は尾行されてたんだろうか。

 それともずっと? それこそ、成関公園に出かけたころから、ずっと監視されてて、その結果、今回の待ち合わせもあの場所にしたのか。だとしたら、趣味の悪い話だな。

 祐一郎はベッドから離れ、煙草を一本取りだした。

 明日の夜か、と祐一郎は煙を宙にくゆらせ、遠い目で天井をながめる。安っぽい小さな電球がぎらぎらと光っている。それが少女の髪の色に似ている気がしてきて、苦笑いする。

 明日、せめて晴れますように、と祐一郎は願ったけど、携帯電話の天気予報は見なかった。運を天に任せてみたかったからだ。自分が生き残れるのかさえ、何もかも。

 麻衣の訪問を受けた後、祐一郎はすぐに寝てしまい、翌日はベッドメイクのコールやトイレで起きた以外、午後四時ごろまでベッドから抜け出せなかった。一昨日の夜からの怪我と疲労のせいだろう。

 清潔な匂いのするベッドのうえで体を起こすと、彰良に殴られた痛みは、昨日よりもかなりやわらいでいた。それでも、背伸びするとほとんど全身が鈍く痛み、あらためて自分が重傷だと祐一郎は感じる。この体で、昨日はよく水槽を持って帰ってきたもんだ。髭を剃り、身支度を整えて、鞄に財布と試験官ケース、手帳と読みかけの文庫本を入れる。それから、注射器を一本、ジャケットの内ポケットに仕舞った。

 準備が整うと、祐一郎は、チェックアウトし、ホテルの脇にある喫茶店に入った。剣治から不在着信が二件あり、喫茶店内でも一度電話が鳴ったけれど、祐一郎は出なかった。暗くなるまで、

 時々、ジャケットの内ポケットに指を入れて、小さな注射器を指先であそんだ。これを自分に打てば、変異が起こるだろう。運が悪ければ、あの金魚みたいに死ぬけれど、人間なら別の反応が起こるはずだ。それで死んでしまうとしても、死ぬまでのすこしの時間、抵抗する力が得られるはずだ。

 麻衣や彰良や、あの犬たちに対して。

 

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