心躍る旅行
ずっと遠い未来、今あなたが文章を読んでいるすぐ近くの場所に家が建っている。
一軒家で、家族の構成は丁度あなたと同じ。
あなたの父、あるいはそれに類する男性が苛立たし気に呟いた。
「ちくしょう、車がいつになっても来やしない」
そう。
旅行に行かなくてはいけないのにまだ車がやって来ないのだ。
「どうなっていやがるんだ」
ずっと遠い未来では何よりも『自分の空間』が重視されている。
故に電車やバスといった公共機関という物が存在しない。
未来人たちは皆、自分達の物・空間を何よりも大切にする。
故に外出する際には必ず自分の所有する車でしか移動をしない。
「そんなに苛立つ事でも無いでしょう? どうせ、そんなに急いでいるわけじゃないんだから」
母親が父親をなだめる。
「それを言っては……」
表情を見れば父親が納得していないのは明らかだった。
いや、納得していないのではない。
うまく言葉には出来ないが所謂『それを言ってはおしまい』を妻の口から出たのが気になって仕方ないらしい。
母親は何か察したように笑う。
「確かに、私達が子供の頃は考えられなかったものね」
「ん……まぁ、な」
二人のやり取りを見て、あなたに相当する子供が不思議そうに首を傾げる。
「お父さんもお母さんも何を変な事を話しているの? どうせ、どこにも行かないのに」
我が子の言葉を聞いて二人は顔を見合わせ、同時に言った。
「それを言っちゃあ、おしまいだ」
やがて車が辿り着いたのを機械が知らせた。三人は玄関へと向かった。
「では、行くぞ」
父親はそう言いながら複雑そうな顔をしていた。
母親もまた同じだ。
対して、あなたは普段と同じ顔だった。
玄関の戸を開けると、そこはもう彼らの所有する車の中へと続いていた。
皆が乗り込むと車は自動で動き出す。
彼らの自宅周辺をぐるぐると回る。
何週も、何週も。その日が終わるまで。
車内は退屈しないように窓ガラスを模した画面に様々な映像を流す。
いや、実の所『退屈しないように』ではなくこれが家族の『目的』だった。
遠い未来、人々は自身の空間を何よりも大切にする。
彼らは皆、他人に自身の空間を侵されるのを何よりも嫌う。
故に彼らはこの車に乗って自身の空間である庭をぐるぐる回って『旅行』をするのだ。
「私たちが子供の頃には考えられなかったわね」
「ああ」
母親が後で窓ガラスに映る外の風景を『窓ガラスに映る外の風景を装っている画面』を楽し気に見つめている。
「あの子の子供たちの世代には『旅行』と言ったら、もうこっちの方が浸透しているのかしらね?」
父親はすぐには答えなかった。
幼い頃、自身の両親と旅行に行った頃を思い出していたからだ。
やがて、父親は答えた。
「そうなるかもな」
画面の映像は白々しく彼らの自宅を遠くへと追いやっていた。