第2話「ナポレオン時代」
革命戦争の始まりは1792年だった。
立法議会のジロンド派の政権下で、フランスはオーストリアに宣戦した。
フランス政府は「自由の十字軍」の名の元にフランス国民を動員。
更にコルシカ島で生まれた「ナポレオン・ボナパルト」を司令官とする軍が、1796年「イタリア遠征」で「オーストリア」を撃破。第1回対仏大同盟を崩壊させたのだ。
1898~1899年、次にナポレオンは「エジプト遠征」を決行。
イギリスとインドとの貿易路を遮断し、イギリスに「経済的打撃」を与える為だ。
だがこの時、パリは第2回対仏大同盟によって危機にさらされていた。
ナポレオン「兵士らよ、このピラミッドの上から中国4000年の歴史が・・・。」
兵士「はーい、お知らせでーす。ってか中国じゃねえよwww」
ナポレオン「どうした、兵士よ。」
兵士「パリがピンチです。」
ナポレオン「なぬっ!?よし、兵士らよ、パリへ戻るぞ!」
急いで帰国したナポレオンは「ブリューメル(霧月)18日のクーデタ」を決行し、総裁政府を打倒。
1799年に「統領政府」を樹立した。「統領政府」には3人の統領が設置され、彼は自ら第一統領に就任した。
1800年、ナポレオンは「フランス銀行」を設立し、財政整備などを行った。
更に1802年、再びオーストリア軍を撃破し、第2回対仏大同盟を崩壊させた。
この時、ナポレオンは「アミアンの条約」を締結し、イギリスとの和約に成功。
革命戦争中の一時的な平和を手に入れた。
1804年3月「ナポレオン法典」制定。
全文2281カ条。「法の下の平等」「所有権の絶対」「契約の自由」などをあらわした。
封建制廃止、自由・平等を保障し、近代民法典の基礎として、以後の世界に大きな影響を与える。
更に「ナポレオン法典」制定から2か月後の1804年5月。
国民投票の圧倒的な支持を得て、皇帝に即位。「ナポレオン1世」となる。
これにより、これまでの「第一共和政」は終わり、「第一帝政」となった。
周辺諸国は皇帝・ナポレオンに警戒心を強め、第3回対仏大同盟を結成。革命戦争の引き金となってしまう。
新しい「自由・平等」の思想を持って戦うフランス国民や、それを率いるナポレオンの姿は、古い身分制秩序の下にある諸国の人民にとって、「封建的圧政からの解放者」に見えたという。
ヨーロッパ各地でナポレオン軍に呼応した動きが起こり出す。
オランダ・スイスに「共和派」が新しい国家制度を導入→共和国へ
オーストリア支配下の「イタリア」各地にも、人民が独立して共和国を形成した。
この頃のオーストリアは「ハプスブルク家」の下に強大な封建国家であった。
この頃、既に産業革命の進んだイギリスは、「海上覇権」を確立していた。
ナポレオンはイギリスの覇権を崩し、フランスの植民地帝国再建、フランス経済・貿易の振興を目指した。それが大規模な経済戦争へと進展するのである。
1805年10月、「トラファルガー海戦」
エジプト遠征でイギリスの貿易路を遮断しようとしたが成果がなかった為、今回はイギリス本土への上陸作戦を試みたのだ。
だがイギリス軍には「ネルソン」という最強の海軍将、戦いのプロがいた。
ネルソン率いる最強のイギリス海軍にフランス海軍は完敗。ナポレオンの本土上陸は失敗に終わり、イギリスは「海上封鎖」で優位に立つ。
1805年12月、「アウステルリッツの戦い(三帝会戦)」
フランス軍はロシア・オーストリア連合軍を撃破、更にプロイセン軍をも破り、首都「ベルリン」を占領。これで大陸諸国をほぼ制圧したのだ。
1806年11月、「大陸封鎖令|(ベルリン勅令)」を発布。
大陸諸国とイギリスの貿易が禁じ、イギリスに「経済的打撃」を与え、「フランスの市場拡大」を謀るものだった。
しかし、植民地を多く持つイギリスへの打撃は乏しく、逆に「大陸諸国を苦しめる」こととなる。
※立場の順
皇帝→国王→公爵→侯爵→伯爵→子爵→男爵
ナポレオンの大陸制覇の結果、オーストリア中心の962年(オットー1世が国王)以来の強大な封建的国家体制だった「神聖ローマ帝国」が解体。
更に「ライン同盟」もこの年に成立した。
1807年、「ワルシャワ大公国」成立。旧ロシア領からポーランド人が独立し作り上げた。
旧ブルボン王朝支配下の「スペイン」、旧王政下の「オランダ」などではナポレオンの兄弟が王位に就いた。
大陸封鎖令の影響で、イギリスへの「穀物輸出」が重要な財政収入源だったロシア・プロイセンなどの農業国は、かえって「経済混乱」を起こしてしまう。
更にフランス軍の駐留により、「増税」や「兵員」の調達を負担する事となり、人民の抵抗を招くことに。
これまで封建支配下にあった人民は、「ナショナリズム」の意識に覚醒し、「民族統一」や国民国家形成を求めるようになった。
そしてそれが、ナポレオンの支配に対する抵抗に繋がるのである。
-ナポレオン最初の挫折-
「スペイン」の抵抗。1808年、ナポレオンの兄が王位に就いたスペインで、マドリード市民が抵抗を開始した。ゲリラ戦を仕掛けた市民に対し、フランス軍は25万の兵を派遣したが鎮圧に失敗。
だが犠牲者の数も半端ではなく、「5月3日の処刑」として、「ロマン主義」の画家「ゴヤ」の作品としてその光景が残っている。
「プロイセンの改革」
首相シュタイン・ハルデンベルクによって行われた。
「農奴解放」や軍事改革など「上からの改革」による近代化政策である。
更に哲学者「フィヒテ」の連続公演により、国民のナショナリズムが刺激された。
-ナポレオン転落の始まり-
1812年「モスクワ遠征」
大陸封鎖令に違反したロシアへの「制裁」の為、大軍を以て遠征をするナポレオン。
しかし、ロシアの厳しい寒さ「冬将軍」にやられ、パリに帰着した時には約5000の兵士しか残っていなかったという。
結果、ナポレオン軍の大敗。
更にこの「モスクワ遠征」失敗を機に、諸国民が一斉に反撃。
1813年10月「第4回対仏大同盟」結成。
プロイセン・ロシア・オーストリアなどが連合してフランスへと攻め入る。
「ライプチヒの戦い」でナポレオン軍は敗北、パリを占領されてしまう。
1814年4月、「ナポレオン退位」
戦いに敗れたナポレオンは皇帝を退位し、「エルバ島」へと流刑になった。
しかし翌年、1815年3月、パリに帰還し再び皇帝に即位。
ナポレオンの動きを感知したイギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアは再び連合し、ナポレオン軍と対決する。
1815年6月「ワーテルローの戦い」
この戦いでナポレオンは再び惨敗。フランス軍の戦死者は膨大だった。
その後、ナポレオンは南大西洋の孤島「セントヘレナ島」へと流刑にされ、そこで一生を終えたと言う。
エルバ島脱出から、ワーテルローの戦いで再び鎮圧されるまでの約3カ月の期間の事を、「ナポレオンの百日天下」と言う。