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世界史A  作者: MICKEY
10/11

第10話「ロシアの南下政策」

伊・独の統一が進む中、大国ロシアは・・・。


「オスマン帝国(オスマン・トルコ)」が1299年に「スレイマン1世」によって建国。

超大国ゆえに、複雑な民族構成のこのオスマン帝国は19世紀以降弱体化。

あのバルタン星人の名前の由来となったヨーロッパの火薬庫「バルカン半島」において諸民族の独立運動が活発になったのだ。

特に「スラヴ系」「キリスト教徒」「ギリシア正教徒」の運動が激しかったと言う。


オスマン帝国の弱体化に乗じた諸民族の「独立運動」と、その動きを利用した「ヨーロッパ諸国の干渉」によって生じた国際問題を「東方問題」という。

東方Projectが真っ先に思い浮かんだ貴方、もう手遅れです。


-各国の干渉の理由-


ロシア→地中海への出口獲得を目指し、「南下政策」を推進


イギリス→インドへの航路の安全確保のため、地中海東岸への進出


オーストリア→バルカン半島の独立運動の影響を自国の領土が受けることの防止



そして「1853~56年」、「クリミア戦争」、開幕。


オスマン帝国(トルコ)内にある聖地イェルサレム管理権問題が直接の原因である。

ロシアはギリシア正教徒が迫害を受けていると主張し、管理権を要求。

これにより、「ロシア」はトルコに宣戦する。


ロシアの南下を恐れたイギリス(ヴィクトリア女王)とフランス(ナポレオン3世)はトルコを支援。

英仏の歓心を得る為、「サルディニア」もトルコを支援した。



「何としてもロシアを止める・・・!総員、総攻撃!難攻不落のこの砦、打ち破る!」


最大の激戦地「セヴァストーポリ要塞」の攻防戦。


トルコ、イギリス、フランス、サルディニアの、「セヴァストーポリ要塞」攻略!


ロシア「クギの森の道幅を毎日広げて、大群を通れるようにしてしまったのは・・・俺!?」


「ブロックが・・・砦の番人、ブロックがガバガバ・・・!」


「や、奴は傾けて来たッ・・・この要塞全体を!」


そして・・・。


「どうした?随分と苦しそうじゃねえか・・・!この悪魔!ド悪魔めっ!そんなに出したきゃ・・・吐き出せーーー!お前が・・・食ってきた・・・兵士たちの・・・魂・・・、希望、絶望、命・・・その全てを・・・吐き出せーーーーーーっっっ!」



セヴァストーポリ要塞、落ちる。ロシア軍、1050年地下行き。



大敗したロシアは1856年「パリ条約」で「黒海の中立化」を約束し、「ボスフォラス海峡」と「ダーダネルス海峡」の外国軍艦の航行禁止が決定された。

こうして、ロシアの南下政策は阻止されたのだ。しかし、これほどの国々に阻止されるとは、やはりロシアは脅威なのだろう。Twitterで嫁が奪われることを恐れ阻止しまくっている君達みたい。

ちなみに僕の阻止の速さは新幹線並みですよ。



クリミア戦争に負けたロシアは、後進性を痛感。

「アレクサンドル2世」による改革が始まる。ちなみにロシア皇帝の覚え方は「アレ・ニコ・アレ・アレ・ニコ」である。


「1861年」、「農奴解放令」。しかし、土地を得るには金がかかり、借りた土地の支払いの為に農民の多くは「窮乏化」。

「ミール(農村共同体)」という、江戸時代の五人組のような「連帯責任」制もあり、結果農民は土地を離れて「工場労働者」になる者が多かった。


1870年代には「ナロードニキ運動」が展開。都市の知識人階級「インテリゲンツィア」を中心に、農民を「啓蒙」させる活動が始まった。

合言葉は「オカカカケヨウネー」じゃねえよ、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」だよ。おかかかけてどうすんだよ。

しかし、農民には平等などの精神が理解できず、「無関心」。更に国に厳しい弾圧を受け、運動は挫折した。


「何故だ・・・何故これがわからん・・・!結局頭では何も変わらない・・・力こそが全てと言うことか・・!」


絶望した彼らは「テロリズム」へと走る。これにより1881年にアレクサンドル2世は暗殺された。





この頃、バルカン半島では・・・。


1860年ごろから「パン・スラヴ主義」(スラヴ系民族の独立と国家建設を目指す動き)が始まる。

ロシアは全スラヴ人の指導者を自称し、オスマン帝国と激突。

1877~78年「ロシア・トルコ戦争(露土戦争)」が開幕。この発端はオスマン帝国領内の「ボスニア」「ヘルツェゴヴィナ」で独立運動を起こしたスラヴ系ギリシア正教徒が虐殺されたことだった。


ロシアは「イスタンブル」まで進撃し大勝。

1878年に「サン・ステファノ」条約が結ばれ、遂にロシアはエーゲ海域までの進出を実現!と思いきや・・・。


イギリス「ちょ、お前は南下しちゃアカンアカンアカンアカンアカン。」


オーストリア「待て、話せば分かる、多分。」


イギリスとオーストリアはやはり激しくロシアは抗議。そうは見えないのはご愛嬌。

戦争が起こりかねない状況になってしまう。

ここで国際戦争が起こると困るドイツは、宰相のビスマルクは自らを「誠実な仲買人」と称し、「1878年」の「ベルリン会議」で双方を仲介した。

これは、ドイツがロシア・オーストリアと「三帝同盟」を結成しており、丁度仲介する立場にあったからだ。

この時のイギリス首相は「ディズレーリ」。

そして「ベルリン条約」が締結される。その内容は、ロシアをかなり抑制するものだった。


1.「サン・ステファノ条約破棄」。


2.バルカン半島の「ルーマニア(ラテン系)」「セルビア」「モンテネグロ」の独立の承認。


3.「ブルガリア」はオスマン帝国領内に留まること。


4.ロシアと同じスラヴ系の「ボスニア」「ヘルツェゴヴィナ」は、オスマン帝国領内に留まるが、「オーストリア」が管理する。


5.オスマン帝国の「キプロス島」をイギリスが獲得する。


6.ロシアは「ベッサラビア」を得たのみ。


こうして、ロシアの南下政策はまたも阻止されたのだった。



戦争を辛くも回避したヨーロッパは、「ビスマルク外交」による「勢力均衡策」が進められた。

バルカン半島では、パン・スラヴ主義の動きがますます勢いづき、後に第一次世界大戦の始まりとなる「サラエボ事件」が「1914年」に起きるのだった。

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