1(プロローグ追加 2016/12/28)
プロローグ
十二月の初め、祐一郎は仕事帰りに自宅の一つ手前の駅で電車を降り、コートの襟を立てて行きつけの小さなバーに向かった。カウンターに座ると、マスターがラムコークでいいかと聞いた。いつもならそれでよかったけど、祐一郎は断った。
「なにか、ラムの美味いやつをもらえませんか、ロックで」
「珍しい! どうしたの、なんかいいことでもあった?」
とマスターが禿げ頭を光らせて聞いた。
「いいこと、っていうか。まあ、そうなんですけど」
「なに、教えてよ」
「先に酒をください」
「何でもいいの? ラムの美味いやつなら。ちょっと高くてもいい?」
「大丈夫ですけど。いくらぐらいです?」
「そりゃあ、いくらでも高くできるけどね」
マスターが後ろをむき、たくさん並んでる酒瓶を見渡し、一本を手に取った。グラスに注がれた酒を祐一郎は舐めるようにひと口飲んだ。柔らかく、甘い香りのする滑らかな液体が喉を流れ落ちる。美味い酒だった。祐一郎がそう伝えると、マスターは音を立てずに笑った。
「で、どうしたの?」
「ああその……小説を、書き上げたんです」
「ええ!? 知らなかった。そんなことしてたの」
「はい。いや、してたっていうか、初めて書いたんですけど」
「すごいじゃん。ちょっと、読ませてよ」
「マンガみたいな話ですよ」
「なにそれ。ますます意外なんだけど。漫画なんて読みませんって顔してんのに。なに、ドラゴンボールみたいなやつ?」
「いや、そうじゃなくて、妖怪とか出てくる感じの」
「すごいじゃん」
とマスターが繰り返した。それからグラスに半分ほど黒ビールを注ぎ、ぐいっと飲んだ。
「で、どういう話?」
「くだんない話ですよ」
「いいから教えてよ。見ての通りだから」
といってマスターが両腕を広げた。まだ開店直後で、狭い店内は静かだった。祐一郎がとまどってマスターの顔を見ると、まだニヤニヤと笑ってる。
「つまんなかったら、止めてくださいよ」
「別に他の客がいないんだから、入ってくるまではいいんだよ」
マスターがうなずいて、自分のグラスを傾けた。
祐一郎は酒をもう一口飲み、話しだした。あれからもう、一年たったのか、と思った。
「それじゃ、どっから話しましょうか。時期はそう、ちょうど、一年前の冬、この町の話なんですけど――」
1
深夜一時を五分すぎて、バー『アンカー』のカウンターに、斎藤 麻衣が、待ち合わせの五分遅れでやってきた。
祐一郎はラムコークのグラスを持ちあげ、自分の上司に合図を送る。眉間にしわをうかべ、麻衣は祐一郎の隣の椅子をひき、小柄な体をすべらせる。黒いタイトセーターから、染みついたタバコの匂いが漂う。
狭いカウンターのなかでは、中年で髪の毛をぜんぶ剃りあげているマスターがノートパソコンをひらき、趣味のプラモデルのネットオークションに熱中している。
「所長、急に呼び出しちゃって、すみません」といって日々野 祐一郎は中身の減っていないカクテルグラスを置き、頭を下げた。
それから、祐一郎は不安を押しころし、ここ半年間じぶんと同居していた少年が、今日の昼間に急死した理由を聞いた。
「……どうして、渉は死んだんですか?」
「実験中の事故よ」
質問を予期していたのか、中野城製薬研究所の所長が時間をかけずに答えた。四十過ぎのわりによく動く喉から、高く張りがある、若々しい声だ。
「なんの事故です?」
「そうねえ。不幸な事故」
短すぎる返事から、言いたくないという所長の気持ちが伝わってくる。ひどい、と叫びたくなるのを、祐一郎はこらえる。唇をかんで、また聞く。
「あのですね。幸運な事故なんて、あるんですか?」
一瞬の沈黙のあと、所長がぎこちなく答える。
「あ……あるかもしれないじゃない」
「ないです」
祐一郎はこめかみを片手で押える。所長も大げさに、白髪まじりの前髪に手をあてて溜め息をついたけど、祐一郎の目には、本気で悲しんでるようには見えなかった。
所長があいている腕で黒革のハンドバックをあさり、ひっぱり出したタバコの箱を机に置く。『ピース』のフィルムをはがして一本引きぬき、乾いた唇にくわえ、百円ライターで火をつける。
斎藤 麻衣は、中野城製薬研究所の所長だった。背が低くて華奢な体を、いつも早回しみたいに動かして、一人で三人分くらいの実験と記録をこなす。当然、頭は切れる。四十を過ぎてタバコの本数を減らしているというが、それでも一日にひと箱は吸ってしまうという。そして、会話の半分は、嘘とも本当ともつかない冗談なので、祐一郎は所長の真意を見抜くのに、いつも苦労する。
「けっきょく……」祐一郎はこめかみを揉みながら片目をつむって麻衣を見た、「今日、研究所で、渉になにが起こったか、所長は知ってるんですか?」
「彰良くんから、何も聞かなかったの?」
と所長が研究員の名前を出して反対に聞いた。
「私は不在だったから、正確なことは知らないの。彰良くんのほうがよく知ってる」
林 彰良はおなじ研究所の所員で、アルバイトの祐一郎とはちがい、中野城製薬の正社員だ。と同時に、親会社に籍を置いて出向してきた社員でもあるらしい。
『ノーメイ』という親会社は、中野城製薬研究所の研究資金をほとんど支払ってくれているという。その代りとして、研究成果が『ノーメイ』に有益なものであれば、無理やり買い上げてしまうこともあるそうだ。
研究所の裏の喫煙場所に並んで、お金がないから文句いえない、と麻衣が愚痴るので、祐一郎は時々、いっしょにタバコをふかしながら相づちを打つことがある。
研究所の所員は、それでぜんぶだった。たった三名きりの小さな研究所だ。
「彰良さんも、事故だって……あと、実験体としての寿命だったって、それだけしか教えてくれなかったんですよ。学校から、いそいで研究所に行ってみたんですけど、遺体も見せてもらえなかったんです」
といい、祐一郎は自分のいった言葉でくちびるを噛む。
今日の午後、祐一郎の携帯に、彰良から着信があった。
祐一郎は週に四日、月曜から木曜まで、成関高校という進学校で非常勤の生物講師を務めているが、今日は木曜日で、ちょうど授業が午後に集中している曜日だった。
放課後まで待ち、祐一郎が折り返し電話すると、電話口に出た彰良が、実験体八十三番が事故で死んだ、と事務的に告げた。おどろいた祐一郎は研究所まで原付をとばした。でも、つかれた顔に汗をかいた彰良があらわれ、渉の姿をひと目だけでも拝めないか、という祐一郎の希望を、きっぱりはねのけた。
――申し訳ない。実験体のあの死体は、祐さんには見せられない。
「彰良さんは、ほんとに申し訳なさそうに言ってましたけど、ぼくは納得できません。だって、今朝はいつも通りの顔して別れたんです。渉は……」
「ねえ、わたしからも、祐一郎くんに聞きたいことがあるんだけど」
と所長が祐一郎の追及をさえぎって聞く。
「もしもの話――仮定で申し訳ないんだけど――ぜんぶ教えてもらえたとしたら、あなたは何がしたいの?」
所長の目が、怖いくらいまっすぐに、祐一郎を観察していた。答えをさがして、祐一郎は視線をカウンターの上に漂わせたけど、黒光りする灰皿にショートピースの吸い殻しか見つからない。
「『何がしたい』もなにも……自分とかかわりのあるひとが死んだら、理由を知りたくなるのは、自然なことじゃないですか」
と祐一郎はあいまいに訴えた。麻衣はそれを相手にしなかった。
「彰良くんが話さなかったのは、研究上の機密と判断したからでしょう。『自然なこと』なんて、アルバイトに情報漏洩する理由にはならないわ。ごめんね。……あと、死んだのは人間じゃなくて、実験体八十三番よ」
落ちついた調子で、麻衣が祐一郎の考えを打ち消した。祐一郎は背中をまるめ、氷で薄まったグラスの中身に目をうつす。
相手がしょげる気配を感じたのか、麻衣が口調をやわらげる。
「あなたが八十三番に執着するのは無理もないし、立派なことだわ。短い時間とはいえ、あなたがいっしょに住んで面倒を見てたんだもの」
「それは……僕がやりたくてやったことです」
「それでも、いずれ処分される実験体を住み込みで世話するなんて、いやな役目を押しつけちゃったから、感謝してる。だけどね、あなたには、立場ってものをわきまえてほしい」
というと、麻衣が箱から煙草を一本引きぬいて火をつけてくわえ、ふっと煙を吐きだした。祐一郎は下をむいて薄いラムコークをすすり、目を閉じる。
祐一郎は、麻衣の研究室で、助手という名前の雑用係として、土曜と日曜だけ勤めている。もともとは中野城製薬の開営業課の社員だったのを、どうしても研究に関わりたかったので、アルバイトの助手にしてもらった。
週末のアルバイトだけでは食べていけないので、祐一郎は辞めて半年ほどで、社員時代の同僚に紹介してもらい、田舎の高校で生物の非常勤講師をはじめた。会社員を辞めてまで、研究などに関わる必要があったのか、祐一郎はいまでも疑問に思うことがある。
理由は一つではない。そもそも祐一郎が製薬会社に入社したのは、大学で理系だったし、研究が好きだからなんとかなるだろう、と見込んでいたからだ。だけど入社してみると、研究開発をやるのは、誰もが知ってる有名大学を卒業した人たちなんかで、祐一郎は営業に配属された。
五年間、祐一郎は営業課で働いた。仕事は楽ではなかったけど、まっとうな仕事だったと思う。ノルマは厳しい時期もゆるい時期もあって、全体としては、二日に一度の残業で帳尻があう程度におさめることができた。それは、祐一郎が優秀だった、という意味じゃない。むしろ彼は平凡で、自分よりも若くて有能な人間が毎年入社してきて、じぶんを追い抜いていった。そんな経験を何年かつづけるうち、祐一郎は張りあう気力もなくした。異動希望は何度も伝えたが、研究部門に異動できる見込みはなさそうだった。ただ歯車として、捨てられないように会社にしがみついてた。
そんなとき、会社が新しく研究室を立ち上げるにあたり、アルバイトの助手を雇うという話を耳にした。
このまま新しい薬をつくれる見込みがないなら、助手にでもなって、なにかの研究に関わりたい。と祐一郎は思い、一週間後には、上司と話をした。
当初、週に五日間あった助手の仕事は、開設に伴う事務作業が減るにつれ、四日、三日と減り、一年たつころには、土日だけの勤務になったが、それでも祐一郎は辞めなかった。強いていうなら、ただ、やりたかったというよりほかなかった。それだけの理由でアルバイトの暮らしをつづけ、もう三年が経とうとしていた。
「祐一郎くん」と所長が名前を呼んだ。三年前から変わらない、いつもかすれ気味でけだるそうな声を、祐一郎は目を閉じたまま聞く。まぶたには小柄な少年の背中がうかぶ。
一昨日までの半年間、祐一郎は渉という名前の少年――白髪赤眼の実験体八十三番――と、研究所に隣接した宿泊所で過ごした。
渉は人間じゃなかった。サトリという、人間に似た生き物で、現時点では人間の突然変異種なのか、それとも外見が似ているだけの別種なのかわからず、巨人病や小人病のような遺伝子異常の一種という可能性もある。祐一郎は貴重な実験体の様子観察と体調管理を任され、バイト代のほかに手当てをもらい、トタン屋根で平屋の四畳半のアパートで、二人ぶんの家事をこなした。
渉が素直ないいやつだったのが、祐一郎にとってはありがたかった。髪の毛と目の色には二週間で慣れた。本人がいうには、『人間のいうことを聞いて、仲良く』というのが、渉の育ての母親の教育方針だったらしい。ひと月もたつころには、二人で軽口をたたきながらゲームをやるような仲になった。
「実験体が死んだ理由を知って……アルバイトの、研究助手が、なにかできるの? お墓でも作るつもり」
祐一郎は目を開けた。所長の手もとにあった煙草はもう灰皿に移っている。じぶんにできることなんて何もない。
「だけど、だけど、あいつは、死んだでしょ?」
それだけ吐き出して、祐一郎はひと息で空にしたグラスを置き、天井をむいた。『アンカー』のうすぐらい照明が、いやに明るいように見える。
「しょうがないわね。ちょっと、これでも見て、元気だしてちょうだいよ」
所長がくたびれたジャケットの内ポケットを探り、一枚の写真をとり出して、カウンターの上に置いた。古めかしい日本家屋を遠目から撮った写真のまんなかで、少女がひとり、縁側にぽつんと腰をかけている。祐一郎の目は、彼女の姿にくぎ付けになる。
浅黒い肌をした、高校生くらいの女の子だ。少女の髪は短くばらけ、雪みたいに白い。両目は燃えているように赤い。山のなかで撮影したらしく、深緑色の斜面を背景に、色あせたデニムパンツに白無地のTシャツを着て、こちらを向いてはにかんでいる。
彼女とおなじ髪と目を持った少年を、祐一郎は知っている。いまとなっては、知っていた、というのが正しい、今日の昼間に死んだ、渉という名前の少年。
「サトリ、ですか、また?」
口もとにうすい笑みを浮かべ、所長がうなずく。
『サトリ』という名前は、彼らの変わった能力によってつけられたものだ。人類によく似た別種の生き物で、白髪と赤目をもち、彼らは人間の脳波を読み取る器官を脳内にそなえているらしく、心を読むことができる。
相手の考えを、ほぼ確実に悟ることができることから、昔話になぞらえてその名がついたという。また、人類の倍以上の運動能力を備えていて、ある一定の年齢まで育ったあとは、老いるということがない。
『サトリ』の遺伝子情報を解析し、人類との遺伝的なちがいを明らかにすること。可能であれば遺伝子の発現を操作して、人間にサトリと似た変化が表れるようにすること。祐一郎の所属する、中野城製薬研究所第一研究室のここ一年ほどの間の研究課題だ。
「実験体八十四番」と所長が笑みをはりつけたまま聞く。「電車の席はとってあるわ。あなた、この子を迎えに行ってくれない?」
唐突な提案だったので、祐一郎はおどろいた。
所長の言葉の意味を噛みしめながら、十秒ほど口を開けてしまう。だけど、じぶんの状況が分かってくると、祐一郎はこみあげてきた泣き笑いを抑えるため、奥歯をかまなきゃならなかった。
――食えない人だ、ちくしょう。……俺のことなんて、まったく、お見通しじゃないか。
所長は、祐一郎が悲しんでいるふりをしても、好奇心と探求心のために、断らないことを見抜いたにちがいなかった。そして、悔しいが、その予想は当たっている。
「行きゃ、いいんでしょう、行きゃ」
祐一郎はつぶやくように言った。隣人の死は悲しい。新しい実験体もまた死ぬだろう、という予感も胸をよぎる。わかっていても、好奇心と探求心にはかなわなかった。
「ヒューヒュー、かっこいい! わたしも彰良くんも、ここ二、三日は動けないから、助かっちゃうわ」
所長がケタケタ笑い、プリントアウトされた特急列車の指定席引換券をクリアファイルからとり出し、ひらひらと振る。行先は、群馬県の……南女甲野駅。日付は、十一月二十八日になっている。明日だ。
チケットを渡してしまうと、麻衣は挨拶をして腰を浮かせた。祐一郎は、ふと思いだして聞いた。
「あのう、有給、消化できますか?」
「だめ!」といい、年甲斐もなく舌を出して立ち去っていく麻衣の背中を見おくり、祐一郎はカウンターの椅子に体を深くしずめる。
なぜ、二人が忙しいのか。理由は聞かなくても予想がつく。渉を解剖するんだろう。