無表情侯爵家で十一人分の未払い俸給を赤鉛筆で直したら、朝食席で求婚されました
「十一人分が空です」
カルメンが食卓へ置いた小袋は、どれも平たかった。十一個。握り締められていた紐だけが皺だらけで、銀貨は一枚も鳴らない。
若い侯爵は袋ではなく、カルメンの指を見た。
一度。
二度。
三度、瞬いた。
「一、未払いが十一人。二、初雪まで十日。三、侯爵様が三度瞬きしました。数字がお嫌いですね?」
「嫌いではない」
「では、お得意ですか?」
ドゥアルテは無表情のまま答えなかった。正直でよろしい。侯爵の威厳より帳簿のほうが強かった。
臨時の俸給書記として雇われたマルレーネは、十一個の小袋の横へ俸給控えを開いた。日付はある。支給額もある。受領欄だけが十一人分、きれいに空いている。
赤鉛筆を取り出す。
「では、数えます」
一つ、二つ、三つ。十一まで、空欄を赤い丸で囲んだ。紙の上に小さな穴が並んだようだった。そこから十一人分の冬靴と食事と睡眠が落ちている。
「本人から申告のあった不一致だけを調べます。噂では誰も処分しません。初雪までに俸給を十一人へ戻し、薪の行き先も確かめます」
「共同で監査する」
ドゥアルテは即座に言った。
カルメンの親指が、小袋の紐からようやく離れた。
「でしたら、ここです。日付、受領者、立会人。この三つを同じ横列で読んでください」
「横列」
「縦へ逃げないでください。侯爵様、もう違う月を見ています」
ドゥアルテの目が一行戻った。眉一つ動かさずに間違えるとは、なかなか堂々としたものだ。
それでも彼は読み直した。誤魔化さなかった。それだけで採点は一つ上がる。
やがて使用人が湯気の立つ湯を運んできた。ドゥアルテは自分の前を通り越させ、マルレーネの右手側へ置かせる。次には、背の高い椅子を自分で運んできた。
「こちらのほうが書きやすい」
「監査相手への待遇が手厚すぎませんか?」
「侯爵家の帳簿を直す者を床へ座らせるわけにはいかない」
なるほど。雇い主としての配慮らしい。
マルレーネは湯で指を温め、赤鉛筆を握り直した。
「では侯爵様。十一個の赤丸から始めましょう」
「十日以内に終える」
「いえ。俸給は今夜です」
ドゥアルテが四度目の瞬きをした。
* * *
「誤記です」
呼び出された前家令ロドリゴは、俸給控えを見るなり言った。
「十一件すべてが?」
「書記が写し間違えたのでしょう」
「その書記は三年前に亡くなっています。たいへんですね。反論してくれない方は、たいへん便利です」
マルレーネは不足額を合計した一枚を、ロドリゴの前へ滑らせた。
「確認の署名を」
「誤記だと言っている!」
「異議は余白へどうぞ。本文を破ると、侯爵様が金庫を開ける手間が無駄になります」
ロドリゴが振り向いたときには、ドゥアルテはもう立っていた。
壁際の金庫へ進む。鍵を差し、鉄扉を開く。一袋ずつ銀貨を量り、空だった十一の小袋へ入れた。
音が戻った。
しゃらり。しゃらり。十一回。
ロドリゴの声は、そのたび一段ずつ小さくなった。
「署名しなければ、支払いの根拠が——」
「赤丸のある原本、本人の申告、金庫残高を根拠にする」
ドゥアルテが答えた。横列を外さずに。
おお。教えたところができている。マルレーネは危うく拍手するところだった。侯爵に帳簿を一行読ませただけでこの達成感。数字嫌いの子どもを育てている気分になるが、相手は領主である。育て方を間違えるとこちらの首が飛ぶ。
「異議申立ては受け付けます」
マルレーネは言った。
ロドリゴの肩が持ち上がる。
「ただし、今夜渡した俸給は回収しません」
肩が落ちた。
不足額確認の署名が紙を引っかいた。
その夜、十一人が一人ずつ呼ばれた。ドゥアルテが小袋を手渡し、マルレーネが受領を確かめる。
台所の下働きは銀貨を掌へ出し、一枚ずつ指で押さえた。厩の少年は袋を胸元へしまってから、慌てて一礼した。庭仕事の老女は何も言わず、隣にいた洗濯女ピラールの手を握った。
十一人のうち二人が、その場で互いの足を紙へ載せた。
「何を?」
「冬靴の寸法です」
一人が答え、もう一人が銀貨を握ったまま踵へ印をつける。
「明日の朝、町へ頼めます。雪に間に合います」
ドゥアルテの手が金庫の鍵から離れた。
マルレーネは十一の赤丸へ横線を引いた。消したのではない。支払った日を、その隣へ書き足した。
赤は間違いを責める色ではない。
銀貨の帰り道を迷わせない色である。
* * *
「薪小屋は家令の管理下です」
翌朝、ロドリゴは鍵束を腰へ引き寄せた。声が大きい。相手が臨時書記一人なら、大きくしても安全だと思っている声だった。
「前家令です」
背後からドゥアルテが訂正すると、その声は見事に痩せた。
薪小屋を開ければ、薪の代わりに家具と酒樽と、ロドリゴ個人の荷箱が詰まっていた。支給記録では別棟にも薪を運んだことになっている。だが別棟の暖炉は冷たく、灰さえなかった。
ピラールは双子を背にかばい、立ったまま欠伸を噛み殺していた。目の下が灰色だった。指の節は洗濯水で割れ、双子はその袖へ一人ずつぶら下がっている。
「家令の権限で保管場所を変えただけだ」
ロドリゴが言う。
マルレーネは空の暖炉を指した。
「変更の結果がこちらです」
ドゥアルテはロドリゴの腰から管理鍵を外した。鍵輪が抵抗するように鳴ったが、持ち主の権限までは守ってくれない。
「返していただきたい」
「返さない」
「私物を出すまでは管理が必要です」
「私物は中庭へ出す。管理はカルメンへ戻す」
三つ目の言い分を待つ暇はなかった。
空いていた客室の留め金が外され、寝具が三人分運び込まれた。火が入り、ピラールは座った途端に立ち上がろうとした。
「洗濯を——」
双子が左右から両袖をつかんだ。
右へ一歩も、左へ一歩も行けない。ピラールは寝台へ尻餅をつき、そのまま横になった。双子も靴を脱ぎきらないまま両側へ潜り込む。
暖炉の火が三人の頬へ色を戻していった。
扉を閉める。
次に開けたとき、窓の外は暗かった。
「では、数えます」
マルレーネは置時計を見た。
「一、二、三、四、五、六、七、八。八時間です」
ピラールが毛布を押しのけようとした。
「もう働けます」
双子がまた両袖をつかんだ。
三人とも、もう一度眠った。
「鍵の返還を」
廊下でロドリゴが言った。
「ピラールが次に八時間眠ったあとで伺います」
「部屋も寝具も明け渡すのでしょうな?」
「伺うのは鍵を返さない理由だけです」
ドゥアルテが客室の扉の前へ立った。
ロドリゴはそれ以上、近づかなかった。
* * *
三十四通は、積むと朝食用のパン籠より高かった。
侯爵家の食堂へ集められた住み込み人と借家人は、長卓を三列使っても座りきれない。壁際まで椅子が並び、立ったままの者もいる。中庭には三十四束の薪。契約一通につき、一戸へ一束。実に分かりやすい。
分かりやすいが、三十四回ある。
マルレーネは自分の指を揉んだ。まだ開始前なのに、もう指が帰りたがっている。
「申告のあった方から照合します。契約番号を呼ばれたら、支払日を答えてください。侯爵様は受領欄を」
「横列で読む」
「立会人もです」
「横列で読む」
よし。育っている。
ドゥアルテは食堂の上座ではなく、マルレーネの隣へ座った。最初の契約を開く。顔はいつもの無表情に戻っていたが、昨夜眠っていないらしい。頁をめくる手が一度、空をつかんだ。
「一号室」
「九日前に支払いました」
「支払日、九日前。受領欄、空白。立会人、ロドリゴ」
ドゥアルテが読み上げる。
マルレーネは卓上の札を一枚、中庭側へ送った。
「一束目。西端の一号室へ」
薪を担いだ下働きが動く。契約者本人も窓辺へ寄り、自分の札が結ばれた束を見届けた。
「二号室」
「八日前です」
「支払日、八日前。受領欄には一月前の日付。立会人、ロドリゴ」
「二束目。西端の二号室へ」
薪が動く。抗議より先に、救いを動かす。実に気分がいい。責任追及だけでは暖炉は燃えないが、薪は燃える。正論より働き者だ。
「契約者の記憶違いかもしれない」
ロドリゴが言った。
「三号室」
「七日前。銀貨三枚です」
「契約額は二枚だ」
ドゥアルテの指が、一行をまっすぐなぞった。
「一枚多く徴収されている」
「集金の手間賃だ!」
「契約にない手間賃は、流用額へ加えます。三束目を」
反論は受け付ける。薪は止めない。
四通目。五通目。六通目。
短い呼名のあとに、ドゥアルテの低い声が続く。日付。受領欄。立会人。
七束目が中庭を渡り、八束目が門を出た。
九通目で、借家料が二重に記載されていた。
「これは訂正済みだ」
ロドリゴが契約へ手を伸ばす。
ドゥアルテがその手首の前へ掌を置いた。触れもしない。ただ、紙との間に置いた。
「訂正印がない」
「私が家令だった!」
「だから、あなたの印が必要だった」
ロドリゴの口が閉じた。
侯爵様、たいへんよくできました。百点。褒美に次の十一通を差し上げよう。私だけ二十五通読むのは不公平なので。
マルレーネが束の半分を押しやると、ドゥアルテは無表情のまま受け取った。逃げなかった。偉い。領主への評価として何かが間違っている気はするが、帳簿の前では全員一年生だ。
「十号室」
「支払いました」
「支払日、六日前。受領欄、ロドリゴ。受領者本人の署名なし」
「十束目を」
薪を担ぐ足音が続く。
十二、十三、十四。
十四束目が門柱を抜けたころ、ドゥアルテが湯差しへ手を伸ばした。自分の杯は空のまま、マルレーネの杯へ注ぐ。
「侯爵様の分がありません」
「次を」
「飲まないと数字が二重に見えますよ」
「あなたはもう指が動いていない」
見れば、赤くなった指先が契約の端で固まっていた。
なるほど。共同監査の相手を凍らせては効率が落ちる。ドゥアルテは仕事ができる男になりつつある。数字は苦手だが、椅子と湯の配置は早い。
彼は自分の椅子を半歩下げ、暖炉に近かった椅子をマルレーネへ寄せた。背もたれをつかむ手が、彼女の肩に触れないぎりぎりで止まる。
「こちらへ」
「侯爵様は?」
「立つ」
「食事は?」
「あとでいい」
自分の夕食を忘れる領主は、採点を一つ下げる。人の指の温度を覚えている領主なので、一つ上げる。差し引き零。たいへん惜しい。
十六通目で、ロドリゴが隣の男へ何か囁いた。男は目を伏せた。ロドリゴだけが唇の端を持ち上げる。
「あなたも薪を余分に受け取っただろう」
声がまた大きくなっていた。
男の背が丸まる。
マルレーネは契約を開いた。
「余分ではありません。昨年分の未配布を、今年の記録へ付け替えられています。受け取っていない薪を受け取ったことにされた方へ、同じ話を続けますか?」
ロドリゴの声が痩せた。たいへん健康的な減量である。
「十六束目を」
男は中庭へ出て、自分の札を両手で確かめた。戻ってきたときには、丸かった背が少しだけ伸びている。
二十通目。二十一通目。
食堂の窓が夜を映した。
椅子に座っているのはマルレーネだけになっていた。ドゥアルテは彼女の横に立ち、一通読むたびに身を屈める。彼の夕食はとうに冷え、パンには誰も触れていない。
「侯爵様、座ってください」
「その椅子はあなたのものだ」
「椅子はほかにも三十七脚あります」
「その椅子が暖炉にいちばん近い」
「一、空席が三脚。二、侯爵様の食事が冷たい。三、五度目の欠伸を隠しました」
ドゥアルテが口元へ置いていた拳を下ろした。
「隠せていなかったか」
「数字ですので」
彼は座らず、マルレーネの杯の湯を替えた。
二十三、二十四、二十五。
運び出された薪のぶんだけ中庭は広くなった。門の向こうから、到着を告げる声が返る。
「二十五号、到着!」
「受益者本人が確認しました!」
マルレーネは契約の端を折らず、別紙へ到着の印をつけた。一戸につき一束。名義と到着をその場で確定する。明日になって消える余地は与えない。
二十六通目で、流用された借家料の行き先が一つに重なった。
二十七通目でも。
二十八通目でも。
ロドリゴの個人口座だった。
食堂の全員が、その三つの記録を見た。ロドリゴはドゥアルテではなく、マルレーネへ向き直った。
「家族に借金があった」
今度の声は大きくなかった。
「妻の薬代も、子どもの生活費も必要だった。私が取らなければ、家族が路頭に迷った」
「事情は記録します」
「ならば——」
「返済額は減りません」
マルレーネは新しい紙を一枚出した。
「ご家族の生活費は、中立の後見会計へ切り分けます。あなたが返済を止めても、無関係な方の食事と薬代は止めません」
「私だけを切り捨てるのか」
「あなたのご家族と、あなたの責任を、同じ袋へ入れないだけです」
ロドリゴの指が卓の縁をつかんだ。
事情はある。だから家族は守る。
責任がある。だから本人は返す。
二つを混ぜて片方を消す勘定は、マルレーネの帳簿には存在しない。
「選べ」
ドゥアルテが言った。
食堂の空気が彼へ集まった。
「前家令として辞任し、流用額を返済する。あるいは降格を受け、返済計画を履行している間に限り倉庫番として働く。家族の生活費は後見会計から出す。どちらを選んでも、俸給、部屋、薪は取り戻せない」
ロドリゴの目が、銀貨を受け取った十一人、暖炉のある客室へ戻ったピラール、窓の外を運ばれていく薪へ順に動いた。
返還を求められるものは、一つも残っていなかった。
「降格を」
「先に署名を」
ロドリゴは返済計画へ署名した。
それだけでは、まだ紙の上だ。
「二十九号室」
マルレーネは次の契約を開いた。
「続けるのか」
ロドリゴが顔を上げる。
「残り六戸が寒いままです」
三十束目が運ばれる。
三十一束目。
三十二束目。
窓の外が白み始めた。夜が明ける。最初に宣言した十日の、最後の朝だった。空は雪を抱えた色をしている。
三十三通目をドゥアルテが読む。声が掠れていた。
「支払日、十日前。受領欄、空白。立会人、ロドリゴ」
「三十三束目を」
残る薪は一束。
最後の契約者は、杖をついた老女だった。契約書には支払い済みの印があり、受領欄にはロドリゴの署名がある。本人の印だけがない。
「私は受け取っていないよ」
老女が言った。
「届け先を」
ドゥアルテが尋ねる。
「門から東へ三軒目だ」
運び手たちは三十三往復で腕を使い切っていた。最後の一束の前で、足が止まる。
ロドリゴが署名したばかりの返済計画を見た。
それから上着を脱ぎ、薪束の縄へ両腕を通した。
持ち上げる。
膝が一度沈んだ。誰も手を貸さない。彼は歯を食いしばり、中庭を横切った。
門を出る。
三十四人が窓辺へ寄った。
灰色の空から、最初の白い粒が一つ落ちた。だが三十四束目は、その前に東の三軒目の軒下へ入った。
老女が杖を上げる。
「届いたよ!」
食堂で息がほどけた。
初雪まで十日。
十一人へ銀貨。
三人へ暖炉と八時間。
三十四戸へ一束ずつ。
正しさとは、ずいぶん場所を取る。金庫を空け、客室を埋め、中庭の薪を消し、ようやく人の手足を温める。紙の余白だけ直して満足するには、現実は腹が減りすぎているのだ。
ロドリゴが戻ってきた。肩には縄の跡がついていた。
「倉庫番の鍵は、いつ渡される」
「最初の返済が確認されたあとだ」
ドゥアルテが答える。
「今日は?」
「薪を運んだ分の賃金を記録する。返済とは別に支払う」
ロドリゴは一礼した。謝罪ではない。改心でもない。ただ、次の支払い日に必要な一礼だった。
それでいい。
働き直す道は、気持ちではなく足元へ置くものだ。
大広間を兼ねた食堂へ、薪の到着を見届けた者たちが戻った。朝食の鍋が運び込まれ、熱い麦粥とパンが長卓へ並ぶ。
最後にピラールと双子が入り、三十四人が揃った。頬に色があり、欠伸をしていない。皿を運ぼうと手を伸ばした途端、双子がまた両袖をつかむ。
「今日は座る日だよ」
「八時間寝ました」
「もう八時間」
双子の妙な理屈に押し切られ、ピラールは暖炉に近い席へ座った。
十一人は朝食の下で冬靴の寸法を書いた紙を回している。三十四人の肩や袖から、外の冷気が湯気になってほどけていく。
マルレーネもようやく契約を閉じた。
指が動かない。
湯の入った杯が、その指先へ寄せられた。
「ありがとうございます」
ドゥアルテは答えなかった。
立ったまま、マルレーネの手を見ている。
契約を読むときより長い。湯気で見えにくいのかもしれない。寝不足なら焦点も合わないだろう。侯爵様の健康管理まで俸給書記の仕事に入っているなら、追加料金を請求したい。
「侯爵様、朝食を」
彼は聞いていなかった。
マルレーネの椅子を暖炉側へもう少し寄せる。自分の皿は遠ざかった。
そこへカルメンがパン籠を置いた。
「ご当主」
「何だ」
カルメンはマルレーネへ顔を向けた。
「ご当主は帳簿より、あなたの指を見ていますよ」
食堂の音が止まった。
ドゥアルテの手も止まった。椅子の背をつかんだまま、指だけが強く曲がる。
いつもと同じ無表情のはずだった。
違った。
耳が赤い。
目が泳いだ。
瞬きが一回、二回、三回、四回。数える速度を侯爵様が追い越していく。口元まで引き結ばれ、鉄壁だった顔が内側から押されている。
マルレーネは自分の指を見た。
冷えて赤い。ただの指である。帳簿も読めない。受領印も押せない。なぜ侯爵が見る。
「監査中の配慮では?」
「ほかの監査役へ、ご自分の椅子を六回も運びますかね」
六回。
湯は九回。
食事を忘れたのは二回。
マルレーネの頭の中で、ばらばらだった数字が一斉にこちらを向いた。
一、湯。
二、椅子。
三、私の指ばかり見る。
まずい。これは計算式ではない。答えが数字にならない。
「侯爵家の監査には、こんな手厚い規定があるのですか?」
ドゥアルテの唇が開いた。
閉じた。
彼は三十四人を見回した。逃げ道を探したのではないらしい。全員がいることを確かめ、大広間の中央へ出た。
マルレーネの前へ戻る。
片膝をつきかけ、途中でやめた。朝食席で膝をつけば、椅子と長卓に挟まれる。侯爵家の威厳にも家具の配置という限界がある。
だから彼は立ったまま、椅子の背を握った。
「配慮ではない」
声が掠れた。
「では、監督でしょうか」
「違う」
「数字を読み間違えていないかの確認」
「あなたの指しか見ていなかった」
逃げ道が全部閉じた。
ドゥアルテの頬を、透明な雫が一筋通った。拭わない。三十四人の前で、濡れた跡を隠そうともしなかった。
「あなたが寒いのが嫌だった。食事を抜くのも、別の屋敷へ行くのも嫌だ。あの三十四人があなたに礼を言うたび、私より先にあなたを笑わせたと腹が立った」
三十四人が揃って姿勢を正した。嫉妬の対象が多い。しかも当人たちが全員いる。
「カルメンがあなたを連れてきたことにも感謝している。だが、あなたが彼女へ先に笑うのは気に入らない」
「私は何十年こちらで働いたと?」
カルメンの声だけが平らだった。
「年数の問題ではない」
「では、ご当主。たいへん見苦しいので、早く続きを」
品格ある老家政婦の一撃に、侯爵の威厳がきれいに沈んだ。
ドゥアルテは椅子から手を離した。
今度はマルレーネの前へ、両手を差し出す。濡れた頬も、赤い耳も、眠れていない目も、そのままだった。
「マルレーネ。私と結婚してほしい」
食堂の三十四人が息を止めた。
双子まで止めた。
マルレーネの心臓だけが、帳簿を踏み越えて走り出す。速い。数えられない。数えられないものは怖い。怖いものは数える。これが私の順序だ。
侯爵様の右手。
左手。
濡れた頬。
二脚の椅子。
朝食の皿。
明日の当番表。
ああもう。求婚の返事を俸給書記に求めないでほしい。適切な欄がない!
「では、数えます」
ドゥアルテの喉が動いた。
マルレーネは朝食当番表を引き寄せた。
「一、朝食当番が一人増えます。二、侯爵様の椅子はこちら。三、私の隣です。……なぜ皆さん笑うのです?」
最初に吹き出したのは双子だった。
次にピラールが口元を押さえ、十一人の下働きが冬靴の寸法紙を揺らした。壁際の借家人へ伝わり、窓辺から長卓へ、長卓から暖炉の前へ、笑いが三十四人を一巡した。
誰かがドゥアルテの椅子を押した。
別の誰かが受け取り、長卓の脇を滑らせる。
三人目が向きを変えた。
四人目がマルレーネの隣へ置いた。
二脚が並んだ。
ドゥアルテはその椅子とマルレーネを交互に見た。
腹を押さえた。
鉄壁だった顔が、とうとう全部崩れた。肩が揺れ、背が折れ、声まで漏れる。侯爵家の誰も見たことがない笑い方だった。
マルレーネは大急ぎで湯の杯を避けた。笑いながら座ろうとしているので危ない。椅子が二脚、皿が二枚、朝食当番が一人増える。数字は合っている。
「ドゥアルテ様、パンを落とします」
呼び方を間違えたせいか、彼はさらに腹を抱えた。




