夜の花屋
美月は25歳のOLだった。広告代理店で働く彼女は、日々の激務と締め切りに追われ、仕事が思うように進まない焦燥感に苛まれていた。疲れが溜まる一方で、夜は不眠症に悩まされ、ベッドの中で目を閉じても眠りに落ちることはほとんどなかった。鏡に映る自分の顔は、日に日にやつれていくようだった。
ある夜、残業を終えて重い足取りで帰路についていると、街角に小さな花屋が目に入った。看板には「夜咲花店」とあり、時計はすでに午前0時を回っていた。不思議に思いつつも、美月はその扉をそっと開けた。店内は仄暗く、色とりどりの花々が静かに咲き誇っていた。カウンターには、穏やかな笑みを浮かべた男性が立っていた。年齢は30代半ばだろうか。柔らかな声で「いらっしゃい」と迎えられ、美月は少し緊張が解けた。
「何かお探しですか?」と彼が尋ねると、美月は少し考えてから言った。「明日からも頑張りたいから、自分へのご褒美に一輪だけ」。彼女が選んだのは、淡い紫色の小さな花だった。一輪だけにもかかわらず、店長は丁寧にラッピングを施し、その間「疲れてるみたいだね」「無理しないでね」と優しく声をかけてくれた。どうやらこの店は彼が一人で切り盛りしており、「大きな夢のため」に続けているのだと語った。美月はその温かさに癒され、帰路についた。
その夜、美月は花を枕元に置いて眠った。不思議とすぐに眠りに落ち、久しぶりに深い休息を得られた気がした。しかし、花が枯れると再び眠れなくなった。彼女は再び「夜咲花店」を訪れ、新しい花を買った。それからというもの、花が枯れるたびに店に通うようになり、店長との会話も増えていった。彼の名前は怜と知った。怜はいつもいい匂いがし、彼と話していると不思議と眠気が訪れる。美月にとって、それは救いだった。
ある日、店内で花を選んでいると、怜がそっと近づいてきて言った。「君は花のように美しいよ。こんな花たちが咲き続ける場所に、君もいてくれたら完璧だね」。美月は照れ笑いを浮かべつつも、その甘い言葉に心が温かくなった。
怜は続けて、「特別な新種の花を見てほしい」と自宅に招いてくれた。美月は期待と少しの緊張を抱えて訪ねると、彼の家は花の香りに満ちていた。二人で花を眺めながら話をしているうちに、美月は眠気に抗えずその場で眠ってしまった。目覚めた時、怜はそばで優しく微笑んでいた。「よく眠れたね」。その言葉に美月は頷き、心が軽くなるのを感じた。
それ以来、美月は怜に会うたびに深い眠りに落ちるようになった。初めは朝スッキリと目覚められたが、次第に眠りから覚める時間は遅くなり、覚醒している時間は短くなっていった。仕事に行く気力は徐々に失われ、欠勤が増えても、怜は「気にしなくていいよ」「僕のそばで休んで」と優しく彼女を抱き寄せた。美月はその言葉に流されるまま、安らぎの眠りに身を委ねる時間が増えていった。
ある日、目を覚ました美月は、いつもそばにいるはずの怜がいないことに気づいた。不安に駆られ、寝室を出て彼を探した。隣の部屋の扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。部屋一面に、眠ったままの人間が整然と並んでいる。皆、穏やかな表情で、まるで生きているようだったが、動く気配はなかった。美月はふと目線を落とし、彼らの足元に小さな花が添えられていることに気づいた。プリザーブドフラワーのように、乾燥して保存された花。そして、その香りは怜の匂いと同じだった。
背筋が凍りついた。怜が彼女に与えていた「安らぎ」は、花の香りで人を眠らせ、永遠に保存する術だったのではないか。美月は震える足で部屋を後にし、二度と「夜咲花店」に近づかなかった。
だが、その後も夜になると、あの花の香りが夢に忍び込み、彼女を深い眠りに誘うのだった。