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 翌日は土曜日だったので、祐一郎はアルバイトに出た。研究室に入ると、彰良がコカ・コーラのペットボトルを片手に、モニターとにらめっこしている。

「おはようございます。あれ、所長は?」

 祐一郎は部屋のなかを見まわした。三つならんだ擦り傷だらけの机に、背もたれのぎしぎしいうキャスター付きの椅子、かろうじて光っているリノリウムの床と、見慣れた六畳の光景に、部屋の主の姿がたりない。

「あのう、もしかして」

「そういうこと」

 祐一郎の疑問に、彰良が苦笑いしてうなずいた。

「昨日の夜から、実験室にカンヅメだよ」

 昨日の夕方、祐一郎は予定通りの時刻に、中野城研究所に花を連れてきた。研究室で顔合わせを済ませるとすぐ、所長はすぐに花を実験室に連れていった。

「逃げたければ逃げていいし、身の危険を感じたら、反対に私を殺せばいい。花ちゃんの力なら、簡単なことでしょ?」

 説き伏せるように語りかけながら、所長が花の浅黒い手をひいて、花が目だけでほほえみながら歩くのを、祐一郎は机に座って見ていた。研究室のさびついた扉が、金具を軋ませて閉まる音をたてた――。

 ――と、それが昨日の午後七時半のことで、いまが午前九時十分だから、すでに十時間近く経っている。

 研究所にいるのは、彰良と祐一郎の二人だけだ。祐一郎は自分の机に座り、パソコンの電源を入れ、その週に彰良と麻衣が行った実験結果の数値を記入したA4サイズのメモ紙を手に取る。うんざりするほどたくさんある項目ごとに、パソコンのフォルダに振り分け、数字を打ち込んで整理していく。エラーと思われる数字があれば、彰良に声をかけて確認してもらう。三年間ずっと続けている、変わり映えのない助手の仕事だ。

 渉が亡くなったせいか、いつもより少ないメモの束とにらめっこしながら、斜め向かいに座った彰良の様子をうかがう。

 中身が半分に減ったコカ・コーラの一・五リットルのペットボトルが彰良のパソコンのモニターの横に立っていて、その横に未開封のコカ・コーラがもう一本、並んでいる。

 昨日の朝、花に指摘されてから、祐一郎は、渉が殺された可能性をせいいっぱい真剣に検討しはじめていた。

 目下のところ、容疑者は麻衣と彰良の二人だ。そもそも渉のことを知っているのは二人だけだから、麻衣か彰良か、どちらかに絞ればいいわけだ。研究室に彰良と二人きり、という状況は、探りを入れるのにちょうどいいんじゃないか、と祐一郎は思い至った。

 事故以外の原因があるんじゃないか、と伝えてみると、彰良は妙な顔をして、コカ・コーラをぐびぐびと飲んだ。

 モニターから目を離し、椅子をまわして、脂ぎった額と細くするどい目を祐一郎にむける。髪は短く五分くらいに刈っていて、まるまる太った体を揺らし、白衣のボタンをはちきれそうに止め、椅子の背もたれに深くよりかかっている。白衣の襟から、黒いワイシャツがのぞいていた。

「それはつまり、おれが実験体八十三番を殺した、ってことかい?」

「……え」

 失礼なことを聞いちまった、と祐一郎はおもわず口を手でおおった。渉が殺されたとすれば、容疑者は彰良さんか所長しかいない。話す前に思い至らなかった自分が恥ずかしく、申し訳なかった。

 おそるおそる彰良の様子をうかがうと、目を閉じ白い歯をみせ、前かがみになった体をふるわせている。声を殺して笑っているらしい。たすかった。

「祐さんは、おもしろいね」

「ごめん。そんなつもりじゃ、なくって」だったらどんなつもりだったのか、聞かれても答えられない言い訳をして、目をそらす。

「まあ別に良いよ。あの日も話したけど、事故だよ。まあ、どちらにせよ寿命だった、とも言えるけど……」

 祐一郎は下唇をきつく噛んだ。寿命といわれるには、渉は元気がありあまっていたはずだ。彰良の言葉に納得できず、もういちど食い下がる。

「寿命って、彰良さんはいうけど」祐一郎は言葉をさがしてゆっくり言う、「だけど、あいつは、寿命ってほど弱ってなんか無かった……だろ?」

 と同意を求めると、彰良が腕組みをして言葉をかえす。

「たしかに八十三番は、健康だった。だけど、それがどうしたっていうんだ? たとえ弱ってなくても、実験の強度に耐えられなかったら、そのときが実験動物の寿命なんだ」

 と彰良が太い眉を寄せて言う。

「ちがうか?」

 と聞く彰良の声があまり悲しそうだったので、祐一郎は驚いて彼の顔をみた。彰良もまた、唇を噛んでるみたいで、視線が宙をさまよっていた。

 彰良だって、渉が死んだことを、気に病んでいないわけじゃないのだ、それを感じると、祐一郎は、とたんに自分の疑問に自信がなくなった。

「それに、一昨日は、強度のある実験なんて、やらなかったんだ」

 黙っていると、また彰良の疑問符が、祐一郎の胸をチクリと刺した。

「なあ。麻衣から、ほんとうに何も聞いていないのか?」

 彰良が二重額に手をあてて、目を閉じる。祐一郎は本当に知らなかった。それを負い目に感じ、口を開けて舌をひくひくさせたけど、言葉が出てこなくて、無言でやり過ごしてしまう。

「祐さんはおれに話すより前に、所長と一度、話す必要がある。実験結果を祐さんにどこまで伝えるか、まず、所長が判断するはずだ」

 というと、彰良が目をあけて腕時計を確認した。残念そうに頭を下げて、席を立つ。

「ごめん。おれは客に会うことになっているので、失礼するよ」

 取り残された祐一郎は、研究所の机にもたれかかり、懐から手帳をゆっくり取り出した。麻衣に会えるのはいつだろうと、予定を確認する。祐一郎は週末にしか研究室に入れない。今日は土曜日で、麻衣が実験室から出てくるのは何時になるかわからなかった。麻衣は明日、めずらしく出かける予定になっているため、祐一郎と次に会うのは、今度の土曜日ということになる。一週間も我慢できないから、平日に訪ねて話すことができないだろうか。

 ――なに、考えてるんだろ、ぼくは。

 祐一郎は自嘲した。いくら聞いても、麻衣の立場を考えたら、話せないものは話せないに決まってる。それを休日に押しかけてきて聞こうなんて、厚かましいし、迷惑だろう。

 タバコでも吸おうと外の喫煙所へ向かうと、建物の裏手のほうで、祐一郎の耳に若い男の声が聞こえてきた。壁から顔だけ出してのぞき見ると、彰良と話しているのは、成関高校の学生服姿の青年だ。彰良に対して、詰問してるような厳しさが、声音に滲んでいる。

 二人に気取られないよう、祐一郎は慎重な足取りで近づいていく。さきに祐一郎を見つけたのは彰良のほうで、苦笑いを浮かべて手を振った。

「こりゃ、変なとこを見られたな」

 隣の青年も祐一郎を振りかえり、片手をあげた姿勢で固まる。

「……こんちわ。日々野先生」

 黒く日焼けした肌と、背が高くがっちりした体に、祐一郎は覚えがあった。一昨日の授業でも受けもった生徒だ。教科書に載っていた練習問題に答えてもらったので、ちょうどよく名前も覚えている。

狩野かりの 剣治けんじくん、だよね?」

 祐一郎は確認のために語尾をあげた。剣治がうなずき、瞬きを二度して、落ちついた声を出す。

「……教師がアルバイトして、いいんすか?」

 祐一郎は短く舌打ちをして、肩をすぼめ、それから開きなおって答える。

「ぼくは非常勤講師だから、アルバイトしたって、問題ないんだよ」

 だけど、祐一郎がここで働いているという事実を、目の前の男子生徒が知ってるのはなぜだろう。たとえば、ただ通りかかっただけの見学者の可能性だってあるのに。

 剣治は胸を張って自信満々な様子で、恐らく何かしら――あるいは何もかも――知ってるように、両手をポケットに突っこんで、まっしろい歯をのぞかせる。

「そーっすか。じゃあ、問題ないっすね」

「でも、ぼくがここでアルバイトしてるなんて、きみはどこで知ったの?」

「それなら」といって剣治が彰良を手で示して、「彰良から聞いたんすよ。ここで、成関の生物の先生が働いてるって」

 祐一郎が目を向けると、彰良が表情をなくしてうなずき、腕時計を見た。祐一郎は剣治に向きなおった。

「きみと彰良さんって、知り合いなんだ?」

「まあ、知り合いっつーか。……因縁、みたいなもんすね」

 因縁、という言葉の重さにたじろぎ、祐一郎は建物の白い壁に手をついて、人工的な水色で塗られている研究所の屋根を見あげた。空は灰色に曇っている。

 少年と彰良の過去に何があったのか聞きたかったが、うまい言葉が見つからず黙っていると、「時間だね」と彰良がいい、地面に置いていた鞄を持ちあげた。

「それじゃ」と短く挨拶して、二人から離れていく。

 残された祐一郎と剣治は目を合わせ、またどちらからともなく逸らした。祐一郎は剣治が彰良を呼び捨てで読んでいたことを思いだし、考えを巡らせる。

 狩野健二は、成関高校一年生の生徒で、今年の四月早々に、外国から転校してきた。素行は良く、教師にもクラスメイトにも笑顔で挨拶し、礼儀正しい。よくとおる低い声をしていて、意志が強そうだ、という印象がある。

 しかし、彰良と因縁があるとは、どういうことだろう? かれは彰良の名前を呼び捨てで呼んでもいた。もしかしたら、『ノーメイ』や渉のことも知っている可能性がある。

 祐一郎はこのところ手帳のあいだに挟んだままにしてある渉の写真を出し、剣治に見せた。

 少年が頭をかいて首を振る。

「わかりませんね。すいません」剣治が写真をじーっと見つめ、「……こいつ、人間じゃなさそうっすね。ここで実験してたんですか。逃走でもしたんすか?」

「え、え? いや、ちがう。いや、いや人間じゃないのはほんとなんだけど、ちがうよ」

 と祐一郎は戸惑いと驚きを覚えた。狩野剣治という少年は、最初から話の飲みこみが良い。良すぎる。

 そこで迷ったが、少年に事実を伝えてみる気が湧いた。間違いなく、この子は何かを知ってる。

「この子は、逃げたんじゃなくて……昨日に亡くなったんだ」

 白髪赤眼の少年が『人間じゃない』ことを、少年がごく自然のことと捉えている。そのことに、祐一郎は違和感と親近感をいっしょにおぼえ、秘密を共有したいような、すがりつきたいような欲求に駆られる。自制心を振りきり、秘密保持義務違反を承知で言葉を並べた。

「事故だっていう報告なんだけど、それが本当に事故かどうか、ぼくは信じられてなくて……殺されたんじゃないかって。だから、きみになにか知ってることとか、思いあたることがあったら、教えてほしいんだ」

 剣治が片目を細めて祐一郎の顔を見た。とまどっている雰囲気が表情ににじんでいる。

 ――ダメか? いや、なに期待してるんだ、ぼくは。

 普通の高校生がそんなことを知ってるはずがないのに、聞いてしまった自分がいまさら恐ろしくなり、祐一郎は横をむいて息を吐く。

 張りのある剣治の声が、静かに聞く。

「先生は、また誰か死ぬんじゃないかと思って、びびってるんですか?」

 祐一郎は息をのみ、視線をおよがせた。祐一郎自身、気づいていなかった気持をいい当てられ、胸に動揺がひろがる。あの子が渉と同じように死んでしまうことを恐れているのか、ちがうのか――わからないけど、否定ができない。

「だったら、どうしたっていうんだい?」

 と喉の奥から、それだけしぼりだすのが、祐一郎には精一杯だった。

「俺だったら、そいつのこと、助けられるかもしれないっすよ」

 祐一郎の強がりなんて聞かなかったみたいに、剣治がさらりといった。

 会話の成り行きについていけなくて、祐一郎は目をぱちくりさせた。ところが、とたんにアヴェマリアのメロディーが流れだして、すぐまた目を開ける。剣治がこちらに背を向け、携帯電話を耳にあてて、ぼそぼそとしゃべりだす。聞き取れないくらい、小声だった。

 立ち去る気にもならなかったので、祐一郎は冷たい壁にもたれたまま、ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。煙が肺に入るとともに、剣治の言葉が整理され、思考が形をとりはじめる。

 どうなんだろ、ぼくは――。

 花が死ぬかもしれないと、いや、殺されるかもしれないと、感じていたのかな。渉が殺されたならば、花もまた。だからあんな、秘密をぶちまけたりしちゃったのか。……それにしてもこの少年は、やっぱり何か知っているはずだ。だって、渉が殺された、と言ったときの剣治の声の調子には、殺されるのが当然とでも感じてるような、落ち着きが含まれているように聞こえたから。

「すみません。ちょっと俺、いまから仕事なんで。明日――は日曜か。月曜日の放課後、時間あります?」

「え? あ、ああ……」

 口のなかが乾いてろくな返事ができず、祐一郎はうなずく。

 剣治が頷きかえして歩きだし、肩幅のひろい後姿が、夕日の射した建物のかげに消える。祐一郎は、背中を壁から剥がし、疲れた顔であたりを見まわした。無機質な研究所のうえで、森に囲まれた狭い空が、黒と紫の中間の色にかげっている。あくびを一つかみ殺して、祐一郎は仮住まいである平屋へ歩いていった。


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