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 ほんとうに、あれは、たかだか一週間前の出来事だったんだろうか?

 カントリー公園の駐車場に原付を止め、砂利を踏みしめ歩きながら、祐一郎は花とのキャッチボールを思いかえし、温かいものと不安を同時に心に感じた。服装も持ち物もホテルを出たときのまま、小さな手提げかばん一つ、手袋をはめた右手で握っている。コートの左ポケットのなかで、小型の注射器を手の平でもてあそんでは、にじみでる汗を裏地にこすりつける。

 やっぱり冬の大気は冷たく、コートを着ていても、ときどき背筋がふるえてしまう。駅のまわりでは風なんて吹いてなかったけど、カントリー公園は峠を登る途中にあるので、ときどき冷たい山の風が吹いてくる。

 待ち合わせ場所は、公園の芝生広場の真ん中らへんにある大きなどんぐりの木の根元だ。駐車場からゆるやかな坂を上っていくと、月明かりの先に大きな影が見えてくる。

 十一時五分前に祐一郎が着くと、麻衣が先に来て立っていた。全身真っ黒な格好をして、麻衣は木の幹によりかかってコートの襟を立てながらタバコを吸っていた。数メートル離れて、花が芝生のうえに立って空を見あげてた。銀色の髪が淡い光を反射して、ぼうっと浮きあがってるように見えた。それが泣きたくなるほどきれいだった。

「時間通りね」といい、麻衣がタバコを幹に押しつけて消した。吸い殻を地面に捨てて顔をあげる。「彰良くんは留守番よ。ちょっと、きみに対して優しすぎるから」

 祐一郎は何も言わずに鞄を顔の前で振った。二人の視線がそこに注がれるのを感じる。麻衣が前に出てきて、口元をゆがませる。

「開けていいのかしら、祐一郎くん?」

「開けてくださいよ。それはもともと研究所の物ですしね。勝手に持ってってすみません」

 タバコの匂いといっしょに麻衣の手が伸びて祐一郎の鞄を取り、中身をあらためて手を止めた。

「二本、足りないけど。なにかに使ったのかしら?」

「そんなとこです」といい、祐一郎はあいまいに頷く。麻衣に追及されるのが怖いので、すぐに少女を指さして要求を言う。

「じゃあ、ぼくは花を連れて帰りますね」

「ごめんなさい。それが出来なくなったわ。やっぱり、祐一郎くんに彼女は渡せない」

 所長が新しいタバコを出して火をつけた。

「なぜなら、実験体に何かあったとき、あなたたち二人とも対処できないから。例えば、風邪薬飲んだり、病院に連れてったりして、余計に実験体の体調が悪くなる可能性もある」

 祐一郎から見て左を向き、煙に混ぜて所長が言葉を吐いた。視線を合わせないのは約束を破って後ろめたいからだろう、と思ったけど、こちらを見ないで煙草をスパスパやる所長を見ると、祐一郎は指摘する気持ちが失せた。

「それでも、ぼくは花を連れて帰りたいんです」と祐一郎も遠い目つきをしてただよう煙を追いかける、「……なんなら、花だって、所長も知っての通り、長生きは望みませんよ」

「この場合、あなたたちの望みなんて、関係ないのよ。実験体の生命が重要なの」

 麻衣が夢のないことをいう。

「つまり、所長がいうのはこういうことですか? 花は返さない。そのうえ、アンプルはもらう。初めから、そういうつもりだったんですね。……いいよ。わかってるんだ。だから、僕も、そのつもりで来たんです」

「どういうこと?」

「準備してきたってことです」

 祐一郎は麻衣に鞄を押し付けるように渡した。

 そのとき祐一郎と花の視線が交差し、少女がまばたきせずにじっとこちらの目を覗きこんだ後、急に体を左右に揺らしながら前にかがんだ。高くて切ない笑い声が少女の喉から絞りだされる。

 麻衣が鞄を脇に挟んでため息をつく。まだ気づかないのは、祐一郎にとっては都合がいい。芝生をざくざく踏んで、麻衣の隣で笑っている花に近づき、やわらかい手を握る。

「逃げよう」

「……バカ」

 少女がうなずいて、はっきりと手を握り返してくる。励まされるように、祐一郎は花の手を引き、駐車場にむかう下り坂を引きかえそうと体の向きを変える。

 立ち去り際に見た所長は、腕組みをして、いつもの眠そうな目つきでこっちを見てた。

芝生の広場を抜けて、カーブした下り坂の先に駐車場が見えようかってところで、二人の足が止まった。駐車場の入口に白い犬の群れが見えたからだ。さらに、頭上からガアガアと不吉そうな鳴き声が降ってくる。

 祐一郎が顔をあげると、真っ白い影が目に映った。十数羽のカラスが、砂利道の脇に生えた松の枝に停まっている。『サトリ』に感染したせいなのか、白い羽毛を夜空に浮きあがらせ、無機質な赤い目で二人を見下ろす。背筋に寒気がはしる。

 ふりむくと、芝生の丘の上で、麻衣が手に持った何かを口にくわえるのが見えた。掠れた笛の音が公園に響きわたり、彼女が笛を吹いたのだと、祐一郎にもわかった。それが鳥たちへの合図だった。

 襲撃がはじまった。ひどい、まったくひどいもんだった。まだ痛みの残ってる体に、カラスたちが群がり、コートに爪を立て、太い嘴で祐一郎の首筋をついばむ。祐一郎は両手を振りまわしてカラスを追いはらおうとするが、多勢に無勢だった。祐一郎の手は空を切り、反対に、手袋をした両手やむき出しの手首に傷ができ、血が流れだす。痛くて情けなくて泣きそうになる。

 花を見ると、抵抗らしい抵抗もせず、されるがままに任せてた。そのせいで祐一郎より傷が多く、とくに頭部を突つかれて溢れた血が白髪ににじんでいるのがおぞましくて、祐一郎は自分をかばう合間に少女を襲うカラスも追い払おうと、手をめちゃめちゃに動かした。カラスたちは大してひるまず、かえって二人は傷を増やしながら、駐車場に続く坂道を下りた。

 砂利を敷き詰めた駐車場には、大型犬が数えて十一匹、白い体を並べていた。あと十メートルで原付に辿りつく地点で、犬たちが一斉に祐一郎たちのほうを向き、街灯の下に毛並みを光らせて、ゾロゾロ歩み寄ってくる。

 犬とカラスのどちらも走って逃げられる相手ではないし、祐一郎の考えでは、死にかけてでも原付にまたがり、エンジン全開で逃げる以外に、助かる方法がない。――現時点では。

 あのアンプル――『サトリ』のウイルスだと思われる――ここに来る前、祐一郎はあれを、自分自身に打ってきた。今度こそ、殺されるかもしれないからだ。

 もしかしたら、もしあの『サトリ』のウイルスが、自分に完全に作用してくれれば、花を連れて逃げられる、というワラにもすがるような願望が、痛みと恐怖で壊れてしまいそうな祐一郎の気持ちを支える。

 花がろくに抵抗をしない理由は見当がつく。いつだったか、祐一郎に語って聞かせたように、もうここで二人とも死んでしまえばいい、と思ってるんだろう。

 祐一郎は死にたくも生きたくもない。ただ、もう少し、もう少しだけ、という気持ちが、花に対しても自分に対しても、湧きおこってきて、押し止めておくことができない。

 祐一郎は花の手を握りしめ、頭を低く下げて駆けだした。最初に飛びかかってきた犬の鼻づらを思いきり蹴飛ばし、二匹目の頭を踏んづけ、三匹目の牙をジャンプしてかわし――四匹目の顎で右足のふくらはぎの肉がえぐられた。体が前につんのめり、地面に倒れそうになる。祐一郎の目の前に、犬の尖った歯が近づく。

 危ない、と感じたその瞬間、花に手首をつかまれ、ものすごい力で引っ張られた。強制的に体が引き起こされ、勢いのつきすぎたブランコみたいに、祐一郎の両足が地面をはなれ、自分の頭より高くあがる。祐一郎の体は空中で上下さかさまになり、花の腕の力で振りまわされ、遠心力で夜空に投げ出される。

「逃げなよ!」

 と花が大声でいい、祐一郎の手首を放す。放り出された中年男の体が空中に放物線を描き、駐車場の反対側の原付にむかって飛ぶ。

 不思議と祐一郎の頭はクリアだった。花の言葉の意味と意図を理解して、空中で両手を広げ、姿勢を整え、原付のシートへと着地する。座面シートに胸がぶつかり、軋み、痛みを感じる間もなく原付といっしょに地面に倒れ、転がる。砂利に手をついて立ちあがり、原付を起こし、花の姿をさがす。白い犬とカラスたちが、一点に群がってるのが見える。

「待てよ、おい!」

 祐一郎は意味のない声を出し、エンジンをかけてアクセルを踏み込む。犬を一匹撥ねとばし、地面すれすれに伸ばした片手で、犬たちの真ん中から花のコートをしっかりと掴む。

「花!」

 と名前を呼びかけると、少女も祐一郎の黒いコートにつかまり、つづけて腕と腕を絡め、体にしがみついてくる。獣と血の匂いが鼻をつく。

 祐一郎はハンドルを切り、Uターンして駐車場の出口に向かう。運転を始めて姿勢が安定すると、思いだしたみたいに頭、胸、足を痛みが襲い、ハンドルを握る手がふるえた。車体がぐらぐら揺れてしまい、うまく加速できない。

 もうすぐ駐車場を出られるというところで、原付の右側から、ひときわ大きな犬がぶつかってきた。ショックで減速した車体に、同じ犬がもう一度突進してくる。あっけなく、原付がバランスを崩し、祐一郎と花はそろって地面の上に投げ出される。花の小柄な体を放さないよう懸命に抱きしめる。立ちあがろうと足に力を入れるとき激痛が走り、ふくらはぎをえぐられてたことを思いだす。原付のボディから煙が上がり、折れてしまったハンドルが駐車場の隅に転がっていく。

 一昨日からのことを考えると、まるで自分が死んでも動きつづけるゾンビになったみたいだ。体がどうしてまだ動くのかさえ、祐一郎には分からない。片腕で少女を抱えたまま、砂利に手をついて立ちあがる。

 そのとき笛の音が聞こえ、祐一郎はその方角を見た。駐車場から公園に続く坂道の途中で、麻衣が二人を見下ろしながら銀色の小さな笛を咥えてた。

 ――あれを、止めさせればいいんじゃないか?

 片足を引きずって、動かない少女の体をかかえ、祐一郎は麻衣にむかって走る。群がってくる犬とカラスを蹴飛ばし、手でたたき落し、痛みをこらえながら坂を上ってく。体じゅうぼろぼろで痛みもひどいが、目が慣れて来たせいか、嘴も牙も爪も身をよじってかわすことができる。

 近寄ってきた祐一郎を見て、麻衣が笛を吹き、犬たちを二人のあいだに呼び寄せる。カラスたちがわらわらと降りてくる。

 祐一郎は、白い獣たちのあいだを縫い、腰を低くして麻衣に近づいていく。さっきから頭と体は痛いが不思議と手足はよく動き、恐怖も感じない。どこかスローモーションに見えるカラスの突進、噛みついてくる犬たちの牙を避け、頭を飛び越える。

 サトリのウイルス注射が効いてきたのだと、祐一郎はようやく理解した。同時に、自分の命があと少しで消えるってことも。

 包囲網を抜ける。祐一郎が麻衣の手から笛をもぎ取ろうと手を伸ばしたとき、彼女はすでに笛を捨てて拳銃を構えていた。一発目の銃声を、別世界の音みたいに祐一郎は聞いた。

 銃弾でなく、細い針がコートを突き抜けて祐一郎の右肩に刺さった。それまでと比べ物にならない激痛が全身をつらぬき、祐一郎の体が力を失い、地面に崩れ落ちる。

 つづけざま、銃声が連続して鳴り、犬たちが悲鳴をあげ、カラスが何羽も地面に落ちる。騒がしい悲鳴と羽音が、地面に倒れる祐一郎自身の物音と重なり、耳を疲れさせる。

 犬たちの生臭い息が顔にかかる。また頭痛を感じる。さっきよりひどい頭痛だ。それがどこかをぶつけたせいだと思ったけれど、ちがう。内側から何かが膨らんでくる気がする。祐一郎は頭の膨れた金魚と犬と、渉の姿を思いだす。

 ――僕もああやって、死ぬのか。やっぱりサトリは伝染するんだな。

 思考もすぐに中断させられる。頭の割れそうな苦痛で、祐一郎は冷たい土の上でのたうちまわる。気が遠くなっていき、頭の割れた渉の最期がまぶたの裏にちらつく。

 パン、パン、と乾いた発射音が鳴り続いている。

 カントリー公園は、急速に静けさを取り戻していた。静かになった坂道のうえで、少女と女性が立ち話をしてる。

「みんな、殺したんですか?」

「麻酔入りのワクチン弾だから、死にやしないわ」

 ……なんだって?

 祐一郎は混乱した。すると麻衣は、ワクチンの実験のために来たってことなのか。祐一郎がアンプルの中身を自分自身に打つ、と予想してたわけだ。

 少女が言う。

「麻衣の思い通りに行動させられちゃって、祐一郎がバカすぎてさ。死んじゃえばいいって思って、それで、あたしも死ねばいいって思ったのに」

 そうだろう、そりゃそうだろう。だって、花には、祐一郎がなにを考えてるか読むチャンスがあったんだ。彼女には祐一郎がすでにサトリのウイルスを自分自身に注射してしまってるってことがわかってた。

「麻衣、さあ……それって優しさだと思う? 死にたがってる人を助けるのって」

 麻衣の答えは聞こえない。さっきから花が一方的に話してる。そんなふうな少女の声を聞くのは久しぶりだった。祐一郎にとっては、彼女を連れ帰るバスの中で話をしたとき以来だ。

「なんで、祐一郎が死のうとするんだろ」

 すすり泣きみたいに花がつぶやいて、それが祐一郎には体じゅうの傷よりも痛かった。

 麻衣が一言、声をかける。

「行きなさいよ。あなたは確かめるべきだと思う。彼の行為が優しさなのか、ほかの感情のせいなのか、ね」

 少女が祐一郎を背中におぶって歩きだす。ほんとうに格好悪かった。手足と胸の痛みはひどくなっていたが、頭痛は薄らいでいる。規則正しい揺れと足音が子守歌みたいで、祐一郎は眠りについていく。花の背中から、柔軟剤のラベンダーの匂いがした。


                                    (一章終わり)

こんな小説ですみません。

読んでくれて本当にありがとうございます。

二章は今年中に書き上げる予定です。

もしもまた読んでもらえたら、とてもうれしいです。

それじゃあ。

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