第4話「ウィーン体制の始まり」
1814年9月、ナポレオンがエルバ等へ流刑にされてから5か月後。
「ウィーン会議」が開催された。この会議の目的は、ナポレオン戦争の事後処理と、混乱したヨーロッパの秩序回復だった。
トルコを除く全ヨーロッパ諸国が参加し、その主宰者はオーストリア外相(のちに首相)、「メッテルニヒ」。
更にはフランス外相「タレーラン」、ロシア皇帝「アレクサンドル1世」、プロイセン首相「ハルデンベルク」なども参加していた。
「会議は踊る、されど進まず」
諸国の利害関係の対立により、会議は進まなかった。
だがこの会議をリードしていたのは、なんと敗戦国であるフランスの「タレーラン」だった。
タレーラン「敗戦国には発言権さえ認められない、それが常識だろう。しかし!敗戦したのは我らブルボン王朝ではない、ナポレオン1世だ!フランスが敗れたのではない・・・ナポレオン・ボナパルトが敗れたのだ。」
巧みな外交手腕で、タレーランは会議の進行を手玉に取る。
そんな時だった。1815年3月、「ナポレオンがエルバ島を脱出」。
これにより諸国は調印を急ぐ。
タレーラン「“正統主義”の原則の下に、大国の“勢力均衡”を図る!」
「正統主義」とは、「アンシャン・レシーム」、つまり王権の復活。
そして「ワーテルローの戦い」が行われた6月、「ウィーン議定書」が調印された。
・フランス、スペイン、ナポリには「ブルボン家」が復活。
・ロシアは「ワルシャワ大公国」を解体した「ポーランド王国」を支配下に置く。
・オーストリアは「ヴェネツィア」を獲得。
・オランダは王国となり、オーストリアから「ベルギー」を割譲される。
・イギリスは旧オランダ領の「セイロン島」「ケープ植民地」を獲得。
・プロイセンはポーランドを放棄する代わりに、「ラインラント」を獲得。
・「スイス」は永世中立国となる。
・「ドイツ連邦」の成立→ライン同盟を解体。
この「ドイツ連邦」は「オーストリア」「プロイセン」の二大国を含む、35君主国と4自由市から成る。
1815年から1848年まで続いたこの体制を、「ウィーン体制」と呼ぶ。
その特色としては、大国の君主中心の「保守反動的」な支配体制。
大国(列強)は正統主義による秩序維持や、大国間の勢力均衡をはかる国際政治を展開した。
1815年「神聖同盟」
ロシア皇帝「アレクサンドル1世」が提唱した同盟。キリスト教の友愛の精神に基づき、平和を維持しようと言うものだ。
「イギリス」「トルコ」「ローマ教皇」を除く、全ヨーロッパ諸国が参加。
カッスルレー「友愛の精神?フン、武力で革命を起こして来た時代の延長戦にいる私たちだ・・・。言葉や理念だけで平和を維持しようなど!ナンセンスだな!」
これに対し、イギリス外相「カッスルレー」は「四国同盟」を提唱。
イギリス、プロイセン、ロシア、オーストリアが参加した。
1818年にはイギリスが加盟し、「五国同盟」となる。
武力によって体制の秩序を守ると言う、「軍事同盟」だ。
ロシア支配下の「ポーランド」、オーストリア帝国支配下の「チェコ」「ハンガリー」、分断された状態の「イタリア」、そして「ドイツ連邦」では政治や経済の統一が実現しないまま。
この様な中で、自由主義やナショナリズムを要求する動きが始まったのである。
-新たな革命の波-
1815年「ブルシェンシャフトの運動」
ドイツ学生同盟という大学生の団体が起こした運動である。
1817年「ルターの宗教改革300周年記念」に大規模なデモ行進と、「ヴァルトブルクの森」で集会。
目的は「ドイツの自由と統一、憲法制定を求める」為だった。
1819年「カールスバートの決議」
メッテルニヒが決議したこれにより、様々な弾圧が行われた。
またこの年、イタリアでは「カルボナリ」が動いた。「カルボナリ」は「炭焼き党」の意味である。
立憲自由主義運動の秘密結社。
1820年「ナポリ」にて憲法制定を求めて蜂起。これはオーストリア軍が干渉し、徹底弾圧された。
また「スペイン立憲革命」も起こり、一時的に「自由主義憲法復活」に成功した。
しかし、1823年には「神聖同盟」による干渉で、フランス軍がマドリードを占領。徹底弾圧された。
1825年「デカブリストの乱」
ロシア青年貴族士官の組織が蜂起した。この日は、「皇帝ニコライ1世」の即位当日であったと言う。
また、1820年代にラテンアメリカで諸国が相次いで独立し、オスマン帝国支配下のバルカン半島で起こった「ギリシア独立戦争」は、ヨーロッパで多くの関心を集めたという。