存在しない歴史
表情の欠落した少女たちはカレンの両脇に立ち、それぞれに腕を掴んだ。
「──っ?!」
恐怖よりも激痛で表情が歪み、カレンは思わず歯を食いしばる。
「こら、ウーノ、カトル、力を込めすぎだ。お前達の握力では被験体の腕が潰れてしまう」
老人の言葉に反応し、少女たちが手に込めた力を緩めた。ズキンズキンと痛む両腕には目をやらずとも分かる青黒い手形の痣が刻印されている。あまりの痛みに感覚が麻痺し、つい今まで感じていた頭痛が消えていた。
「そのまま抑えていなさい」
そう言うと老人は白衣のポケットから銀色のケースを取り出す。中身は注射器。僅かにブランジャーを押し込むと、短い針の先端から透明の液体がピュッと溢れた。
それを見ていたカレンの精神状態が現実離れした状況から、一気に現実味を帯びた理不尽な恐怖に引き戻された。
「やっ! 止めてっ!」
持てる力の全てで抵抗を試みるが、二人の少女の手を振り解くことは出来ない。
「お止めなさい。時間の無駄だ。それにコレは別段、を害する薬ではない」
そんな言葉が簡単に信じられる筈もないが、逃れる術などない。僅かな痛みと共にカレンの柔らかな皮膚を注射針が突き破った。
「──っ!」
透明な薬液が、血管の中に押し込まれていく。途端に身体が灼けるように熱くなった。
「かはっ」
カレンの喉から押し出された空気が気道を震わせる。
ドクン、ドクン、と鼓動が耳を打つ。
「ふむ。悪くない反応だ。コレほど薄めた活性剤でそれだけの反応が出るなら被験体としても期待出来る」
「な……を……っ」
「何を言っているのか」。そう問おうとするが声が出ない。声帯を振るわせる事が出来ぬ程にカレンの呼吸は浅くなっていた。
筋肉は弛緩し、両腕を掴んでいた少女達の役割は身体を支える事へと変化している。
「どうですか? 内なる“力”が湧き上がる感覚は」
耳に届く声はやたらとはっきり聞こえた。自由の利かぬ身体と相反するように、意識と思考はさえ渡り、感覚は鋭敏になっていく。
学校の授業で習ったような危険薬物を投与された? いや、違う。
授業の一環として視聴しただけのつまらないDVDの内容が、一言一句思い出せる。
広がっていく知覚。
「くっ……は……」
母の笑顔。
父の声。
弟の涙。
生まれてから現在迄の記憶が、細部に至るまで全て思い出せる。
研ぎ澄まされているのは記憶だけではない。感覚という感覚が、鋭敏になっているのが解った。
両脇に居る少女達がどれ位の力で自分の腕を押さえているのか、どれ位の力で抵抗すれば、この腕を振り払えるのか。
異様。己の異様を自覚しながらそれを止めることが出来ない。
如何にして、周囲の三人を殺すかを考えていた。
「良い傾向だな。あの怪物と同じ“目”だ」
白衣の男は満足げな笑みを浮かべ、少女を見つめた。
「さすがは古から続く生物兵器の末裔と言うところか」
嬉々とした声。
「お前なら、あの化け物を越えられるかもしれん」
「化け……物……?」
ころす。コロス。殺ス。殺す。
聞き返しながら、湧き上がる衝動に突き動かされるようにタイミングを図る。
そんなカレンに、男の言葉が刺さった。
「お前も接触したのだろう? あの、不死性に」
不死。その言葉で脳裏に浮かんだ女はただ一人。
記憶の中の化け物は最後に見た血塗られた姿ではなく、優しい微笑を浮かべていた。
その顔を思い出した途端、殺意で沸騰していた思考がスーッと冷めていく。
「なん、なの……? あの人は……」
何故そんな事を訊いたのか、自分でも分からなかった。衝動。或いは、本能。厳密にどちらであるのかは、カレンにとって些末な事柄だった。
そんなカレンの心中を知ってか知らずか、老人は禍々しい笑みを深めてこう言った。
「神話の時代に造られた、殺戮の為の怪物だよ」
荒唐無稽。そう鼻で笑いたくなる筈の言葉が、何故か心の芯に刺さる。
「お前を含む、全ての化け物どもの始祖と言って良い。血に宿り、決して滅ぶことのない怪物。原始吸血鬼。歴史上、未だ誰も到達し得ない、最高の生物兵器さ」




