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中野城製薬研究所は千葉県成関市の片田舎の、駅や住宅地から車で一時間ほど離れた森にひっそりと建っている。宿泊用の青いトタン屋根のアパートも周りを木々に囲われていて、昼間でも薄暗い部屋は、どんなに掃除してもかび臭い。
さかのぼること半年、二〇一四年五月中旬から、つい昨日――十一月二十六日――まで、渉と祐一郎は、そのボロアパートで、半年間、いっしょに寝泊りしていた。
祐一郎が子供好きなのではなく、あくまで実験のためだ。それでも、自分になついていて、泊りがけで面倒を見ていた少年に、思った以上に愛着を抱いていたことに、渉を亡くしたあとで、祐一郎は気がついた。
名前の渉といわずに、実験動物、という人もいたけれど、祐一郎ははじめから終わりまで渉と呼んだ。どうして彼が実験体として扱われたかというと、人間じゃなかったからだ。人間じゃないけど、人間によく似た亜種だったからだ。遺伝子情報を解析中なのだが、渉と人間との遺伝的な差異は、一パーセント程度に収まるのではないかという。
ちなみに、人とチンパンジーの差は数パーセント、ラットとの差は十数パーセント、ショウジョウバエとの差は数十パーセントだ。
日差しが熱を帯びはじめた五月なかばの、ある週末の昼さがりのこと、渉が麻衣に連れられて研究所にやってきた。白髪赤目という姿におどろきながら、隠し子ですか、と聞いた祐一郎に、麻衣は無言の握りこぶしで返事をした。
「マジで痛い……」
「自業自得よ」
ほっぺたをおさえて仰向けに倒れた祐一郎に、麻衣が冷ややかな声を浴びせた。それから少年の手を引いて、足元の祐一郎に紹介した。
「実験体八十三番。渉、って呼んでもいいそうよ。今日から私たちの研究に力を貸してくれます」
名前を呼ばれて、白髪の少年が、椅子から立ちあがり、祐一郎にお辞儀をした。祐一郎もぎこちなく床から起き上がり、研究室の机に手をついて頭を下げる
「ときに祐一郎くん」と麻衣が二人を眺めて機嫌をなおし、「きみには、今日から、宿泊所に泊まり込みで、彼の面倒を見てもらうことにしたから、よろしくお願いね」
祐一郎は頭をあげる途中の姿勢で固まり、口を開けた。かまわずに麻衣がつづける。
「言うまでもないことだけど、彼のことは秘密厳守でお願い。……ま、言ったところで、だあれも信じてくれないとは思うけど」
「祐一郎さん。渉です。よろしくお願いします」
と少年が高く明るい声であいさつをした。小ぶりな手のひらを祐一郎の胸の高さに差しだす。
「ああ……ええと、こちらこそ、よろしく」
祐一郎はおそるおそる少年の手を取った。握手をすると、渉の手のひらには、人間とおなじぬくもりがあった。
その日のうちに祐一郎は木造平屋の研究用宿泊所に引っ越した。荷物は必要最小限にまとめ、住んでいた狭いアパートはそのままにしておいた。
『サトリ』の実験体との生活は、祐一郎にとって、刺激的なものだった。容姿以外はほとんど人間と変わらないからこそ、違いに気づくと驚かされる。祐一郎は、食事をつくり、洗濯し、掃除しながら、渉を観察しつづけた。
『サトリ』という名の由来になった、日本民話の怪物みたいに、やはり渉も、集中すると、まわりの人間の考えを読むことができた。さらに、運動能力も平均的な人間の倍以上あった。
こんな生き物が、いったいどこに隠れ住んでいたのだろうと、祐一郎は何度か渉に疑問をぶつけたことがある。
「渉は、ここへは、どこから来たんだい?」
「山のなか、だよ」と渉はまぶしそうな目つきをして思いだし、こんな風にいうのだ。
「山のなかのちっちゃい小屋で、お母さんといっしょに暮らしてて……ムラのひとたちが、お参りにくるのを見てたんだあ」
そうした話から察すると、渉と母親の二人は、どこか山の中の、小さな祠か神社のようなところに住み、週に一回程度、近くの村のひとが届けてくれる野菜や米を頼って生きていたらしい。
「だけどさ、ある日から急に、食べ物が運ばれてこなくなっちゃったんだ」
最初は、一日か二日、遅れているだけだろう、すぐに誰か届けに来る、渉と母親はそう思っていたが、何日待っても食料は届かなかった。
「だから、お母さんを背負って、山を下りて村に行ったんだ。三日もかかったんだよ。でも……村に着いたときには、もう誰もいなかった」
すべては推測するしかない事だ。祐一郎が思うに、そのとき、村人たちは、なにかの理由で村を捨てたのだろう。それは過疎のせいかもしれないし、ダムか発電機などの開発のために、土地を手放したほうが得になったのかもしれない。
そして、信仰の対象であった渉たちも、見捨てざるを得なかった。村に降りた渉たちが家探ししても、食べられそうなものは残っていなかったというから、村の財政は苦しかったんだろう。
渉は村をあきらめて、山を抜けようとした。だけど、もともと体の弱い母親は、空腹と疲労で弱りきっていて、間の悪いことに、ふたりが山を下りはじめた日の夜から、冷たい雨が降りだした。大きな岩の陰に身を寄せあい、寒さに震えながら、眠るともなく眠った二日目の夜が明けて隣を見ると、渉の母は息が切れかかっていて、もう立ちあがれなかった。
母親を置いて山を下りるわけにゆかず、渉が途方に暮れているところへ、突然、上空からさわがしい物音が聞こえた。見あげると、空に浮いたヘリコプターからロープが垂れて、人が下りてくるのが見えたという。やがて、銃をかまえた大人が数人、渉と瀕死の母親をとりかこんだ。
母親を背負った渉に、最初に話しかけてきたのが、麻衣だった。少年たちが見捨てられたことを知り、保護をしに来た、という理由だったそうだ。そして、ヘリコプターの重量制限の問題があり、母親は保護できない、とも言った。
「あなたは助けます。でも、お母さんはあきらめなさい。意地悪で言うんじゃないのよ……そのひとは、もう、手遅れだわ」
「うう、うううう、う……」
その時は悔しくて泣いてしまったけど、いちおう、命の恩人なんだよね、といって渉は祐一郎の前で笑った。祐一郎は、自分の平凡な人生と今でも元気にやっている母親と、渉とをくらべて、途方にくれた。
過ごしてきた境遇や、規格外な身体能力に反して、渉は明るく素直で人懐こい少年だった。おかげで、一緒に暮らすことは、しだいに祐一郎にとって仕事以上のものになった。
二人は一緒にご飯を食べ、コーヒーを飲み、テレビを見て、ときどきゲームをした。四角い袋に入ったとんこつラーメンと、砂糖を多めに入れたインスタントコーヒーとNHKの大相撲中継と、金太郎電鉄というテレビゲームが少年は好きだった。
渉の存在は機密事項だったので、検査以外での外出は禁止されていた。来る日も来る日も、彼は研究室の診察台に小柄な体を横たえて、検査を受け、注射を打たれ、赤い両目を痛そうにゆがめて帰ってきたり、失神して帰らないこともあった。
祐一郎は週末だけ研究室の机に座り、実験結果を集計し、パソコンに打ち込みつづけた。
きみはどうしてこんな辛い実験に耐えられるのかと、祐一郎は渉に訊ねたことがある。
「『人間のいうことを聞いて、仲良くしなさい』って、お母さんが言ってたんだ。ボクは人間じゃないから、そうしないと仲良くできないって」
だけど渉は死んだ。
死の一週間ほど前から、ときどき頭痛があってぼーっとすると訴えてはいたものの、それほど深刻なものには見えなかった。前日の朝だって、買い置きしていたとんこつ味のインスタント麺をずるずるすすりながら、出勤する祐一郎に笑顔で手を振ってくれた。
ところが、その日の昼間に彰良から、あの電話がかかってきた。
特別な死因はなく、肉体的な限界だと、寿命だったと、彰良から聞かされた。祐一郎は電話口でとりみだした。
「そんな、急速に、寿命が訪れるものですか? それって寿命っていえるんですか。だって、渉の体は、人間よりずっと強いはずなのに……」
「しかし、寿命は寿命さ。言うなら、実験体としての命をまっとうしたんだよ。肉体的な限界が来たんだ。いつもと変わらない強度の実験を行った結果、死に至ったんだから。外面的な老化が見られないぶん、内臓機能の低下が早いのかもしれないね。……参考になったよ」
研究者らしい口調で、彰良が長々とそういった。祐一郎の頭のなかには、聞こえている声の半分も入ってはこなかった。
「八三番が、尊い犠牲になってくれたと思って」
渉の死にショックを受ける祐一郎に、電話の向こうの彰良が――思いやるつもりで――かけた言葉が、いまだに耳にこびりついている。