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『つぎは、尾針峠、尾針峠』というバスのアナウンスを耳にして、祐一郎は考えごとを切り上げ、片手を伸ばして停車ブザーを押した。麻衣の指示に従い、南女甲野駅から一時間に一本きりのバスで、群馬の山中に向かう途中だった。青緑色のライトがよわよわしく点灯する。
バスが止まり、左右を木々にはさまれた山あいの国道に降りると、冷たい風が、焦げ臭い空気を運んでくる。近くの農家が刈り取った雑草を燃したりしているんだろう。
祐一郎はナイロンのリュックサックを下ろして中からノートを取り出し、手書きの地図を広げる。すると、広げたページに影が落ちたので、顔をあげた。
「……やあ」
祐一郎の正面に、白髪の少女が立っていた。ばらけた前髪の隙間に赤い目がひかっている。写真とおなじTシャツとデニムのうえに、黒のブラウスをゆるく羽織っている。雲の切れ間からの日差しが、少女の背中越しに落ちてきて、浅黒い顔に浮かぶ表情はうかがえなかった。
「あたしを、ここから連れ出してくれる人ですか?」
逆光のなかで、少女が、祐一郎のほうをまっすぐ向いて聞いた。祐一郎はおどろき、苦笑交じりに聞きかえす。
「ぼくの考えを、読んだのかい?」
少女が小首を傾げた。どう答えるべきか、悩んでいるような仕草にみえる。祐一郎から視線を外し、左右の山のまばらな人家に目をやりながら、答える。
「知ってます。だって……見えちゃうから」
少女が申し訳なさそうに肩をすくめる。
「それだけが理由じゃなくって、おじさん、わたしの赤い目を見て、ぜんぜん驚かなかったから、何か知ってるんだろうと思って」
「頭、良いなあ」と祐一郎は感心した。頭の回転が速いのと、他人を観察するのも上手なんだろうと思う。つづいて笑顔を浮かべて頭を下げる。
「はじめまして。サトリの……高木 花さん、だね。中野城製薬研究所の日々野 祐一郎です」
はじめまして、と花がこちらを向いてほほ笑む。
「……サトリのこと、詳しいんですか?」
「いや。僕はただの助手だから、詳しくないんだ。目下、所長たちが研究してるところ」
と正直に答え、祐一郎は首を振った。
「だから、その、きみにも協力してもらいたいってわけだよ」
「知ってます。……じゃあ、行きましょうか」
といって花が小さくうなずき、祐一郎に背をむけて歩きだす。
祐一郎はリュックを背負い、人通りのまったくないアスファルトの道の端で、小柄な背中を追いかけた。峠近くの道を十分ほど上り、ひろい瓦屋根が右手の杉林の隙間から見えてくると、花が向きを変え、林のあいだをぬうような細い登り坂に入る。目の粗いアスファルトを踏みしめ昇りきると、二車線道路にでて、道の向かいに高さ二メートルはある薄汚れた木製の門があらわれた。黒に近いこげ茶色の門柱のあいだで、日差しを受けた黒い瓦が光っている。
花が立ちどまって振りかえり、低い声を出した。
「あれがあたしの……保護者の家です」
屋敷に入ると、トントン拍子にことが進んだ。花の案内で門の脇のくぐり戸を抜け、菊の匂いがする庭を通って、畳張りの客間に座っている、この一帯の村の代表だという男性と話をした。
「お願いします」といい、初老の男性が白髪の半分混じった頭を下げ、祐一郎はひかえめに了承の返事をした。二人は居間のまんなかに正座で向きあっていて、脇に目をやると、花も小さくうなずいていた。
「わかりました。われわれ中野城製薬研究所が、お嬢さんをお引き受けいたします」
「お嬢さん、ではありません」
男性が眉毛の下まで垂れている前髪を揺らした。お嬢さん、という呼び方がよほど気にさわったみたいで、熱っぽい口調でいう。
「このお方は、人間じゃありませんからね。サトリです、御神体なんです」
「了解しました」
と祐一郎は相手の真剣さに気圧されて、また首を縦にふる。
御神体の様子をうかがうと、伏せたまつ毛をふるわせながら、口元だけで笑っていた。
男に礼を言って、二人は屋敷の門を出た。せまい坂を下りると、花が日焼けした腕を空にむかって突きあげ、大きな背伸びをした。祐一郎のほうを振りかえり、ゆるんだ口調で聞いてくる。
「ひとつお願いがあるんですけど、あたし、敬語で話すの、やめてもいいですか?」
祐一郎は虚をつかれ、道の端で立ちどまり、口をあけて少女の顔を見つめた。すると、よほど間抜けな顔だったのか、少女が下をむき、ぷっと吹きだした。
ばつの悪い顔をして、「別にいいよ」と祐一郎はいった。
「よかった。あたし、ずーっと敬語でさ、疲れちゃったから。ありがとう、えーと……祐一郎」
と少女が目を細めながらいう。祐一郎はドキドキして横を向いた。同時に、少女のこれまでの暮らしを想像して胸を痛める。
祐一郎の気持ちを知ってか知らずか、花が小首を傾げて別の話題を持ち出した。
「それと……いまから、ちょっとだけ、時間ある?」
祐一郎は腕時計を確認してうなずいた。
花は片手を伸ばし、いま出てきたばかりの屋敷の背後を指さす。祐一郎は首を傾げた。花が示す方角には、小高い深緑色の山が一つ、裾を広げている。祐一郎と目を合わせ、花が唇の端をあげる。
「ハイキング、嫌いじゃない?」
――二時間後、祐一郎と花は、少女の忘れ物を取りに行くため、山のなかの細い砂利道を登っていた。
「ハイキングは嫌いじゃないけどさ……ぼくはわかったよ。ぼくは山登りは嫌いなんだ」
「いや、ハイキングといえば山登りじゃん。それにさ、山登りのだいご味は、頂上から景色を見たときにわかる、っていうじゃん?」
祐一郎は返事をしなかった。毎日を狭い教室か、研究室のなかで過ごす体に、舗装されてない登り坂は過酷で、息切れがおさまらない。前を行く花が涼しい顔で時々こちらを振りかえらなければ、とっくに引き返しているだろう。
「もうちょいだから」といって、花がまた背をみせて昇ってゆく。
花の言葉はほんとうで、さらに五分ほどのぼると、祐一郎の視界は明るくなり、林を刈った広場に出た。ふぞろいな石畳を踏んで、切りおとした竹の幹やドクダミの葉をまたいでいった先に、傾いた庵と古ぼけた木造の社が建っている。
花が庵の戸を引き、祐一郎のほうをチラッとうかがってから中に入る。祐一郎は疲れた足を無理に動かし、気の進まない思いで後を追う。戸をくぐると、カビの臭いがまっさきに鼻をついた。
「ここは……きみの家、だったのか?」昼間でも薄暗い部屋のまん中に吊ってある電灯をつけ、六畳ほどの庵のなかを見まわしながら祐一郎は訊ねた。
代用品の多い住まいだ、と最初に感じた。机の代わりには、段ボールの箱を使い、その前に座布団代わりの折りたたんだバスタオルが敷いてある。床は黒塗りの立派な板張りが使われていた。
「家じゃないよ。ええと、そう……牢屋かなあ。ほら、ザシキロウ? みたいな」
と花がつま先で床に転がった茶色の紙くずを蹴りながらいう。
「もう五間年も、あたしはここから出られなかった」
「五年間?」と祐一郎は聞きかえした。肩に食い込んだリュックのひもを外して板張りの床におろし、自分もあぐらをかいて座る。
花がここに五年間住んでいた、とは、どういう意味だろう。さっきの男性の話をあわせて考えて、御神体の役を五年間務めたということ。じゃあ、それ以前、六年前の彼女は何者だったんだろう?
「どういうこと? ……六年前のきみは、なにをしてたの?」
「あたしね、ここに来る前は、サトリじゃなかった」と花が答える。「女子高生だったの。ふもとの町で、普通に暮らしてたんだ」
祐一郎は目を見開いて、花のほうをむいた。全体に日焼けしているあどけないつくりの顔が、庵のうすぐらい壁際でみにくく歪む。
「えーと。きみって、いま、何歳だったっけ?」
ふと、少女の表情と外見に違和感を覚えて、祐一郎は聞いた。
「何歳に見える?」「めんどくさい返事だなあ」「うふ」
祐一郎はリュックのなかから資料を出してめくり、みつけた答えを口にする。
「十八歳だよね?」
「ずるいよっ。しかも、間違ってるよ。あたし、もう二十三だよ」
花の尖った声に、祐一郎は耳を疑い、さらに聞いた。「じゃあ……資料に書いてある年齢は、きみが人間だった時のもの、ということ?」
「そうなんじゃない? でも、あたしが書いたんじゃないから、知らない」
十八という数字を念頭において、花の姿を見る。ほっぺたの艶やくりくりした目の輝きが、二十三歳にしては幼さすぎるなあ、と感じていたので、祐一郎は納得した。だけど、新しい疑問がわいてくる。
庵の床がぐらつくような不安をおぼえ、額を手で押えて、祐一郎は思いついたばかりのことを聞く。
「じゃあ、きみは五年前のある日、とつぜん、『サトリ』になったってことなの?」
「ある日突然……?」
問いかけに目をすっと細め、花がカビの生えた天井をにらむ。腕を組んで、背中を汚れたしっくいに寄りかかり、しずかに考えこむ。やがて口もとを手でかくして答える。
「そう、突然、なんだよね。ちょうど、そこの玄関のところだったけど……あたしは倒れて、目が覚めたら、他人のこころが、見えるようになってた」
少女はそういって、せまい庵のなかをぐるりとみまわし、片腕で自分の体を抱いた。少女の細い腕がびくんと、怯えるようにふるえてた。
五年前のそのとき、少女に何かが起こり、サトリになった。少女の仕草を見る限り、その何かは痛ましいものだったのかもしれない。胸がちくちくしたので、祐一郎は、目をそらし、追及をやめる。話題を変えることにする。資料を畳んでリュックにしまい、立ちあがった。
「ところで、忘れ物って、なんだったの?」
「あ! そうだった!」花がぽんと手を打つと、部屋のすみっこの段ボール箱へと歩いていってふたを開け、ヌイグルミを出して顔の前にかまえた。
「こんにちはー! ボク、モチーバくんだよっ」「……はあ」「お餅の国からきました!」「はあ」「モチロン、お肌はモッチモチだよっ」
餅のヌイグルミらしかった。祐一郎は泣きたくなった。適当に相槌を打っていると、花がヌイグルミのうしろから顔を出して笑った。
「どうどう? この子、モチーバ君っていうんですっ。可愛い? 最高?」
「うん、うん。可愛い、可愛い」
「すごい棒読みじゃん!」
「そんなことないよ。かわいい、最高」
「そうだよねっ。モチだけあって、引っ張ると手足が伸びるんだよ、可愛いね!」
『モチーバくん』というヌイグルミは、きっと思い出の品なんだろうけど、人間からサトリになったという、少女の思い出に立ち入るのは怖かった。手足が伸びることと可愛いさに何の関係があるのか、納得がいかなかったが、祐一郎は愛想笑いをつづけた。
目的を果たしたので、電灯のひもを引き、二人は庵を後にした。花は忘れ物を取りに来るよりも、自分に庵のなかをみせたかったんじゃないか、という推測が、下山途中の祐一郎の胸を満たす。
たったいま庵のなかで見てきた、さみしい情景が、まぶたの裏でちらついた。
――五年間か。
「ねえ」と祐一郎はヌイグルミを抱いて前を行く少女に声をかけた、「きみは五年間、あそこで、その、暮らしてたの?」
「あたし、さっき言ったよね、それ」
落ち葉をふみしめる音を裂いて、うす暗くなった森に花の声が冷たくひびいた。
木々のあいだで揺れる黒いブラウスの背を追いかけるうち、手の甲を笹の葉で切ってしまい、赤くにじんだ血液に顔をしかめながら、祐一郎は足を動かしつづけた。
花と別れ、再びバスに乗って駅前まで戻り、予約していた民宿の部屋に着くと、祐一郎は荷物を置いて窓際にゆき、麻衣に連絡するために携帯を耳にあてた。
庵のなかで花から聞いたことを伝えると、麻衣が低い声でうなった。
「ふぅん、後天的なサトリ、ということになるね」
「サトリっていうものを、これまで自分は、人類が突然変異した、亜種のような生物だと思ってましたが、もしかしたら感染症による遺伝子変化によって表れる変異なんでしょうか。個体数が少ないのは、感染経路がすごく特殊だとか、なにか理由があって……」
「サトリになった経緯について、本人はなんていってたの?」
麻衣が祐一郎をさえぎって聞いた。祐一郎は息をとめ、申し訳ない気持ちで返事する。
「いえ、すみません、なにも、っというか……ぼくが、なにも聞けなくって」
「そっか。それはそれで、いいさ」
受話器のむこうで、麻衣が笑う気配がする。
「まあ、推論はそのくらいにしとこう、名探偵くん」麻衣が茶化すような調子でいう、「きみが口にしたことの真偽を研究するのが、わたしたち研究者の仕事だよ」
正論を聞かされ、祐一郎は口をつぐみ、体の力が抜けて畳に座りこんだ。受話器の向こうで、まだ麻衣がわらっている。悔しかった。
「まあ、僕は研究者じゃなくて、アルバイトですから、記録員ですから、関係ないんですけどね」
「なんだ、拗ねちゃったのか?」
「いや、別に、ぜんっぜん、これっぽっちも拗ねてないですよ」
「くくくく」くぐもった声を漏らした後で、麻衣が取り繕うように話題を変える。
「明日はきみ、何時にこっちに着くんだっけ?」
「研究所に、十七時三十分着の予定です。この村を午前十時五分のバスで発ちます」
「そうか、そんなに遅かったかな。まあ、ちょうどいい、新しい実験体も、宿泊所に引き取って、そのままきみが面倒を見てくれ」
「今度の子は、あいつとは違いますよ!」
「ちがう個体だからな……。だからどうした、はじめてじゃないだろう?」
「そうですけど、だけど、それは」
「つまり、引き取れないの?」「うっ」「別に良いよ。わたしのうちに連れて帰ろう」「……いえ、僕が引き取ります」
「別に焚きつけてるわけじゃないからね」
と麻衣が優しい声をだした。助手でしかない祐一郎には、実験体の世話も、分不相応に重要なことだ。それを任せてくれるのは、麻衣の好意――同情かもしれないが――と受け取るべきかもしれなかった。
「僕が学校で働いてるあいだ、前の実験体のようにおとなしくしてくれるかどうか、不安ですね」
と祐一郎は悪あがきみたいなことをいう。それを聞いても、麻衣の声はまだやさしい。
「細かいことは、明日、花ちゃん本人もふくめて話し合おうじゃないの」
「わかりました」と、祐一郎はうなだれて電話を切った。
翌日の午前十時、祐一郎が小走りで南女甲野駅の待ち合い室に着いたとき、すでに花は時刻表を背もたれにしてたたずんでいた。祐一郎は謝って頭を下げた。隣に並び、昨日と変わって灰色に曇った空を見あげる。しばらくだまっていたあと、ためらいがちにポケットから一枚の写真を取り出す。
「実は、きみに聞きたいことがあるんだ」
そういって、祐一郎は花に写真をみせた。研究所の宿泊室で、木目調のテーブルについた渉が、皿にのったチョコレートケーキの切れ端を前に、片手でピースをしている。赤い瞳が無邪気にわらっていた。
「きみの兄弟か親戚に、こういう子がいないかな」
「ごめんね、知らない。あたし、兄弟も親戚も、いないから」
花がすぐに答え、さすがに冷たすぎたと思ったのか、かるく頭を下げた。
「ごめん。このひとも、サトリだったんだね」
「うん。ああ……また、読んだのかい?」
「うん。いまおじさんが考えていることだけ」といい、花はためらいがちにつづけた、「渉さん、死んじゃったんだね」
祐一郎は下唇を噛んでうつむいた。白に近い灰色の空のした、遠くから車輪の音が聞こえてくる。小さなホームで自動ドアを開いた電車に、花が先に乗りこみ、祐一郎もつづいた。
ほかに乗客のいない車内で、二人は濃紺色の座席に並んで座る。発車音が鳴り、古い家並みや豊かな林が車窓に流れはじめると、祐一郎は花に話しかけた。
「きみは、きみの遺伝子を解析する、っていう今回の話について、どう考えてる?」
渉が祐一郎のほうをむき、じっと動きを止める。読まれているな、と祐一郎は感じた。
「祐一郎は、あたしも、その人みたいに死ぬかもしれないって、心配してくれてるんだよね?」
色のうすい唇から出てきた言葉は、祐一郎の頭にある考えそのものだ。祐一郎はうなずいて窓の外を眺める。黄色くなった葉をつけた木々が後ろへと流れていく。
「うん。……ごめん。……きみはそれを、知ってたの?」「はい」「それでも、まだ自分も実験体になる気でいるのかい?」「はい」
「あたしは、あの小屋と、村から出られれば、死んじゃってもいいんだよね」
花の口から、死という単語がとび出したので、祐一郎は面食らった。花はふいと視線を逸らし、さびれた国道を眺める。ガソリンスタンドや集会場らしい建物が、広すぎてガラガラの駐車場をさらして通り過ぎてく。
「だって、祐一郎だって、あたしだって、そのうちには、死ぬし。……けど、あたしは、あたしが何者か分からないうちに、『御神体』なんてよばれながら、生きてくのは、なんか、疲れちゃったから」
祐一郎にとって、花の言葉は、知人を失くしたばかりで辛辣すぎた。だから祐一郎は、花と反対の窓のほうをむき、何も言えずに独り言みたいな花の声に耳をかたむける。
「研究の実験体、っていう話を聞いたとき、ラッキーって思ったくらいなんだよ。この村からは出られるし、サトリになった理由がわかるかもしれないし」
と花が感情のうかがえない声で言う。
花の言葉の一つひとつが、祐一郎の胸を重苦しくする。祐一郎は、苦しさからのがれたくて、質問を作って口にする。
「きみ、その……兄弟はいないっていったけど、ほかのご家族は?」
「あー、お母さんだけ。お父さんはいないよ」
「いない?」
「はい。いないっていうか、誰だかわからないって」
「……」と祐一郎がおもわず息を止めて赤い目を見つめると、花が声を出さずに目だけで笑う。
「いやあ、それももう、どうでもいいよ」
「きみね、どんだけ投げやりなんだよ」
あまりにも他人事みたいな言いかたをされたので、祐一郎はやるせなくて、もう消えそうな口調になってそう聞いた。すると、花が楽しそうに、白い歯を見せて笑う。
「ほんとうに、なんて呼ばれても、誰にどんな風に扱われても、いいよ。人間でも人間じゃなくっても、いいし。ただ、死ぬ時までに、もう少しだけ、自分のことが知りたいだけ。だって、あたしには誰もいないから」
花の言葉には迫力があり、祐一郎は圧倒される。サトリについてなにか話せることがないかと思うが何も無く、しどろもどろに口を開ける。
「まいったな。だけど、ぼくはサトリについては……」
「ほとんど、なにもわかってないんだよね。人間とほぼ同じ遺伝子情報、高い運動神経、相手の心を感じる力。ああ、あたしが、みんなにとって二つ目のサンプルなんだ」
「……ご名答」
祐一郎は頬がひきつるのを感じた。内心で少女の読心術に舌を巻き。自分の無知が恥ずかしくなる。
集中を高めてるせいか、いつしか花の表情はひきしまっていた。赤い目を光らせて、つづけて聞いてくる。
「渉くんって子は、どんなサトリだったの?」
祐一郎はどの程度まで情報を話していいもんか、と弱って、頭を掻いた。いや。
――だけど、どっちみち、読まれちゃうしなあ。
そのことに気がつき、祐一郎は花に渉のことをありのまま話した。半年前に、山のなかをさまよっていたところを保護され、研究所に送られてきた渉のこと。祐一郎が彼の世話役として、一緒に暮らしていたこと、そして、昨日、実験中の事故で死んでしまったことまで話した。
「世話かあ」としめった吐息まじりの声で花がいう。半分は祐一郎の言葉を聞いているけど、意識のもう半分では、心を読んだ内容を考えているみたいに、遠くを見る目つきをする。
祐一郎は居心地悪く、バスのシートにもたれた体の位置を直したりした。渉と暮らして慣れてきてはいたけど、こうもはっきり考えを言いあてられると、胃のあたりがじくじくする。
「その人は、どうして、殺されることに気づけなかったんだろう?」
「どうして殺されたか、なんて……だって、殺されたわけじゃないらしいんだよ」
「殺されたと考えるのが、自然だと思うよ」
少女の言葉が、祐一郎の胸にするどく刺さった。
そのとき花から指摘されるまで、祐一郎は渉の死を、『殺された』と本心から考えたことはなかった。
「実験が危ないものだってことは、すぐに分かったはずだもん。だから、どうして殺されるまで、されるがままになったのか、わかんないな」
祐一郎は口をつぐんだ。すると、麻衣か彰良が殺したということになるけど、二人が貴重な実験体を殺すとは考えられない。
「もしかしたら、その子も、あたしみたいに死にたかったのかもね」
そういわれて祐一郎は花の顔を見た。祐一郎には、隣にすわる少女の気持ちを読むことはできない。赤色の目が電車の行き先にむけられ、窓の外では線路に並走する国道沿いのファミレスやコンビニの広い駐車場が通りすぎる。
電車は走り続け、無言になった二人を千葉の片田舎に近づけていく。