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世界史A  作者: MICKEY
9/11

第9話「伊・独・統・一」

1848年、諸民族の春と呼ばれた時代。


「フランス二月革命」、「ベルリン三月革命」、「ウィーン三月革命」、更にプラハの「チェック人」、ブダペストの「ハンガリー人」、ワルシャワの「ポーランド人」。

「ローマ」、「サルディニア王国」でも革命運動が起きていた。


しかし、そのほとんどは革命に失敗。

その後のヨーロッパの課題とは、「民族的な統一国家を建設」することであった。



19世紀前半―政治的自由・経済的自由を求める「自由主義」・「国民主義運動」。

カルボナリの乱は失敗し、政治結社「青年イタリア」が「マッツィーニ」によって創設され、活動を開始する。

「共和主義」によるイタリア統一国家建設を目指した「青年イタリア」は、諸民族の春の翌年1849年に「ローマ共和国」を樹立。しかし、それを統一を脅威に感じたフランスの干渉によりあえなく挫折した。


さらには分裂状態のイタリア内にある「サルディニア王国」は「オーストリア」宣戦するも敗北。

圧倒的な戦力差を感じたサルディニアは、近代化の必要性を痛感する。



-サルディニア王国-


「我は国王、“ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世”である!記憶したか?」


長い。


1852年、首相に任命された「カヴール」は、「立憲君主政」に基づく国家統一を主張。

近代化の促進で「世界資本主義」の中での成長を望む資本家層・市民層の両方からの支持を獲得。

更に巧な外交手腕で、フランスの「ナポレオン3世」との密約に成功。

これを「プロンビエールの密約」と呼ぶ。これにより、フランスは対オーストリアのサルディニアに協力。代わりにフランスは「サヴォイア」と「ニース」を割譲してもらう、といった密約だった。


「これで勝ちっ・・・!」


「1859年」、「イタリア統一戦争」。

遂にサルディニアはオーストリアと再戦。しかし・・・。


「サルディニアなど・・・切れば良いっ・・・!」


なんとフランスはオーストリアと単独講和し、戦線を離脱。

なんとかサルディニアは勝利したものの、「ロンバルディア」しか得ることは出来なかった。


「馬鹿かっ・・・!こんな当たり前のことに、土壇場でしか気付けないなんてっ・・・!自分を救うのは・・・自分だけっ・・・!」


外国の協力は期待できないと痛感したサルディニアは、密約を守り「サヴォイア」「ニース」をフランスへ割譲。

代わりに「中部イタリア」の併合を認めてもらい、この件はひとまず落ち着いた。


そしてここから、サルディニアのイタリア統一が本格的に動き出す。



「NEVER、散開!」


と、何処ぞの傭兵軍団だお前は!というツッコミはさておき、1860年、青年イタリアの党員で「共和主義者」の「ガリバルディ」は「赤シャツ隊(千人隊)」を結成。

「シチリア島」へ上陸する。この頃、シチリア島のある「ナポリ王国」では「ブルボン家」の残虐な圧政に対し、住民の反乱が起こっていた。


ガリバルディはこの反乱軍と合流し、見事ナポリ王国を占領。勢いづいたガリバルディはその後、「ローマ教皇領」の併合を目指し北上。しかし・・・。


ガブール「国王!ローマはフランス軍が防衛しております。下手に手を出せば、戦争が・・・!」


国王「私自ら出て、ガリバルディを説得しよう。」



-ナポリ北方にて-


ヴィットーリオ(ry「ローマを攻撃してはダメじゃ。国民が犠牲になってはならぬ。」


ガリバルディ「全てはイタリア国王・・・貴方の仰せのままに。」


そして、ガリバルディは国王に占領した「ナポリ」など南イタリアを「献上」。

これにより、サルディニア王国はイタリアのほぼ全土を併合した。


「1861年」、「イタリア王国」の成立宣言。

初代イタリア国王はもちろん「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世」である。長い。

初代宰相も予想通りの「ガヴール」(まもなく急逝)。

最初の首都は「トリノ」で、後に「フィレンツェ」、その後「ローマ」である。


更に1866年、普墺戦争の隙を突き、オーストリアから「ヴェネツィア」を奪回。イイネ!

また4年後の1870年、今度は普仏戦争の隙を突き、フランス防衛軍のいない間に「ローマ教皇領」を併合。(ヴァチカン除く)


こうしてイタリアは統一を成し遂げたのだ。しかし、残された問題もあった。


「未回収のイタリア」。つまりイタリア人が住んでいるのに、オーストリアに支配されたままの地域、「南チロル」「トリエステ」などだ。多分、チロルチョコとは関係ない。いやあるのか?知らん。

これが「第一次世界大戦」のきっかけになったりする。


また、「南北の格差」。北イタリアでは資本主義的な経済発展が進むも、南イタリアでは「貴族大地主」の支配が続き、土地を持たない貧しい農民層が残存してしまったのである。


※イタリア統一の三英傑

・マッツィーニ(すまん正直忘れてた)

・カヴール(空気クラスタ)

・ガリバルディ(←だけで良くね?)




-ドイツ帝国の成立-


「プロイセン王国」の発展―


1834年、「ドイツ関税同盟」が結成。これによりドイツは経済力で優位に立つ。

その後、1848年の「ベルリン三月革命」の影響で「フランクフルト国民議会」が開かれ、ドイツ統一問題が話し合われるようになった。

その中で、「プロイセン中心」のドイツ統一を考える「小ドイツ主義」と、「オーストリア中心」のドイツ統一を考える「大ドイツ主義」が対立。

オーストリアを嫌っていたことから、小ドイツ主義が勝利するが、プロイセン君主と自由主義者の対立から、統一は実現しなかった。


そして、時代に選ばれしハゲ野郎が現れる―!


「1862年」、「ビスマルク」が「プロイセン宰相」に就任。1862~1871年まではプロイセン宰相、1871年~90年までは「ドイツ帝国宰相」である←軽いネタバレw

この1862年は、日本では生麦事件や文久の改革があったらしい(遠目


ビスマルクは「地主貴族(ユンカー)」の出身で、保守派の君主主義者だ。

「外交のプロ」「プロイセンのハゲ」「ヴォルデモート似」と言われていた。嘘だ。

軍事力によるドイツ統一を目指した彼は、「鉄血演説」により「軍備拡張」を実行。「鉄血宰相」との異名を持つハゲになった。

こうして、ビスマルクはドイツ統一へのルートを見極め始める―。


1864年「デンマーク戦争」。オーストリアと組んだプロイセンは、デンマークを破り「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」を獲得。


更に1866年「プロイセン・オーストリア戦争(普墺戦争)」。7週間戦争とも呼ばれる。

この戦争で、ビスマルクはオーストリアを必ず倒せるという絶対的自信があった。

それは2年前の「デンマーク戦争」も根拠の一つ。この時、何故ビスマルクはデンマークなどという弱い国と争ったのか?わざわざオーストリアと手を組んでまで。

その真の目的、それはオーストリアの戦力を見極める事だった。

その結論は・・・。


「私にもツキがあったな・・・オーストリアは大したことはないっ・・・!」


だがもう一つの危険性、オーストリアと他国が手を組むこと。その可能性を払拭しなくては、安易に戦線出来ない。

まず「イタリア」。大丈夫だ、問題ない。イタリアは領土問題でオーストリアを疎ましく思っている。助けるはずがない。

次に「ロシア」。あんな大国と手を組まれたら・・・!だが、そこが貴様のツキのなさ。「クリミア戦争」のお陰で、ロシアもオーストリアを疎ましく思っている。クリアだ。

最後に「フランス」。こいつだけは可能性を拭いされない。仕方ない・・・領土をやる。だから中立の立場でいろ。


こうした計算の果てに始まった普墺戦争で、僅か50日でオーストリアは降伏。

鉄道網を利用した電撃戦が効いた。


「エ・レ・キ・ON」


こうして負けたオーストリアはドイツ連邦から排除され、北ドイツ連邦へと変わって行く。


更に1870年~71年、「プロイセン・フランス戦争(普仏戦争)」でビスマルクは「ナポレオン3世」を撃破し、「パリ・ヴェルサイユ」を占領。

この1871年、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」にて、「ドイツ帝国」が成立した。


これによりドイツはフランスから「アルザス・ロレーヌ」地方を奪う。




-ドイツ帝国成立-


1871年4月「ドイツ帝国憲法」制定。

「外見的立憲主義」が特色とされ、25連邦(うち22は君主国、3は自由市)から成る連邦制の立憲君主国だ。

初代ドイツ皇帝は、流れでプロイセン国王が兼任。

Eカードでいう「皇帝」には、「ヴィルヘルム1世」が。

初代ドイツ帝国宰相はもちろんビスマルク。

ドイツ帝国は「連邦参議院」と「帝国議会」の「二院制」から成っていたが、「帝国議会」はほぼ無力。立法権すら持たなかった。

「帝国議会」は「男性普通選挙」で選ばれた議員から構成されたが、「内閣制」がなく、結局実権は皇帝・宰相に集中していた。

これが「外見的立憲主義」であったのだ。


ドイツは1870年代、重化学工業で「世界一」に躍進。

これにはフランスから奪った資源地帯「アルザス・ロレーヌ」や、賠償金獲得が関係していた。

ビスマルクの強力な支持基盤となる「産業資本家」層。

反対に最大の抵抗勢力となる「社会主義者」。

これがビスマルクの「文化闘争」に大きく関わって来る。


南ドイツ連邦の「カトリック」教徒やポーランド系住民などが、「プロイセン(プロテスタント)」主導の政策に反抗した為、ビスマルクは学校の国家管理などで「国民意識」を形成させ、カトリック勢力を抑圧した。


ところが、議会に「社会主義」勢力が進出すると・・・。


「労働者の扱いが酷過ぎるだろ常考。」


「公平な分配」を求める社会主義者達を疎ましく思ったビスマルクはカトリックに妥協。

社会主義の抑圧に協力を求めた。


ビスマルクの「アメとムチ」の政策。


ムチ:1878年の皇帝狙撃事件を口実に、「社会主義者鎮圧法」制定。社会主義的な集会などを禁止した。


アメ:「社会保険制度」の実施。これは「世界初」の「公的社会保険制度」で、労働者の待遇は改善された。





その頃・・・。


1866年の普墺戦争で敗北し、ドイツ統一から除かれた「オーストリア」は、「オーストリア・ハンガリー帝国」を成立させる。

この広大な領域支配と、複合民族国家を維持する為、ハンガリー人にのみ自治権を、チェコ人・ポーランド人には選挙権を与えた。


だが、「ポーランド人」は国をロシア・プロイセン・オーストリアの三国によって分割占領され、国を失ってしまった。

第一次世界大戦後に復活するその日まで。

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