右腕
大空を旋回する一羽の鳥がいた。
黒衣を纏い、闇色の翼を広げて天を舞う姿は、鴉のそれに良く似ている。だが、細部を見ればそれが普通の鴉では無いことは明らかだった。
まず、体躯が違う。当然、細かな種類によっても違うし個体差にもよるが、通常の個体なら全長がせいぜい六十センチ。だが、この個体は一メートルに達しようかという巨体である。それに加えて瞳が違った。本来、黒から青といった色彩を放つ筈の眼球が、深紅に染まっている。異形にして異様。自然界の生き物には無い不気味さをその全身から走らせている。
怪鳥。それ以外に表現のしようがない“何か”は、風の抵抗を巨大な翼一杯に受けながら、ゆっくりと眼下の建物へと高度を縮めていた。
時刻は早朝。
白み始めた空からの舞い降りる姿は、さながら禍々しい闇の使者である。
羽ばたくこともせず、無音で高度を下げ続けた“それ”が突如として啼いた。カラスのそれとは違う異質な声が、明確な敵意を持って吼えるように激しく啼く。
威嚇であると、誰が聞いても分かる啼き声。
その威嚇の相手はそれがとるに足らない行為だと言うように「ふん」と、鼻を鳴らした。
郊外に居を構えた聖マリアンヌ大学の広大な敷地内の片隅に構えられた小さな教会。その前に静かに立つ白い長衣に身を包んだ男は、喚き散らし続ける異形の鳥を一瞥すると、ゆっくりと右手でホルスターから銃を引き抜き引き金を引いた。
耳朶を打つ甲高い銃声。
しかし凶弾が怪鳥を貫く直前、深紅の瞳がギラリと光ったかと思うと、まるで目に見えない壁に阻まれるようにして銃弾が空中に静止した。
「流石はあの怪物の眷族、ですか」
異様な光景を目にしながらさして焦る様子もなく呟くペドロ。
それがその怪鳥の防御反応だと瞬時に理解していた。
「あの化け物が自らの血を分け与え生み出した闇の眷族。“今”の私がどれほど通用するか、試させて貰いましょう」
ペドロの唇の端がつり上がった次の瞬間、
パンッ!
再び引き金を絞ると、火薬が炸裂する乾いた音に空気が震えた。そのまま立て続けに発砲。ありったけの残弾が撃鉄に叩かれ空を裂く。
ギシャァァァァァァァァァァァァァァッ!
怪鳥が叫声を上げ、巨大な翼を羽ばたかせて“弾丸”を射出する。
ペドロが後方に小さく跳ぶと、今まで立っていた大地が爆ぜた。周囲を吹き飛ばし地に刺さるのは一枚の羽。
同時複数枚が音速を超える速さで撃ち出されペドロの放った弾丸を叩き落とし、或いは大地を吹き飛ばす。怪鳥は“羽の弾丸”とも言うべきそれを凄まじい勢いで連射。ペドロに攻撃の隙を与えまいとしているの明確だったが、最小限の動きでそれを全て回避していく。
“羽の弾丸”一発一発の速さと破壊力はペドロの持つ拳銃の弾丸の速さを遥かに凌駕している。それを散弾銃のように同時複数射出し、且つ、連射性でも上回る。それに加えて射程距離も長かった。徐々に怪鳥から引き離され、自らの得物の射程の外に押し出されたペドロは、銃使いでありながら自ら銃を投げ捨てた。
“羽の弾丸”の猛射を受けながら、ペドロの内心に走るのは素晴らしい高揚感だった。
──音速を超える弾道の全てが、見える!
それだけではない。肉体から溢れる圧倒的な力を感じずにはいられない。
まるで己が“神”になったかの如き全能感。
それは、子供じみた思い込みや勘違いなどでは決してない。
事実、自分は“神”に近づいたのだ。あの方の、“聖母”の血を分け与えられたのだから。
「あぁ、我が主・聖母よ。私の罪を浄化し、新たな力をお与え下さった事を感謝致します」
そう言って恍惚とした表情で右手を振った。
怪鳥の“羽の弾丸”に合わせるようにして動かされたその一振りで、撃ち出された音速の羽の矢が吹き飛ばされた。
「貴女様の剣として、必ずや仇敵を仕留めます!」
ペドロが、大地を蹴った。
既に充分な距離をとることが出来ていた怪鳥は、追いすがることなど出来まいと言うように背を向ける。だが。
「遅い!」
決して人には届かぬ筈の空域にいた怪鳥の眼前に、その姿はあった。
一瞬で距離を詰め、数十メートルの跳躍を経て零距離に迫る。
ギシャァァァァァァァァァァァァァッ!!
二度目の咆哮。
首を掴まれる寸前でペドロの右手が銃弾すらも防いだ不可視の壁に阻まれた。
目には見えないそれに指先を食い込ませながら、ペドロの左手が動く。
「逃がさない!」
叫ぶように言いながらの貫手。
パンッ!
空気が、火薬のそれとは異なる乾いた破裂音を立てた。
防御の間に合わなかった怪鳥の片翼が吹き飛ぶ。ペドロの貫手が音速を超えたのだ。音速を超えた瞬間に突き抜ける、空気の壁の破砕音。
ギシャァァァァァァァァァァァァァッ!!!
三度目の咆哮は苦悶の入り混じる悲鳴だった。
怪鳥は大量の血を撒き散らしながら、それでも尚、高度を下げずに滞空する。
不可視の壁が消失した。支えを失ったペドロはそのまま投げ出されるように自由落下を始めるが、空中で体勢を立て直し膝のクッションを目一杯使って着地の衝撃を打ち消した。
「ハハハッ! 素晴らしいっ!!」
嘲笑うように吼えるペドロの周囲では、降り注いだ怪鳥の血液が腐葉土を焼き、石を溶かしながら蒸気を上げている。
「もう貴女に遅れはとりません。眷族を通じて見ているのでしょう? 私は主の導きにより新たな力を手に入れました。次にお会いしたときが、貴女の命日となる!」
その場で空を切る横凪の一閃。それに反応する事もできずに怪鳥が爆散した。
降り注ぐ酸の血が、ペドロの狂気を彩っていた。




