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夢の残響

作者: 霜月希侑


 夜の病棟は静かだった。蛍光灯の淡い光が、白い廊下に冷たく映る。私、佐藤春奈はナースステーションの隅で記録を書く手を止め、ふと窓の外を見た。外は真っ暗で、星一つない空。時計の針は深夜2時を指していた。2年目の看護師として、彼女はまだこの時間の静寂に慣れていなかった。心のどこかで、いつも何かがざわめいている。


 春奈の見る夢は、いつも同じだった。白衣を着た自分が、看護学校の教室にいる。教科書を開く手は震え、教授の声が耳元で響く。

「あなたには看護師なんて無理だよ」

 春奈の横を内定の通知を受け取り、笑顔で会話する同級生たちが通り過ぎていく。私だけが取り残される。 

 試験の答案は白紙のまま、鉛筆の芯は全て折れる。逃げ出そうと必死に走るが、廊下は果てしなく続き、出口は見えない。やっとの思いでたどり着いた先は、なぜか見慣れた病棟。ナースステーションには、先輩看護師の涼子が立っている。彼女の目は鋭く、口元に冷笑が浮かぶ。


「佐藤さん、あなた、本当に大学ストレートで卒業したの? 浪人もしてないの?もしかして、国試浪人したんじゃないよね?なんでこんなにできないの?」

 涼子の声は、低く、まるで刃物のように鋭い。

「だいたいあなたがちゃんとやってれば、患者さんが不穏になるわけないよね。カンファレンスの時間に排泄介助だなんて、あなたがちゃんと確認してないからだよね?なんでこんなこともできないの?」

 言葉は矢のように春奈の胸に突き刺さる。彼女は反論しようと口を開くが、声が出ない。代わりに、涙がこぼれる。

「私、ダメな人間なのかな」

心の底で、囁きが響く。

「看護師を目指したこと自体、間違いだった?」


 夢の中で、春奈はいつも飛び起きる。汗に濡れたシーツ、乱れた呼吸。枕元の時計は3時を指す。現実の病棟は静かだが、彼女の心はまだ夢の残響に揺れている。


 1年目の記憶は、春奈の身体に刻まれていた。先輩の指導は、時に正しく、時に感情の濁流だった。患者さんが不穏になって転倒した夜、涼子の声が響いた。

「あなたのせいよ。あなたがちゃんと見てれば、こんなことにはならなかった。余計な仕事増やさないでくれる?ほんと迷惑なんだけど」

 春奈は、患者さんの様子を何度も確認したはずだった。それでも、コントロールできない生理現象を、なぜか自分の失敗として背負わされた。カンファレンスの時間、患者さんが急に排泄を希望したときも同じだった。「事前に確認しなかったの? あなたのせいで時間通りに進まない」

 春奈は確かに確認していた。患者さんに笑顔で

「お手洗いは大丈夫ですか?」

と声をかけていた。それでも、先輩の苛立ちは彼女に向けられた。まるで、病棟のすべての不調和が、彼女一人の責任であるかのように。


 春奈はスルーすることを知らなかった。先輩の言葉を、すべて真正面から受け止めた。胸の奥で、言葉は棘となって刺さり、抜けなかった。夜勤明け、寮の小さな部屋で、春奈は鏡に映る自分を見つめた。

「どうして、もっとうまくできないんだろう」

 自己嫌悪は、静かに心を侵食した。判断力は鈍り、普段ならしないミスが重なった。カルテの記入漏れ、点滴の準備の遅れ。ミスはまた新たな叱責を呼び、負のループが春奈を締め付けた。


「先輩に迷惑をかけた」

 その後悔が、彼女の心を最も重くした。患者さんを思う気持ち、先輩たちの役に立ちたいという気持ち。それが強すぎるあまり、彼女は自分の心を後回しにしていた。



 ある夜、夜勤の合間に、春奈はナースステーションの隅でノートを開いた。ペンを握り、震える手で書き始めた。

「今日、患者さんが『佐藤さん、ありがとう』って笑ってくれた」

 たった一行。それだけで、胸の奥が少し温かくなった。次のページに、彼女はこう書いた。

「全部が私のせいじゃない」

 書いた後、彼女は紙を破り、ゴミ箱にそっと捨てた。まるで、心の棘を一つ、手放すように。


 夢はまだ見る。涼子の声は、時折、闇の中で響く。でも、春奈は気づき始めていた。夢の中の自分は、走り続けている。何度転んでも、立ち上がろうとしている。その姿は、現実の彼女自身だった。病棟の喧騒の中で、患者さんの手を握り、笑顔を返す自分。ミスをしても、どんなに叱責されても、深呼吸して次に進む自分。あの辛く重い1年目を耐え抜いた自分。


 夜勤明けの病棟を出る前、春奈はロッカーの鏡に映る自分を見た。胸元には看護師という文字が光っている。「大丈夫。私、ちゃんとここにいる」

 小さく呟き、彼女は笑った。外の空は、希望の光を灯していた。夢の残響はまだ消えないけれど、彼女は歩き出す。一歩、また一歩。看護師として、自分自身を癒しながら。

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