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 狩野剣治の名前を見つけ、電話をかけると、深夜だというのに四回目のコールでつながった。

「もしもし」

「や、起きてたの? ごめん、こんな時間に」

「いや、いいですよ。先生、だいじょうぶっすか?」

 と剣治がいう。なにがあったか聞くより先に、無事を確認する。それが祐一郎に、おかれている状況の異常さを感じさせる。

「いまのところ、大丈夫だよ。なんともない。いや、何もないわけじゃないんだけど……」

「なんですか?」

「花が、連れていかれちゃったんだ」

 と口にして、祐一郎は、その事実の悲しさに、打ちのめされた。たぶん、きっと、この悲しさの理由は、花が居なくなってしまったという、ただそのことだけなんだろう。

「連れていかれた、って、どこへ?」

「研究所。それで、所長が言うには……ぼくはもう来なくていい、ってさ」

 もっとうまく説明する必要があると思ったけど、少年は言わんとすることを察してくれて、しずかに相づちを打ってくれた。

「それで、いまから、取り返しに行こうと思うんだけど、その、もし失敗しちゃったら、狩野君、なんとかしてもらえないかなあ?」

 電話の向こうの少年が、まず沈黙し、それからケラケラと笑いだす。

「どーしろってんすか、まったく」

 だけどその声音に、突き放すような感じはなくて、しょうがねえ教師だな、とでも言いたそうだ。苦笑いでも浮かべてるんだろう。

 祐一郎にとっては、その反応が救いだった。

「先生、今から、研究所に行くんですか?」

「うん。そういっただろ」

「どうしようもない教師じゃないっすか」

「だってさ、すごく心配になっちゃったんだよ。花と、うちの研究所の所長が、また死ぬとか言ってたし。実は、昨日ぼくも、襲われたしさ」

「おそわれた? ……彰良にですか」

「わかんない。ただ、その、おかしな犬が襲ってきて、そいつら、渉に……話したっけ、前に死んだサトリの男の子なんだけど、その死んだ子に似てたんだ」

 祐一郎が昨夜の犬たちの特徴を伝えると、剣治が笑うのをやめた。

「そりゃたしかに、普通じゃないっすね。おれの上司っつーか、そういう厄介ごとの担当がいるんで、報告しときます」

「そんな担当がいるのか……。 彰良ときみとの関係はそれなのか? 何者なんだよ、いったい」

「だから、人間ですよ。おれも、彰良も」

 そういうことじゃないんだ、といおうとしたが、相手にされていない雰囲気を感じて、祐一郎は言葉をひっこめる。

「まあいいけど。それじゃあさ、もしもぼくが死んじゃったら、その時もきみの担当さんによろしく伝えてくれ」

「先生、死ぬ気なんですか? だったら、今から行くのは止めてもらえないっすか」

「どうして」

「だって、俺が急いで助けに行かなきゃならなくなります」

 祐一郎はそれを聞いてきょとんとした。今度はこっちが苦笑いする番だった。なぜなら,

 善意をむけられるなんて考えてなかったからだ。

「きみは花を助けるって言ったり、ぼくを助けるって言ったり、正義の味方かなにかなの?」

 祐一郎が疑問に思ったことを口にすると、剣治はきっぱりと否定した。

「いや。おれにはとても無理っすよ。正義の味方なんかになれません」

 という。まるで、学校の先生にはなれません、といってるみたいな、実際にやってみたけど出来なかった、とでもいうような、素朴な口調だった。

 それで祐一郎は、ちょっとのあいだ何も言えなくなってしまった。

「それじゃ。やばくなったらまた、死ぬまえに電話ください」

「……ありがとう。なるべく、そうするけど、死んだらごめん」

 そういって、祐一郎は携帯を切った。自分の言葉の、芝居っぽさがばかばかしくって、へらへらしながら立ちあがり、分厚いコートに袖を通す。

 アパートを出るとき、祐一郎は花の靴が一足もなくなった玄関を見て、表情をひきしめた。冬の夜空が、まっ黒く透きとおって、頭上にあお白い月と星を光らせている。



 まだ鍵を変えられていなかったので、祐一郎は合鍵で裏口をあけた。廊下の角を一つ曲がり、突き当たりの狭い階段をおりる。

 しんと静まった地下通路に立ち、タイルを踏む小さな音をたて、追いかけてくる人がいないかときどき振りかえりながら、祐一郎は歩いていく。

 入口から、実験室のドアの前まで、五分とかからずにたどりついたが、祐一郎には果てしなく長く感じられた。

 祐一郎が実験室に足を踏み入れるのは、ここに雇われた初日、麻衣に連れられて所内を見学した時以来だ。研究所で祐一郎に求められる仕事は、実験室からあがってきたデータの整理だけ。ずっとそれだけだった。

 ドアを開けると彰良がいて、こちらに背中をむけ、部屋の奥にならんだ檻のなかに餌を投げているところだった。片手に色あせした水色のポリバケツを持ち、ゴム手袋をはめてバケツの中身をつかんでは、けだるそうな動作で鉄格子の隙間に投げ入れる。

 バサバサと羽音をたて、数羽のカラスが檻の奥から姿を見せ、エサをついばむ。彰良はまだ祐一郎に気づいてない様子で、つぎつぎにエサを投げ込む。

 祐一郎は、実験室のなかに花の姿をさがした。八畳ほどの広さの長方形の部屋で、檻のほかに、中央に簡易ベッドが一台、壁際にはパソコンの載った机が置かれている。ベッドと机は、渉が亡くなったときの動画にも映っていたので、見覚えがある。

 ほかにも目を引いたものがある。机の脇に、高さ一メートル弱の冷蔵庫が置いてあった。動画のなかには映っていなかった物だ。

 祐一郎は興味をひかれ、忍び足で部屋を横切り、小さな白い扉を開ける。なにか無色透明な液体のつまった試験管が、十本ほど並んでいる。ほかには何も入っていない。好奇心にかられて、祐一郎の右手が冷たいガラスに触れたとき、背後で彰良の声がした。

「やめておきなよ、祐さん」

 振りかえると、彰良がこちらをむいて、エサのバケツを床に置くところだった。それから、眠そうな目つきで、パンパンに張った白衣の脇に抱えてる大きな銃を、祐一郎のほうにむける。

「やあ、こんばんわ」

 といって祐一郎は手をあげ、彰良が持っているものをじっと見つめる。黒い銃口がこちらをむいて光っている。両手をあげて、壁際を横に歩いても、黒光りする穴が祐一郎の動きを追ってくる。

「こんばんは、祐さん。申し訳ないんだけど、壁のほうをむいてもらえるかい?」

 彰良がそういって、カチリと冷たい音を鳴らした。何の音かわからなかったけど、祐一郎は言われるまま、ゆっくり体をまわした。足音が近づいてくきて、背中に固いものが押しつけられる。

 ああ、死んだ、と祐一郎は思った。最悪の気分だった。それでも、必死で、生きられる可能性を、彰良の行動から見つけようとする。

「死んでほしくはないんだけど、まあ、死になよ」

「……嫌だ」

 というと、彰良はすぐには撃ち殺さず、ため息をつく気配があった。

 もしかしたら、彰良はじぶんをすぐには殺さなくてもいい、ということなんじゃないか? なにか同情を誘うようなことをいって、うやむやにして逃げ出せたらいいんじゃないか?

「嫌だったら、どうする? 命ごいでもしてみるかい」

 と彰良が聞いた。

「命ごいしたら、助けてくれる?」

「まさか」

 背中にくっついている銃口が、深く食いこんできた。恐怖でふるえながら、そりゃそうだよね、と祐一郎は変に納得もしていた。命ごいされた程度でひっこめる拳銃なら、はじめから出さないだろう。

「だけど……どうしてここまでやらなきゃならないんだ?」

 と祐一郎は、頭に浮かんだ疑問を口にした。それは、時間かせぎだけど、本心でもあった。

「どうして、ぼくを殺して、渉も、花も殺して、ここまでやって、これがぜんぶ、ばれないで、揉み消せることなのか?」

「……」

 返事はなかった。銃声もまだ鳴らない。

 この沈黙はまずい、と祐一郎は感じた。そして、たぶんそれまでの人生で一番すばやく体をよじり、銃口から逃れて彰良に飛びかかった。

 祐一郎の動きから一秒おくれて、彰良の銃が重苦しいすごい音をたて、研究室の壁を吹きとばした。はじけ飛んだコンクリートの破片が、祐一郎の背中や両足にあたり、鋭い痛みがはしる。いくつかは服をやぶって肌に食い込んだんだろう。

 彰良の顔に、動揺のいろは浮かんでいない。つまり、こっちの行動を予想してたってことだろうか。

 祐一郎は彰良の銃を奪おうと手をのばす。だけど、目の前で銃が床に落下する。目標をなくして、祐一郎の指は空を切り、思考が止まる。

「残念でした」

 彰良の右足が跳ねあがり、ブーツのつま先が祐一郎のわき腹に深ぶかと刺さる。体がくの字に折れ、下をむいた顔にゲンコツが飛んでくる。やばい、と思った時には、こめかみをぶん殴られ、祐一郎の体は床をころがった。彰良が銃を拾いあげるところが見える。寝てたら死ぬぞ、と頭のなかで警告音が鳴り、祐一郎はむちゅうで床をはって、こわれた壁の穴から廊下に出る。背後でもう一発、銃声がひびいた。これは床に外れ、けたたましい音をたてる。

 開いた穴の脇に立ち、冷たい廊下の壁にもたれかかって、祐一郎は彰良が出てくるところを殴り返してやろうと待ちかまえる。頭と腹が痛くて、呼吸が乱れる。右手に握りこぶしを作り、左手をひざについて体を支える。たぶん彰良は、祐一郎が逃げるのを追いかけようとあわてるから、不意をつけるはず。

 崩れた壁のあいだから、彰良の白衣のふくらみがのぞく。祐一郎は、傷んだ体をばねみたいにのばし、彰良の顔のあたりに右手を突きだす。

 手ごたえはなかった。空振りの勢いで、ぶざまによろける祐一郎の横を、彰良が素早くしゃがんですり抜ける。ふりむく間もなく、後頭部をガツンと殴られる。祐一郎は、自分の意思と関係なく、体が床に倒れ、ぐにゃぐにゃに伸びていくのを感じた。

 てっきり、撃ち殺されると思ったら、そうでない代わりに延々と殴られた。こういうのをリンチっていうんだろうな、と祐一郎はうすれかかる意識で考える。ゴン、ゴン、ドン、ドンいう音が、しばらくのあいだ、うすぐらい地下通路に鳴りひびいた。それが他人事みたいに聞こえた。

 祐一郎の体はずるずる引きずられていき、やがてどこかの地面に投げ捨てられた。人の気配が遠ざかっていく。

 どれくらいの時間が経っただろう。祐一郎はぶるぶる震えながら、冷え切った体を起こした。顔をあげると、空の端が灰色に染まりかけているのが見える。ありがたいことに、服や持ち物は汚れてはいるが家を出たときのままだった。時計を見ると、まだ四時半で、気を失ってる時間はごく短かったとわかる。

 ――さて、どうしよう。

 祐一郎は途方に暮れた。体中が冷たくて痛いけど、立ちあがることはできた。ずきずきする両足でしばらく歩くと、自分のいる場所が、見慣れたうす暗い外灯の形で、研究所の裏の林の入り口だと気づく。

 林から出て、研究所の青白い建物が見えてくると、祐一郎の背筋がふるえた。

 祐一郎は迷い、立ちつくしていた。もう一度研究所にむかって、花を助けるための手がかりをさがすか、いったん帰って、布団をかぶって休み、あとで入院の手続きをするか。

 今すぐに花が死ぬわけじゃない、ということは、祐一郎にはわかっていた。実験動物としてであっても、まだ元気な花が急に死ぬはずはない。それがいつになるかわからなくても、すぐには死なない。でもさ。

 祐一郎はもう一度、水色の壁の建物にむかって歩きだす。頭を触ると、血がべっとりと付いている。ぼくの方が死ぬかもしれないな、と思う。

 と、携帯電話がふるえだし、名前を見ると、剣治だった。電話をとると、向こうは何も言わないでずっと黙っている。笑い声が、電話越しでなく、背中から聞こえて、祐一郎は片手で研究所の壁に手をつきながら、ぎこちなく振りかえる。

「こんばんわ」

 と剣治がいった。ひざまである黒のコートを着て、外灯の真下に立っている。祐一郎は血のついている片手をあげた。

「正義の味方は大変だね」

「先生、あんがい元気そうですね」

「いやそうでもない」

 といって、祐一郎が手のひらの血をみせると、彰良が暗がりでじっとそれを見つめ、声をひそめた。

「先生。死ぬ気っすか?」

「……うん。そんな気がしてる」

 といって祐一郎は降ろした片手をきつく閉じた。

「だけど、たぶん、花のとこに行くなら今しかないんだ。彰良も所長も、ぼくがまだ林のなかに伸びてると思ってるだろうから」

「でも、その体で、助け出すなんて、無理っすよ」

「うん。いま助けるのは、無理かもしれない。それでも、もう一度戻ってやっておきたいことがあってさ……」

 祐一郎は剣治に、実験室で見た動物と冷蔵庫のなかに入ってた試験官のことを説明した。

「もしかしたら、あの薬を投与することで、動物をサトリに変えたのかもしれない」

 祐一郎は頭をがりがり掻きながら言う。自信はないから、自分自身を説き伏せるつもりで、考えながら言葉を重ねる。。

「だから、ぼくが薬品を冷蔵庫からぜんぶ盗ってきちゃうんだ。それと引きかえに、花を解放してもらうんだ」

 祐一郎が話す間、剣治が険しい顔をこちらに向けたままじっと立っている。

「そろそろ夜も明けちゃうから、急がないと……」

 そういって、祐一郎は話を切り上げ、歩きだす。剣治に止められないことを願った。無言の足音だけが、ゆっくりとついてくる。

 二度目の侵入は、予想通り無警戒で、二人は誰にも出くわさず、研究室に入ることができた。冷蔵庫から、試験官をふるえる指で抜き取り、コートとズボンのポケットいっぱいにしまいこむ。

 出口で待たせていた剣治が、膨らんだポケットを見て、あきれ顔をした。水色の壁に手をついて、大げさな溜息を吐き、明け方のうす暗がりを白く染める。

「ほんとに、ぜんぶ、パクったんですね」

「人聞き悪いなあ」

 祐一郎は、か細い声でそういって、少年を押しのけるように歩きだす。待っててくれたのに悪いとは思ったけど、疲れてるし体じゅう痛いしで、気づかう余裕もなく、アパートに帰りたい一心で目も合わさないで先に歩いてしまう。

 二三歩進んだだけでよろけてしまった時、剣治が横にならんで肩を支えてた。少年が強い力で祐一郎を引き上げ、聞いてくる。

「先生、歳、いくつっすか?」

「急になんだよ。三十一だけど」

 暗がりに少年の白い歯が浮きあがるのが見えた。

「いや、その、青春っすね」

「……知るか」

 それっきり会話は途絶えた。雑木林におおわれた研究所の敷地を抜け、田舎の国道の広い路肩を、ひとまわりも年の離れた少年の肩を借りながら、祐一郎は歩いていった。アパートに着いたとき、空は全体に白んでいて、時計を見ると、午前五時になるところだ。

 玄関の戸をあけ、布団まで這っていき、祐一郎は目を閉じる。誰かがつづいて入ってくる気配を感じたが、疲れていてまぶたがあがらない。生まれてからいちばん長い夜が終わる、そんな気がした。


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