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世界史A  作者: MICKEY
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第1話「フランス革命」

アンシャン・レジーム・・・フランス革命以前の極端に不平等な政治・社会体制のこと


国王はブルボン王朝と呼ばれ、1589年から絶対王政は始まっていた。

身分のピラミッド上では、ブルボン王朝はピラミッドの更に上、ピラミッドの頂点には第1身分である「聖職者」。総人口の約0.4%だ。

更に続く第2身分は「貴族」。総人口の約1.6%。

そして最下層である第3身分は総人口の約98%を占めていた。そのうち、18%は市民、80%が農民とされ、市民は3種類に分かれていた。

第1・第2身分は「特権階級」とされ、「封建的特権」を持っていた。

身分によって世襲|(身分が引き継がれること)している特権のことだ。

免税や領主裁判権など。


3種類の市民。まず富裕市民である上層ブルジョワジー・大商人。更に中流市民である商工業者や小商店主など。そして下層市民であるサン・キュロット。サン・キュロットとは、「半ズボンを持たない」という意味である。

また、農民の大部分は農奴と呼ばれる不自由な貧農だった。

一部の富裕な市民は、経済力を向上させて重い税を負担していたにも関わらず、「参政権」を認められないことに不満を抱いていた。

その理由としては、この頃に流行していた「啓蒙思想」が当てはまる。

「啓蒙思想」とは、自由・平等などの基本的人権や人民主権、権力分立などの考え方を説き、目覚めさせようとする思想である。


1780年代、フランスは財政難に陥っていた。

七年戦争の莫大な出費、アメリカ独立戦争への参戦。更には国王ルイ16世による豪奢な宮廷生活。

この危機にルイ16世は銀行家ネッケルを財務長官に起用。

ネッケルは財政難を乗り切るため、特権身分への課税を提案した。つまり特権身分の持つ免税の特権を廃止すると言うことだ。

しかしそれでは特権身分が黙っていない。特に「貴族」は自らの特権を維持する為、国王に反抗。彼らは170余年も開かれたことのない身分制議会「三部会」召集を要求した。


この三部会の召集前に、第1身分出身のシェイエスがパンフレット「第3身分とは何か」を著し、それが第3身分の人々の権利主張の根拠となった。


1789年5月。ヴェルサイユ宮殿で三部会が開かれた。

第1身分、第2身分は自分たちの特権を維持する為、第3身分への課税を主張。

対する第3身分は発言権が弱い為、拡大を要求。

その結果、第3身分は自ら分離して「国民議会」を立ち上げた。

ネッケルが第3身分の議席数を倍増させたのも忘れてはならないことだ。


ルイ16世「はあ?下層のクズ共が国民議会?構わん構わん、潰せ。」


国王は議場を閉鎖し、第3身分への妨害を企てた。

しかし、ここで第3身分の人々の心に炎が宿るのである。


「例えこの身が尽きようとも・・・我がチームは解散しない!耐えるぞ、ミラボー!」


ミラボー「お、おう・・・。」


ミラボーのこの微妙な返事。それは、第3身分の人々の中でも「派」の違いを表していた。

「共和派」と「立憲君主派」の2つの派。「共和派」の考えは「憲法を制定したら、国王は不必要」。「立憲君主派」の考えは「憲法制定は望むが、国王はそのままに」。

「立憲君主派」の人々は「自由主義貴族」と呼ばれ、主にブルジョワジーがここに属していた。ちなみに「共和派」には「穏健共和派」と「急進共和派」の2種類が存在し、主に中流市民が「穏健派」、サン・キュロットが「急進派」だった。


彼らは1789年6月、「球戯場(テニスコート)の誓い」を結ぶ。

国民議会は憲法制定までは弾圧を受けようとも、解散しないことを誓った。

国王は議会をやむなく承認。第1・第2身分も合流し、「憲法制定国民議会」が成立した。

ちなみに、第3身分の代表はブルジョワジーである。


だが・・・。


ルイ16世「あのクズ共め・・・!こうなれば軍隊を動かす!議会を黙らせろ!」


この頃、パリ市民は凶作による食糧不足に苦しんでいた。

ネッケルが罷免されたこともあり、民衆の怒りは頂点に。

民衆は遂に政治犯を犯す。


1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃事件。


「ブルボンの豚がぁぁぁぁぁ!ルイ16世、ホビロン!」


パリ市民2万人が弾薬目当てで、圧政の象徴とされたバスティーユ牢獄を襲撃。

約100人の死者を出し、パリ民衆は牢獄を占領した。


この事件はたちまち全国に広がり、各地で「農民暴動」が起こる。

その結果、亡命貴族(エミグレ)が出現し外国へ逃亡する。


このような「下からの動き」に国民議会は迅速に対応。

1789年8月4日「封建的特権の廃止」を決定する。

これによって、領主が農民に強制していた裁判権や労役など、身分上の特権を全て廃止。

島民は身分上の自由を得たが、領主に納める「地代」は有償廃止だった。(25年分の地代を一括払いした時のみ廃止される)


そして、1789年8月26日「人権宣言」の採択。

これはバスティーユ牢獄の襲撃の成果を生かし、ラ・ファイエットが起草した。

アメリカ独立宣言との違いは、「所有権の不可侵」がある点だ。

代わりに、アメリカ独立宣言には「幸福の追求」が認められている。


1789年10月、ヴェルサイユ行進|(十月事件)


ルイ16世「おいお前、パリの女共がクレームをつけに来てるぞ。何?国民議会の2つの決定を承認しろ?食糧難だ?知らんがな。」


マリ・アントワネット「パンがないならケーキを食べれば良いじゃないのよ。」



ラ・ファイエット「結果・・・どうなるだろうか。」


そしてその結果、市民は国王一家をパリに連行。もちろん、国王の動きを市民が監視する為だ。国王一家は「テュイルリー宮」へ移された。

これと同時に、国民議会もパリへと移った。


それから1年半の月日が流れ・・・


1791年4月、ミラボー死去。

更に6月、「ヴァレンヌ逃亡事件」が起こる。


ルイ16世「お前の実家、オーストリアへ逃げるのだ!」


マリ・アントワネット「このヴァレンヌ村を越えれば・・・!」


「・・・?ありゃ国王一家だべ。」


「国王がオーストリアに逃げるぞ!捕えろ!」



その後、国王一家はパリへと連れ戻される。この事件により、国王への不信感が一気に高まる。


この頃、自由主義貴族と上層市民が主導権を握っていた。

彼らは諸改革を実施、無制限だった王権の制約を狙った。


・教会財産の没収

・ギルド制|(古い閉鎖的な組合制度)の廃止


そして1791年9月、遂に「1791年憲法」の制定。これが、フランス最初の憲法となった。

内容は「立憲君主政」「制限選挙」と言った物で、「立憲君主政」では絶対的な王権に対し、議会の優位を確立。「制限選挙」では一定の財産を持つ者が選挙権を持つというルールを決めた。


国民議会は当初の目的であった「憲法制定」を達成したので「解散」し、「制限選挙」で総選挙を実施した。


立法議会の招集―


君主制を支持する議員が当初は有力であったが、ヴァレンヌ逃亡事件などの影響で次第に「共和主義者|(共和派)」が有力になって行く。



1792年4月、ジロンド派が主導権を握る。

※特権階級が「王党派」、ブルジョワジーが「フイヤン派|(立憲君主派)」、中流市民が「ジロンド派|(穏健共和派)」、サン・キュロットが「ジャコバン派|(山岳派・急進共和派)」に属する。

このジロンド派は上層市民中心だった。


この頃、ヨーロッパの強国であるオーストリアやプロイセンはルイ16世一家に身の危険があるならば、フランス政府に干渉する事を宣言し、軍隊を国境に進めていた。

その為、国外からの危機に備え対策が必要だったのだ。


「自由の十字軍」の提唱。


フランス革命の理念である自由を守るため、我々が戦い諸国にも「自由」の恩恵をもたらそう!という考え方だ。

つまりフランスだけでなく、他国にも自由を与えると言うものだった。


立法議会はオーストリアへの宣戦布告を決議し、オーストリア領ベルギーに侵攻を開始。

これが「革命戦争|(1792~1799)」の始まりだった。


しかし、開戦当初は負け続き。それに対し国内に反革命勢力が復活し、国内の危機意識が高まる。


「ここで我々が終わって良いものか!?否!断じて否である!今こそ、立てよ!立てよ国民!祖国は危機にあり!」


ジロンド派の呼びかけに対し、全国から「義勇兵|(連盟兵)」がパリに集結。

マルセイユ出身の連盟兵が「ラ・マルセイエーズ」という行進曲を作り、それが今ではフランス国歌となっている。


1792年8月「8月10日事件」


連盟兵とサン・キュロットがテュイルリー宮を襲撃し、国王を幽閉。

「王権停止」と「男性普通選挙の実施」を要求した。


結果、「王権停止」に成功した立法議会は自ら解散。史上初の男性普通選挙|(21歳以上)を実現した。


1792年9月、「8月10日事件」から約1か月後に「国民公会」が招集された。

国民世論が選んだ答え。それは「共和派」だった。率いるは山岳派・ロベスピエール。

そしてこの月、「ヴァルミーの戦い」でフランス義勇軍がプロイセン軍に初勝利。

それが共和派の自信にも繋がった。


最初の決議で、議会は「王政を廃止し、共和政樹立を宣言」した。

これは「第一共和政|(1782~1804)」と呼ばれる制度であった。


その後、1793年1月に国王一家は断頭台で処刑された。



パリ民衆=サン・キュロットは、これまでに「バスティーユ牢獄襲撃」「ヴェルサイユ行進」「8月10日事件」において行動を起こした。

この後、更に活発な運動を展開する。


「自由よりも経済統制を」要求。食糧不足や穀物の値上がりを警戒したのだ。

「反革命派への処罰」で、亡命貴族や王党派の動きを警戒した。

更にそれは「9月虐殺」へと発展する。

1792年9月、国民公会が招集された月のこと。パリ民衆は反革命容疑者を約1万5000人も虐殺した。


このサン・キュロットの動きが、国民公会の動向に大きな影響を及ぼす。


1793年1月の国王処刑を機に、ヨーロッパ諸国は革命の広がりを阻止する為、フランスを攻撃。

「第1回対仏大同盟」結成。イギリスを中心にヨーロッパ諸国が結んだ軍事同盟だ。

更に王党派の反乱。

フランス国内外共に危機にさらされていた。


そんな中、国民公会は内部分裂・・・。

山岳派(ロベスピエールなど)VSジロンド派


そして1793年6月、パリ民衆は国民公会を包囲し、山岳派を支持。ジロンド派を追放した。

これにより、「山岳派の独裁」が成立してしまったのだ。

結局、民衆の支持があればこその「独裁」なのだろう。


ここから、フランス革命は最も過激な時期へと突入する。

1793年6月~1794年7月の1年1ヶ月間だ。


・封建的特権の無償廃止・・・遂に「地代」も無条件に廃止。農民たちは土地を捨て、多数の「小土地所有農民」が生まれる。


・最高価格令・・・生活必需品の物価統制。


更に「国民国家」の統制をはかる諸制度として、


・徴兵制

・革命暦

・メートル法


などが制定された。


1793年憲法|(通称ジャコバン憲法)制定・・・男性普通選挙の確率→実施はされなかった。


そして「恐怖政治」の展開。

「公安委員会」に権限が集中され、革命裁判所と連携して反革命派を断頭台で処刑して行った。1年間に2万人を超す処刑者を出したこの委員会の委員長こそがロベスピエールなのである。


次第に、民衆はそんな山岳派から離反して行く・・・。

商工業者は経済統制に不満、土地を得た農民はそれ以上の進展を望んではいない。

更に徴兵制に反発した「ヴァンデーの反乱」。


1794年7月、恐怖政治の終わりを告げる鐘が鳴る。

「テルミドールの反動」(テルミドール=革命暦の「熱月」)

ロベスピエールら山岳派の指導者たちは逮捕され、断頭台にて処刑される。


ロベスピエール「本当の・・・自由を考えたのに・・・!」


金持ち達「アンタはやり過ぎた。」


その結果、山岳派独裁は終わり、政権は穏和な共和派へと再び戻る(=反動)。

革命の成果を得たのは「有産市民|(ある程度の私有財産を持つ人々)」だった。


1995年、「1995年憲法」制定。制限選挙が復活し、有産市民による政権の確立。制定後、国民公会は解散された。

「総裁政府」設立・・・2院制の議会と5人の総裁。独裁化は防止できるが決断力に乏しい政府が生まれた。


そんな中、王党派は再び君主制を目指して動き始める。

更に1796年には「バブーフの陰謀」により、社会平等を主張したクーデタが計画されるが失敗に終わる。


社会不安の中で、国民は「強力な軍事指導者」を待望・・・そして、彼が現れた。


「ナポレオン・ボナパルト」


ナポレオンの登場により、再び結ばれた「第2回対仏大同盟」。


1799年、「ブリューメル18日のクーデタ」で、ナポレオンは弱体な総裁政府を打倒した。


ここまでが、「フランス革命」なのである。

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