3、スポーツウェアを脱いで
私は硬式のテニス部に所属している。
周回走や筋トレ、それからラリーとか、いつも通りの練習を適当にして、気が付けば校門を出ていた。それから奈美と駅まで一緒に帰って、それからは電車にひとりで乗ったはず。家の方向が逆だから。
電車を降りて、駅を出て、自転車に乗って、家に着く。特に何もない時間で流れるようだった。あんまり覚えてない。
昼間に部活が終わったから、家に着いたのも日が上がっている中。なのに、家には誰もいなくて、カバンから合鍵を取り出して開け、それからシャワーを浴びて汗を流して、Tシャツにジャージの簡単な部屋着に着替えて、部屋で扇風機を浴びているうちに夜が来ていて、……寝た。
文字通り、気が付けば朝が来ていたって感じ。朝は朝でも一時間目の授業中だった。私はまた奈美や薫と点数を見せ合って笑ったり落ち込んだりして、河野くんの点数を見て驚いたり落ち込んだりして、また五十嵐くんが河野くんに絡んで、河野くんだけじゃなくて私まで変な気分になって。
別に誰がどんな理由でどこの学校に入ってもいいと思うし、そこがその人のレベルより明らかに低くても何の問題もないと思う。もし私が河野くんの立場だったら、頭いいってどんな感じなんだろう、じゃなくて、こんなにしつこく絡まれてたらきっと怒ると思う。耐えられないと思う。色々後悔しちゃうかもしれない。自分は、ここに来たら駄目だったんだって。
河野くんはなんで耐えてるんだろう。言い返せばいいじゃん……あ……そっか、言い返すのが怖いんだ。河野くんは自分を抑えてしまう人なんだ。自分の言いたいことが言えない、言う勇気がない。私だって何でもかんでもは言えないんだけど……。
その日の四時間目、現代社会の時間、私が一番得意な教科。今回のテストでも他の教科と比べれば圧倒的に自信がある。と言っても、学年トップクラスとかそんなんじゃなくて平均脱出! ってくらいの。
私と奈美はまたほぼ同時に解答用紙を受け取った。でも、今回は奈美の希望でお互い点数を見ずに、奈美から開けていこうということになった。
奈美は自分だけに見えるように自分の点数を見た。そして、「負けたわ~」と溜息をついて私に点数を見せた。
74点。
いやいやいや……。「何が負けたわ~なの」
「いやいや、現代社会の申し子の井坂理子ちゃんはこれくらい簡単に越えちゃうでしょ」奈美は鼻の先で笑うように言った。
「現代社会の申し子って何」
「まさか……あんだけ言っておいて私に負けたなんてことは……フッ」
そういえばテスト四日目の現代社会の授業が終わったとき、私は今までのテストより断トツの自信を持っていて、天狗状態だった。いくつか分からない問題はあったけど、最低でも65あるなって感じで。そのとき奈美に「これは勝った。自信ある」なんて天狗発言を言ったような……。
「ハハハッ……」泣きそうになったまま私は机に裏返しておいた解答用紙をゆっくりとめくる。
そして、点数が、見えた。「……やっ、やったー!」
75点。
「たった一点じゃん。そんなキラキラした目して」
「勝ちは勝ちだよ。ああ~気分いい!」
くやしい~と奈美がハンカチを噛んでいるのを見て、本当に気分が良かった。
天国にいる気分だった。でもたかだか75点でこんな天狗になってていいのかな? まあ、なんでもいいや。「イェーイ」
「おお」
その低い声で気分が一気に落ちた。
「すげえな、ホントに頭いいなあ、河野。なんでこの学校に来る必要があったのかさっぱり分からない」
何かが喉までこみ上げてきた。
河野くんの点数を見てみると94点。
そのことも頭に入らないほど、この熱くてすっぱい何かがこみ上げている。
そしてそれは更に勢力を増して、私の我慢も限界に達してくる。
「なんでも、いいじゃんか……」
「いい加減教えてくれよ、なあ」
それは、喉を越えた。
「なんでもいいじゃない!」
空気がしんとした。でも、私は自分の気持ちに耐えられなかった。「河野くんは言いたくないって言ってるんだからそっとすればいいじゃない! そんなイジメみたいなことして何が楽しいの!」
「こらこら、何してるんだ」とそこで先生が間に入ってきた。
そのとき、我に戻った。静かな教室。五十嵐くんと河野くんと奈美は鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目を丸くしている。他の人たちもみんな、こっちを見ている。
「え、あっ、いや……」急に頭が混乱し、全身の汗腺という汗腺が一気に開く。「……なんでも、ありません」
先生が「は?」っていう顔をして、それからゆっくりと五十嵐くんの方を向いた。
「え……ごめん」
更に先生は混乱していた。
「何もないのなら、授業始めていいか?」
「……はい、どうぞ」
先生が教卓に戻り五十嵐くんが席に戻ったときに、少し困惑気味な河野くんの声が耳元で聞こえた。「ありがとう……」
「……どういたしまして」
そして自分の自信満々な点数が河野くんには軽く及ばなかったことにちょっと赤くなる。
それから三日、ほとんど何も覚えてない。
唯一しっかりと鮮明に覚えているのは、この間のテスト返却で五十嵐くんは河野くんに絡むことなく、そしてちょっとだけ河野くんが自分の点数を見て嬉しそうにしていたこと。薫が五十嵐くんに見とれてへなへなしていたこと。薫が当たり前のようにクラス最低点を連発して笑いを取ったこと。それから西園寺道長が何かのテレビに出ていたこと。
その金曜日、私は体調が優れなかった、というか悪かった。何となく熱っぽい、ていうか、おなかが痛い、ていうか。週末なのに。
なんでだろう?
そのことを奈美に言うと「昨日かき氷食べたからじゃない」と指摘された。「それなら、ごめんね」
「かき氷……あっ」思い出した。昨日私は部活が終わって奈美と帰っていた。すると駅にかき氷の屋台があって、そこで小学生の女の子がかき氷をおいしそうに食べていた。「食べる?」と奈美に誘われ、断ることなく、むしろ喜んでみんなで食べた。
「ああ、かも」
「でも、奈美はそんなことないでしょ?」
「うん。元気だよ」
「理子、もしかしておなか弱い?」
「そんなことないと思うけど……」
そのとき、家に帰ってからアイスクリームをひとつ食べたことを思い出した。
昨日の夜、お風呂からあがって蒸せそうになっていると、お母さんが「いる?」と冷凍庫からアイスを取り出し、私はそれにかぶりついた。この日二個目だってことも忘れて。
バカだな、私。
でも、恥ずかしかったからそっと胸の中に置いておくことにした。
授業が終わり、私は部活をしていた。熱っぽくおなかが痛いままちょっと無理をして、いつも通りの苦しい練習メニューをこなしていた。いつも通りみんなと明るく接し、色々な汗をかいていた。
でも一時間くらいしたところで限界が来ちゃった。
めまいがして、倒れそうになった。その場にうずくまった私に、友達たちが「大丈夫?」と顔を青くして駆け寄ってきてくれたのは覚えているけど、あんまえい詳しい事は頭がぼーっとしていて覚えていない。
無理はいけないから帰ってよくしなさい、と顧問の先生に言われたのでのことで、私は部室に戻って着替えることにした。
ひとりで部室に入るとちょっと不思議な感じがした。いつもは誰かがいて、賑わっていて、そんな場所なのに今日は静かだ。散らかっているのに、山奥の別荘のような静けさがある。でも……ちょっと臭い。
運動の汗と冷や汗がこびりついたスポーツウェアを脱いで、シーブリーズで体をふき、制服に着替えた。
それから部室を出て、テニスコートまでいってさよならを言ったら、みんながバイバイと手を振ってくれた。
きっと私の顔は青いと思うけど、ちょっとは微笑んでいるはずだ。
改めて空を見ると、雨雲かな、黒い雲が空を覆っていた。いや、何箇所か穴が開いていて青い空が見える。なんて中途半端な天気なんだろう。
校門を出て、ほんのちょっとしたところに信号がある。そんなに長い信号じゃないんだけど、いつも赤信号に当たってしまう。今日もだろうなあ、とマイナスな推測をしていると、やっぱりちょっと近づいたところで赤になった。
私と同じようにその信号に引っ掛かってしまった人がいたのが左目の端に映った。
私以外にもいるんだなあ。こういう人。
ここの制服を着ている、男子。こんな部活真っ最中の中途半端な時間に。
ちらっと首を向けてみると、その男子もちらっと私の方に目を向けた。……「あっ」
「あっ」
五十嵐くんだった。