所有物
僕は床に座り込んだまま、呆然と母上を見つめる。
すると、母上はチェストの上に置かれた一体のビスクドールを抱き上げた。
「やっぱり、この子のほうが可愛いわ。ほら、肌だって真っ白で滑らかで傷一つないでしょう?」
「ええ。お美しいです」
「ふふふっ。ダリルはわかっているわね」
「その可愛いらしい方と一緒に夜の散歩はいかがですか?」
「まあ! それは素敵ね。素敵だわ」
ダリルは騎士たちに目配せをすると、僕の身体は解放される。
そして母上はビスクドールを抱いたまま、こちらを振り返ることなく、騎士たちに連れられて部屋を出て行ってしまった。
残されたのは、僕とダリルの二人だけで……。
「サミュエル、大丈夫かい?」
そう言って、差し伸べられたダリルの手を僕は振り払う。
「どうして母上が寝たきりだなんて嘘をついた?」
床に座り込んだまま、僕はダリルを睨みつける。
すると、ダリルは僕と目線の高さを合わせるように、向かい合ったままその場に跪いた。
「嘘だなんて……。サミュエルがいなくなってから叔母様が弱っていったのは本当のことなんだよ? だから、サミュエルの代わりになるものを用意したんだ」
「代わり? もしかして……」
ようやく僕は部屋中に飾られたビスクドールの意味を知る。
「そうしたら、みるみるうちに元気を取り戻して……。まあ、心は壊れてしまったけれどね。ああ、もともと壊れていたから今更かな?」
そう言って、ダリルはクスクスと笑う。
「あと、叔母様を我が家で引き取る話も本当だよ。アルフレッド様の立太子の儀も終わったことだし」
「じゃあ、母上は……」
「うん。このまま宮殿から連れ出す手配になっている。もちろん、このことは陛下もご存知だ」
今夜の王城は馬車の出入りが多い。
それに紛れて母上を乗せた馬車がレディング侯爵領へ向かうそうだ。
「だったら、どうして僕の傷跡を母上に……。こんなものが別れの挨拶だなんて、あまりにも酷すぎる!」
そう口にした途端、醜いと罵倒する母上の声が蘇り、僕はぐっと奥歯を噛み締める。
「ふふっ。そんなにこの傷を隠したかったの? ジェイミー・オールディスを守った勲章なのに?」
「え? なぜ、そのことを……?」
ダリルは僕の傷跡だけでなく、傷を負った正確な状況までも把握していた。
「辺境伯領にお邪魔した時に色々聞いて回ったんだ」
「でも、この傷跡のことは口止めを……!」
「うん。誰もサミュエルの傷跡のことを自分から話したりはしなかったよ。代わりにクライドの活躍ばかりが耳に入ってきてね……」
ダリルが騎士団の詰め所を訪れた際、クライドが翼竜を魔法で殲滅した話が出ていたらしい。
その時、ジェイミーを庇って翼竜に襲われた僕の話をうっかり口にした者がいたそうだ。
「妙に左肩ばかり気にしているから、おかしいとは思っていたんだよ。それにしても……ああ、可哀想なサミュエル。叔母様は傷物になった君よりもお人形を選んでしまったね?」
そう言って、ダリルは愉快そうに笑う。
(これは……誰だ?)
僕の知っているダリルは、いつも僕の側にいて、僕の話を優しく聞いて、穏やかに笑って……。
けれど、目の前の彼は、傷つく僕を見ながら楽しそうに笑っている。
そんな現実に、記憶の中のダリルが滲んで輪郭がぼやけていく。
「ダリル兄様は何がしたかったの?」
そんな言葉とともに涙がこぼれ落ちた。
ずっと僕の味方だと思っていたダリルに、こんなにも嫌われていたなんて。
「私はね、叔母様から君を奪いたかったんだ」
「え?」
予想もしなかった返答に、僕は目を見開く。
「出会った頃から、サミュエルは叔母様の所有物だった。叔母様の言葉に従い、叔母様の望む通りに振る舞う。だから、見ているだけで我慢していたのに……」
しかし、ダリルが留学先から帰国すると状況が一変する。
僕は王位継承権を剥奪され、母上の元を離れていたからだ。
「好機だと思った。それなのに、君があんな辺境の地に残りたいだなんて我儘を言うものだから……」
そう言って、ダリルは溜息を吐く。
「サミュエルにあの場所は似合わないよ。これからは王都で私と一緒に暮らそう」
「何を、勝手なことを……」
「叔母様はサミュエルを捨てたんだ。だから、私がサミュエルを貰ってあげる。安心して私の所有物になればいい」
そして、ダリルは僕の頬に手を添えた。
「ああ、やっと僕の所有物だ」
ダリルの瞳の奥にドロリとした執着が垣間見え、僕の身体が小刻みに震える。
それでも、こんな馬鹿げたことを認めるわけにはいかないと、ぐっと腹に力を込めて口を開いた。
「僕はダリル兄様の所有物にはなれない。僕はアイザックと……」
「黙って」
途端に、耳元でバチッと音が聞こえ、身体中に痺れるような痛みが走る。
「ぐっ……!」
僕の頬に触れていた指先、そこから放たれたものだと気づくも、その場に崩れ落ちてしまう。
(魔法……か……?)
痛みは一瞬だったが、全身に痺れが残り、舌すらもうまく動かせない。
「あの男はダメだよ。サミュエルに騎士の訓練を受けさせるだなんてあり得ない。あの男のせいでサミュエルの身体は日に焼けて……ほら、腕の太さだって左右で違ってしまっているじゃないか」
そう言いながら、ダリルの指がゆっくりと僕の左腕をなぞっていくのが見える。
痺れによって感覚はないはずなのに、ぞわぞわとした気持ち悪さが込み上げた。
「それに、訓練の成果だって何も得られていない。今だって、こんな軽い魔法一つで床に転がっているのがいい証拠だよ」
「…………」
僕が喋れないのをいいことに、ダリルは饒舌に語り続ける。
そして、床に倒れ込む僕の上半身を持ち上げ、抱きしめた。
「ちゃんと私がサミュエルを管理して、元の美しい身体に戻してあげる。背中の傷跡は残念だったけれど……おかげで叔母様がサミュエルを手放してくれたんだ。我慢するよ」
「ダぃう……はあせ……」
痺れる舌を必死に動かし、抵抗の意思を示す。
「ふふっ。舌っ足らずで可愛いなぁ。私たちの家に着く頃には痺れは取れているはずだから、もう少し我慢してね」
「ひえ?」
「そう。私たちが暮らす家だよ。もちろん陛下も了承してくれている」
その言葉に全身の血の気が引いていく。
(どうして……?)
僕はここへアイザックとの婚約を認めてもらいに来たはずなのに……。
まさか、すでに僕の相手が父によって決められ、それがダリルだなんて思いもしなかった。
(アイザック……アイザック……)
僕の瞳から涙が溢れてくる。
「ああ、サミュエル……泣かないで」
まるで幼子をあやすようなダリルの声。
しかし、その瞳には欲望の色が宿る。
僕の顎を軽く持ち上げ、動けないままの僕にダリルが覆い被さろうとした……その時。
──扉を激しく叩く音が部屋中に響く。
身体をビクリと震わせたダリルが顔を上げると、扉を叩く音が止み……そして爆発音が響き渡った。