魂喰みの識病官
辺境都市カルデラの北端に、その診療院はある。
壁の漆喰は剥がれ、看板は錆び、庭には雑草が人の背丈ほどに伸びている。
王都の聖典院を知る者がこの建物を見れば、ここが大陸有数の識病官の居場所だとは夢にも思うまい。
患者のあらゆる症状や秘密から病の真因だけを取り出し、決して間違えぬ「判決」を下すことのみを生業とする者。
それが識病官だ。
「先生、患者です」
元正騎士の治癒師、エルダが扉を蹴り開けた時、アーレン・グレイヴは診察室の長椅子に横たわり、天井の染みを数えていた。
左手には細巻きの煙草を弄び、独特の苦い匂いが部屋に充満している。
「断れ」
「運び込まれたんです。断るも何も——」
「なら庭に置いておけ。雑草が診てくれるかもしれない」
エルダは深く息を吸い、吐いた。
この男との会話は、常に忍耐の修練だった。
「十二歳の女の子です。二日前から眠り続けていて、目を覚まさない」
小瓶を弄ぶアーレンの指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……眠り続けている」
「ええ。母親が連れてきました。他の治癒師には手に負えなかったと」
「当然だろうな」
アーレンは不機嫌そうに体を起こした。
左側の肘掛けに体重をかけ、包帯の巻かれた右腕がわずかに軋む。
右腕の奥から刺すような鈍痛が走ったが、それを顔に出さないのは、もはや習慣だった。
診療院の奥、簡素な寝台の上に、少女が横たわっていた。
獣人の見習い少年、リュートが傍らにしゃがみ込み、しきりに鼻を動かしている。
犬のような垂れ耳がぴくぴくと揺れていた。
「先生、この子——変な匂いがする」
「変な匂い。実に医学的な所見だ」
「茶化さないでよ。なんていうか……冷たい匂い。冬の朝の霜みたいな」
アーレンは少女を見下ろした。
年相応の丸い頬、薄い唇、亜麻色の髪。
呼吸は穏やかで、苦しんでいる様子はない。
ただ眠っている——どこまでも深く、静かに。
寝台の脇に、女が一人立っていた。
三十代半ばの痩せた女。
目の下に深い隈があり、唇は乾いてひび割れていた。
二日間眠れていないのは娘だけではなく、この母親も同じなのだろう。
「あなたが、グレイヴ先生——」
「先生はやめろ。で、いつからだ」
「二日前の夜です。夕食の後、いつも通りに床に就いて……朝になっても起きなくて。最初は熟睡しているだけだと思ったんです。でも揺すっても、声を掛けても、頬を叩いても……」
女の声が震えた。
アーレンは遮るように言った。
「食事に変わったものは」
「いいえ」
「最近、どこか遠出したか。森に入ったとか、遺跡に近づいたとか」
「していません。あの子は村からほとんど出ない——」
「ほとんど。つまり出ることはあるんだな」
「……学校に通う道の途中に小さな泉があって。あの子はそこで遊ぶのが好きで……でもそれは昔からで、何も——」
「泉か。なるほど」
アーレンは煙草を灰皿に押し付け、右手の手袋を外した。
禍々しい魔力鉱石のように結晶化した皮膚が露わになる。エルダが一歩前に出た。
「『魂視』を使うんですか」
「他に寝台に横たわって動かない子供を診断する方法があるなら聞こう」
「……慎重にやってください」
「ああ。いつも通りにな」
アーレンは少女の額に指先を触れた。
——瞬間、世界が裏返る。
視界が暗転し、再び開けた時、そこにはひとつの魂があった。
子供の魂は通常、騒がしいものだ。
感情の色が絶えず移り変わり、喜びや怒りや好奇心が花火のように弾ける。
成熟した大人の魂より雑然として、眩しくて、見ていると少しだけ目が痛くなる。
この少女の魂は、凍っていた。
比喩ではない。
魂の表面を薄い氷の膜が覆い、内側の光は微かに透けて見えるが、動きが完全に止まっている。
まるで真冬の湖面の下に、生きた魚がじっと沈んでいるように。
そして氷の中に——何かがいた。
小さな光点。
少女の魂とは明らかに異質な、青白い燐光。
それが氷の膜と少女の魂の間に挟まるようにして、静かに脈動している。
アーレンは指を離した。
現実に引き戻される感覚は、いつも冷水を浴びせられるのに似ている。
少女の凍てついた魂の残滓が右手に残り、指先が痺れた。
「……先生?」
リュートが心配そうに見上げている。
アーレンは無言で手袋をはめ直し、結晶化した腕を隠した。
母親が詰め寄った。
「何がわかったんですか。あの子は——あの子は治るんですか」
「わからない」
「わからないって——」
「何かがいる。お前の娘の中に、何かが入り込んでいる。それが何なのかはまだわからない。だが、原因は眠りじゃない。眠りは症状だ。何かが——あの子の魂を凍らせている」
母親の顔から、残っていたわずかな血の気が引いた。
***
「鑑別診断だ」
アーレンは診察室の壁に掛かった黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
チーム全員——エルダ、フィオ、リュート——が椅子に座っている。
正確には元犯罪者の薬師であるフィオだけが座っておらず、部屋の隅の棚にもたれて眠そうな目をしている。
「十二歳の少女。二日間の昏睡。治癒魔法に反応なし。魂視の所見として魂全体が氷の膜に覆われ、内部に異質な光点が存在する。さて」
「呪い」と、エルダが言った。
「誰かが意図的に——」
「呪いなら術式の痕跡が見える。なかった」
「じゃあ魔物の寄生」と、リュートが手を挙げた。
「迷宮から出てきた魔物が体に入り込むって話、聞いたことある」
「寄生型の魔物は宿主の魔力を食う。この子の魔力は食われていない。凍っているだけだ。食べているんじゃなく、抱きしめている——とでも言うべきか」
「禁忌薬の副作用」
全員がフィオを見た。
フィオは棚にもたれたまま、感情のない声で続けた。
「霜花の雫。北方に自生する氷華草から抽出する魔法薬で、服用すると精神を一時的に深い安静状態に置く。かつては重度の精神疾患の治療に使われていたが、過剰摂取で魂が凍結する事例が報告されて禁忌指定された」
「十二歳の村の子供がどうやって禁忌薬を手に入れるんだ」
「さあ。でも可能性としては残る」
アーレンはチョークで黒板に三つの仮説を書いた。
呪い——可能性低。
魔物の寄生——可能性中。
禁忌薬——可能性不明。
そしてその下に、四つ目を加えた。
「自発的凍結」
「……自発的?」エルダが眉を寄せた。
「自分で自分の魂を凍らせたってこと?」
「あの氷の膜は外側から凍ったんじゃない。内側から凍っている。つまり少女自身の魔力が、自分の魂を覆っている」
「なんのために」
「それがわかれば診断は終わりだ——リュート、あの泉に行って水を汲んでこい。何か魔力的な異常がないか調べる。フィオ、北方系の凍結作用を持つ薬草のリストを作れ。この地域で入手可能なものに絞れ。エルダ、母親からもっと詳しく話を聞け」
「あなたは?」
「考える」
エルダは何か言いたげだったが、飲み込んで立ち上がった。
全員が部屋を出た後、アーレンは長椅子に腰を下ろし、左手でポケットを探った。
煙草を一本取り出し、火を点けて深く吸い込む。
強烈な香草の煙が肺を満たし、じわりと右腕の痛みの角が丸くなる。
少女の魂に触れた残滓が、結晶化した右腕の奥でまだ冷たく脈打っていた。
あの凍り方——アーレンは過去に似たものを見たことがあった。
ただし、それは大人の、それも極度の精神的苦痛を受けた者の魂に稀に見られる現象だった。
耐えきれない痛みから自分自身を守るために、魂が自らを閉ざす。
意識を手放し、何も感じない場所に沈んでいく。
人はそれを「深い眠り」と呼ぶ。
だが十二歳の子供が、何から身を守ろうとしている?
***
エルダが母親——名をマーサといった——から聞き取った情報は当初、役に立たないように思えた。
「普通の子なんです」と、マーサは繰り返した。
「明るくて、友達もいて、学校も好きで。悩みなんて——あの歳の子に、そんな深刻な悩みがあるわけがない」
エルダはその言葉を書き留めながら、小さな引っかかりを覚えた。
元騎士としての直感か、あるいは人の嘘に敏感なアーレンの傍で過ごすうちに身についた癖か。
「お父さんは?」
マーサの手がエプロンの端を握りしめた。
「……去年、亡くなりました」
「どのように」
「病で。長い間、体が弱くて」
「お嬢さんは、お父さんの死をどう受け止めていましたか」
「あの子は強い子です。泣いたのは葬儀の日だけで、その後はちゃんと——ちゃんと普通にしていました。私を気遣って、家のことも手伝って。あの子は、大丈夫だったんです」
エルダの筆が止まった。
大丈夫だった。
その言葉の重さを、エルダは知っている。
戦場で仲間を失った兵士が、翌日には平気な顔で剣を振るう。
大丈夫だったと誰もが言う。
そして数ヶ月後、何の前触れもなく崩れる。
リュートが泉の水を持ち帰った。
フィオが簡易な分析をした結果、水には微弱だが特殊な魔力の残滓が含まれていた。
「精霊の痕跡だ」と、フィオは言った。
「低級の水の精霊。泉に棲みついている」
「危険な存在か」と、エルダが訊いた。
「通常はそうじゃない。低級の精霊は人と共存する。ただし——」
「ただし?」
「精霊は感情に引き寄せられる。特に子供の強い感情に」
アーレンは少女の寝台の傍らに座っていた。
チームからの報告は揃った。
父親の死。
泉に棲む精霊。
そして少女の魂を内側から覆う氷。
パズルの断片が、形を成しつつあった。
だが、まだ足りない。
決定的な一片が欠けている。
扉が開き、教会の司祭であるセドリック・オーウェンが入ってきた。
黒い僧服に、穏やかな笑みを浮かべた大柄な男。アーレンの数少ない旧友だ。
手に焼き菓子の包みを提げている。
「見舞いだよ。まあ、君の見舞いじゃなくて患者のだが」
「患者は昏睡中だ。菓子は食えない」
「では、君が食べればいい。また薬だけで夕食を済ませたんだろう」
アーレンは答えなかった。
セドリックは慣れた様子で椅子を引き、少女を見下ろした。
「小さいな。この子がどうした」
「眠っている。自分の魂を自分で凍らせて」
「……なぜ」
「父親が去年死んだ。母親いわく、娘は『大丈夫だった』」
セドリックの笑みが消えた。
司祭として、その言葉の意味を彼もまた知っている。
「つまりこの子は——」
「悲しめなかったんだ」
アーレンは指に挟んだ煙草の火種を見つめながら、低い声で続けた。
「十二歳。母親の前では泣けない。泣いたら母親がもっと辛くなるとわかっている。だから大丈夫なふりをした。一日、一週間、一ヶ月。そうしているうちに、大丈夫なふりが上手くなりすぎた。悲しみを感じる回路ごと、自分で閉じてしまった」
「それが魂の凍結——」
「まだ続きがある。問題は精霊だ。あの泉に棲みついている低級の水の精霊。子供の強い感情に引き寄せられる性質がある。だがこの子の場合、引き寄せられたのは感情じゃない。感情の不在——凍った魂から漏れ出す冷気のようなものに惹かれた。精霊はあの子の中に入り込んだが、害を与えているんじゃない」
「では、何を?」
アーレンは一瞬、言葉を切った。
「……寄り添っている」
セドリックは目を瞬いた。
「凍った魂の傍で、あの小さな精霊がただじっとしている。あたためようとしているのか、ただ寒い場所が心地いいのか——精霊の思考は読めない。だがあの光点は少女の魂を侵食していなかった。膜と魂の間に挟まるようにして、震えていただけだ」
「では、精霊は無害なのか?」
「無害かどうかは問題じゃない。問題は、精霊がいることであの子の魂の凍結が安定してしまっていることだ。精霊の魔力が、本来なら不安定なはずの自己凍結を補強している。つまり——このままでは永遠に目を覚まさない」
セドリックは静かに息を吐いた。
「……精霊を引き剥がせば?」
「凍結の安定が崩れる。だが凍結そのものは解けない。原因は精霊じゃなくこの子自身の心だ。精霊を取り除いてもこの子が自分から魂を溶かさない限り、凍結は続く。最悪の場合、安定を失った凍結が暴走して魂が砕ける」
「では……」
「この子の心を——溶かさなければならない」
長い沈黙が落ちた。
セドリックが口を開いた。
「アーレン。それは君の最も苦手なことではないのか?」
アーレンは答えなかった。
代わりに煙草を咥え、細く長い煙を吐き出した。
***
翌朝のチームの議論は紛糾した。
「要するに、この子の心の問題を解決しないと目が覚めないということですか」と、エルダが腕を組んで言った。
「ならば母親と話をさせるべきです。精霊を慎重に取り除いて、凍結が不安定になったところで母親の声で呼びかければ——」
「無駄だ」
「なぜ?」
「この子が魂を凍らせたのは、母親の前で大丈夫なふりをし続けた結果だ。母親の声は『大丈夫でいなければ』という圧力と結びついている。今の状態であの子に母親の声を聞かせたら、凍結はむしろ深まる」
エルダの顔が強張った。
「では——誰が?」
アーレンは黒板の前に立ち、全員を見回した。
「俺が入る」
部屋が静まり返った。
リュートが最初に口を開いた。
「入るって——魂の中に?」
「深層の魂視だ。表面を視るだけでなく魂の内側に意識を潜らせる。この子が閉じこもっている場所まで降りていって直接対話する」
「そんなことできるんですか」と、フィオが初めて目を見開いた。
「一度だけやったことはある。あまり愉快な経験ではなかった」
「危険度は?」
「俺にとっては高い。子供の凍った魂の中に潜るということは、この子の悲しみの只中に飛び込むということだ。代償として俺の中に流れ込んでくるものは、表面を視る比じゃない」
「やめてください」と、エルダが立ち上がった。
「他の方法を探すべきです。時間をかければ——」
「時間はない。凍結が進行している。あと二日もすれば凍結が魂の核にまで達する。そうなれば溶かしようがない。あの子は目を覚まさないまま生きた屍になる」
「だからって、あなたが壊れたら誰が——」
「俺の心配はいい。壊れたら壊れた時だ」
「よくない!」と、エルダの声が部屋に響いた。
「あなたはいつもそうだ。自分を道具みたいに——」
「道具だろう」と、アーレンは淡々と言った。
「使える道具を使わずに患者を死なせるのが、お前の言う正しい医療か」
エルダは唇を噛んだ。
アーレンの論理は正しい。いつも正しい。
そしていつも、自分を勘定に入れていない。
フィオが静かに言った。
「……成功の見込みは?」
「五分五分だ。この子が俺の言葉を聞くかどうかにかかっている」
「あなたの言葉を」と、フィオの口元が微かに歪んだ。
かすかな笑みだった。
「あなたの言葉で、凍った子供の心を溶かす?」
「言いたいことはわかっている」
「いえ、別に。ただ面白いと思っただけです」
***
夕暮れ時。
アーレンは少女の寝台の横に椅子を置き、腰を下ろした。
部屋にはエルダとリュートが待機している。
フィオは隣室で、万が一の際の回復薬を調合していた。
「何かあったら俺の手を引き離せ」と、アーレンはエルダに言った。
「どんな状態でも構わない。十分経って反応がなければ、強制的に引き剥がせ」
「わかりました」
「リュート」
「はい」
「俺の匂いを嗅いでいろ。何か異変を感じたら——霜の匂いがしたら、すぐにエルダに伝えろ」
リュートは真剣な顔で頷いた。
アーレンは手袋を外し、右手を少女の額に置き、左手を少女の小さな手に重ねる。
深く息を吸った。
そして——潜った。
暗い。
冷たい。
アーレンの意識は少女の魂の内側を沈んでいた。
水の中を落ちていくような感覚。
周囲は薄い青白い光に満ちていて、その光自体が冷たかった。
冷気が肌を刺す——肌というのも正確ではない。
ここには体はない。あるのは意識だけだ。
だが、痛みは体の時と同じように感じる。
凍てついた悲しみの中に、生身で放り込まれたような痛み。
声を出そうとした。
声というものがここで意味を持つのかわからなかったが、意識を研ぎ澄ませて語りかけた。
——聞こえるか。
反応はなかった。
さらに深く。冷気が増す。
指先の感覚が——意識の中の指先が——消えていく。
これが代償だ。
他者の苦痛がアーレンの中に浸透していく。
十二歳の少女が一年かけて凍らせた悲しみの総量が、一気に流れ込んでくる。
歯を食いしばった。
やがて、底に着いた。
少女がいた。
凍りついた世界の最深部。
膝を抱えて座っている小さな影。
周囲は一面の氷原で、空はなく、地平線もない。
ただ白と青の静寂だけが広がっていた。
その少女の傍に、かすかな光が揺れていた。
小さな青白い光——泉の精霊。
手のひらに載るほどの、頼りない光点が、少女の肩のあたりで震えている。
アーレンは少女の前に立った。
立つ、という感覚もここでは曖昧だったが、少女の目線に合わせるために膝を折った。
現実では岩のように重く痛む右腕が、ここでは本来の温度と軽さを持っていた。
少女はアーレンを見ていなかった。
膝に顔を埋め、微動だにしない。
——おい。
少女は動かない。
——俺は医者だ。お前の体を預かっている。起きろ。
反応なし。
アーレンは苛立ちを飲み込んだ。
予想はしていた。凍結した魂の内部にいる意識は、外界をほとんど認識しない。
自分の作った殻の中に完全に閉じている。
ここから先は、識病官の領域ではなかった。
肉体の異常を論理で暴き出すのではなく、患者の言葉にならない苦悩に踏み込み、魔力と結びついた感情の歪みや魂の傷に寄り添い、それを解きほぐす者——いわゆる調魂官としての——いや、もっと原始的な何か。
人の心に手を突っ込んで、無理やりにでも引きずり出す行為。
アーレンが最も得意とし、最も忌み嫌うもの。
——お前の母親が待っている。
少女の指が微かに動いた。
——起きないと母親が困る。泣いている。お前のせいでな。
少女の体が強張った。
頭が少しだけ持ち上がる。
だが、その目には光がなかった。
氷のような、何も映さない目。
そして少女は口を開いた。
この世界で初めて聞いた、少女の声。
「……おかあさんを、泣かせてる」
——ああ。
「……起きなきゃ」
その瞬間、氷原が軋んだ。
少女の周囲の氷がさらに厚くなり、冷気が刃のようにアーレンの意識を切り裂いた。
失策だった。
母親を泣かせている。だから起きなきゃ——それは「大丈夫なふりをしなければ」と同じだ。
義務感が凍結を駆動する。
母親の話をした瞬間に、この子は自分をもっと深く閉ざした。
エルダなら、ここで何と言うだろうか。
「大丈夫だよ」「泣いていいんだよ」——そういう温かい言葉で少女の氷を溶かすのだろうか。
だが、俺はエルダではない。
アーレンは自分の中にある冷たい部分——フィオに似た、感情を排した分析の目——を意識的に退けた。
代わりに、普段は煙の匂いと皮肉の壁の下に押し込めているものを手探りで引き出した。
それは、自分自身の痛みだった。
——なあ、ガキ。
少女は膝に顔を埋め直していた。
——俺にも覚えがある。
少女の耳が、微かに動いた。
——誰かを失って、それが悲しいはずなのに、悲しめない。周りがお前に期待している。しっかりしろ、お前は強い子だ、大丈夫だろう——そう言われるたびに、自分の中の何かが凍っていく。
少女は動かない。
だが、氷原の軋みが止まっていた。
——悲しいと言えば、周りが困る。泣けば、誰かが気を遣う。だから笑う。大丈夫だと言う。そうしているうちに、本当に大丈夫になったような気がしてくる。凍っているのと平気なのとの区別がつかなくなる。
アーレンの声は——意識だけのこの場所で「声」と呼べるものは——低く、静かだった。
普段の皮肉も刺も、すべて剥がれ落ちた、むき出しの言葉だった。
——だがな。凍っているだけだ。平気なんかじゃない。お前の中に悲しみは全部残っている。一滴もこぼれていない。お前が蓋をしているだけだ。
少女の肩が震えた。
——お前の父親は死んだ。
少女の体がびくりと跳ねた。
——死んだんだ。もういない。朝起きても、夕飯の席にも、どこにもいない。それは——
アーレンは一瞬、言葉に詰まった。
自分の中に流れ込んできた少女の悲しみが、自分自身の古い傷と重なって、息ができなくなった。
振り切った。
——それは、悲しいことだ。
少女が顔を上げた。
今度は目に光があった。
凍りついた青ではなく、揺れる、生きた瞳。
涙が頬を伝い——涙が落ちたところから、氷が溶け始めた。
「おとうさん」
——ああ。
「おとうさんが、いなくなった」
——ああ。
「さみしい」
少女の声は小さく、震えていて、それでも確かに自分の言葉だった。
一年間、一度も口にできなかった言葉。
「さみしいよ、おとうさん。さみしい——」
氷原が砕けた。
足元から、全方位から、凍りついた世界が音を立てて崩れていく。
少女の中に閉じ込められていた感情が一気に溢れ出し、冷気が温かい水に変わっていく。
その奔流が、アーレンの意識を容赦なく叩いた。
一年分の悲しみ、寂しさ、怒り、罪悪感——母を一人にした父への怒り、悲しめない自分への罪悪感。
それらすべてが津波のようにアーレンの中に流れ込み——。
アーレンの意識が軋む。
視界が歪む。
自分と少女の感情の境界が溶けていく。
だがその時、小さな光が割り込んできた。
青白い燐光——泉の精霊。
精霊は少女の肩を離れ、アーレンと少女の間に浮かんだ。
そして柔らかく光りながら、溢れ出す感情の奔流を吸い込み始めた。
精霊が冷気に惹かれてここに来たのなら、精霊が吸い込むものもまた——。
いや、違う。
精霊が吸い込んでいるのは悲しみではなかった。
悲しみそのものは少女の中に残っている。
精霊が吸い込んでいるのは、悲しみの「痛み」——感情の刃の部分だけを、静かに引き受けている。
アーレンは精霊を見つめた。
この小さな存在は、最初からそうしようとしていたのだ。
凍った魂の傍にいたのは冷たさが心地よかったからではなく、この子の痛みを少しでも和らげようとして——泉で遊ぶ少女に懐いた精霊が、その少女の苦しみを感じ取って自分にできる唯一のことをしていた。
寄り添うという、ただそれだけのことを。
アーレンはゆっくりと立ち上がった。
氷原は消え、周囲は淡い光に包まれている。
少女は泣いていた。
肩を震わせ、声を上げて、子供らしく泣いていた。
精霊はその傍らで、静かに光っていた。
——泣いていい。好きなだけ泣け。
アーレンはそう言い残して、少女の魂から浮上した。
***
目を開けた瞬間、痛みが来た。
全身を氷水に漬けた後に火の中に放り込まれたような、矛盾した激痛。
結晶化した右腕が特にひどく、左手で肩口を強く押さえても震えが止まらなかった。
「先生!」
リュートの声が遠い。エルダの手が肩を支えている。
「——煙草を」
「ダメです。今の状態でそんな強いものを吸ったら——」
「エルダ。頼むから火を点けてくれ」
エルダは唇を結んだが、アーレンの唇に煙草を咥えさせ、火を点けた。
アーレンは震えながら煙を深く肺に入れ、ようやく息がつけた。
「……少女は」
全員の視線が寝台に向かった。
少女の頬を、涙が伝っていた。
閉じたままの瞼の下から、透明な雫が一筋、二筋と流れ落ちている。
そして——瞼が震えた。
薄く、目が開いた。
「おかあ……さん」
リュートが叫んだ。
「エルダさん、お母さん呼んで!目を覚ました!」
エルダが飛び出していった。
アーレンは椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。
指先はまだ痺れていた。
少女の一年分の悲しみの残滓が、体の奥で冷たく脈打っている。
これが消えるには数日かかるだろう。
あるいはもっと。
廊下から足音が聞こえ、マーサが駆け込んできた。
寝台に取りすがり、娘の名を呼び、泣いた。
少女も泣いていた。
「おかあさん。おとうさんが——おとうさんがいなくて、さみしい。ずっとさみしかった」
マーサの顔が歪んだ。
罪悪感と後悔と、それを上回る安堵が一瞬のうちに顔を通り過ぎた。
「——ごめんね。ごめんね、気づいてあげられなくて——お母さんもよ。お母さんも、さみしかった」
親子が泣きながら抱き合うのを、アーレンは見なかった。
見られなかったのではなく、見る必要がなかった——と、少なくとも自分にはそう言い聞かせた。
ズキズキと痛む右腕を庇うように立ち上がり、誰にも声をかけず、裏口から診察室を出た。
***
裏庭には、伸び放題の雑草と、古い木の長椅子がひとつ。
アーレンがそこに座って新しい煙草に火を点けた時、セドリックが隣に座った。
しばらく二人とも黙っていた。
やがてセドリックが口を開いた。
「聞いたよ。見事な治療だったそうだな」
「エルダが大袈裟に言っただけだ」
「リュートが泣いていたぞ。『先生すごかった』と」
「あいつはくしゃみでも泣く」
セドリックは笑った。
それから穏やかな目でアーレンを見た。
「あの子の魂の中で、何を話したんだ?」
アーレンは答えなかった。
「……嫌なら話す必要はないさ。ただ——」
「ただ?」
「君にしか言えない言葉があったんだろうなと思ってね。エルダでも、私でもなく、君にしか」
「買い被るな。俺は自分にできることをやっただけだ」
「そう。それが大事なんだ」
アーレンは鼻を鳴らし、煙草を吹かした。
沈黙が降りた。夕暮れの空が赤から紫に変わっていく。
辺境の風が、薬草の苦い匂いを運んでくる。
「……精霊がいた」アーレンがぽつりと言った。
「精霊?」
「泉の精霊だ。あの子の魂の中でずっと傍にいた。何もできないくせに、ただ傍にいた」
「それは無駄なことだったか?」
アーレンは長い間黙っていた。
「……いや」
セドリックは何も言わなかった。
ただ隣に座っていた。
精霊のように——何も言わず、ただ傍に。
アーレンはそれに気づいていたが、口にはしなかった。
代わりに煙草の残骸を指で弾き飛ばし、舌打ちした。
「煙草の減りが早い」
「吸いすぎだ」
「お前に俺の痛みがわかるか」
「わからないよ。だからここにいる」
アーレンは返す言葉を探し、見つけられず、黙った。
雑草が風に揺れていた。
診療院の中から、微かに——泣き声ではなく、笑い声が聞こえてきた。
少女が目を覚ましたのだ。
ちゃんと目を覚まして、母親と一緒に泣いた後の柔らかい笑い方で笑っている。
アーレン・グレイヴはそれを背中で聞きながら、結晶化した右腕を庇い、長椅子に体を預けて沈んでいく夕陽を見ていた。
指先はまだ、冷たかった。




