愚者とアルベール
★★★
背中越しに、レナも両者が対峙したことを理解した。自分の命を顧みず女を救う。女性なら誰もが憧れる瞬間にして、男の最後の見せ場。
レナの中で変わりつつあった何かが、形にして現れた。頬に雨がかすれ、少女が抱くであろう切なく複雑な想い。
これまで切り捨てた何千人の前で流すことのなかった甘い雨に、生きて!と心から願う――が「うおおおおぉぉぉぉッ!」っと、どこか聞き覚えのある情けない声が迫り横へとつく。
「おお!いいところにいたレナ!私は彼女と逃げる!君は囮だ!さあ、私たちの明るい未来はすぐそこまで来ている!」
と言い残し、森で始めて出会った巨乳エルフを抱えアルベールの腕で眠り続けるエルフを誘拐すると、レナを見捨てて一目散に逃げ出した。
レナは忘れていた。目の前で話していた男は、アルベールではなく愚者だったと。そう、愚者の男は命をかけたことは一度もない。
いつだって命をかけたのは、アルベールのときだけだった。
「ああ……そう。そうなの?……いいわ。……わかった」
レナの表情が怒気に染まる。未だかつてない怒り、久しく湧いた乙女心を踏み躙られた気分だった。
何も告白されたわけでもなければ、恋人らしく唇を奪われたわけでもない。それでも、先程の包容に打って変わって物語の姫でも掻っ攫うかのような大胆さ。それを目の前で行う節操のなさに腹が立つ。
「な、なんだ?殺気を感じるような」
愚者は背中で感じた脅威を確認するため振り返ると、エルフなんかよりずっと恐れるべき鬼がいた。
「アルベールぅぅぅぅぅ!!」
「ひっ!?や、やばい!間違いなく死ぬ!今までで一番ヤバイ!ほんとにヤバイ!誰でもいいからッ!いやあああああぁぁぁッ!」
★★★
一一森から少し離れた海辺
死を予感した。アルベールとの旅に路の中でも間違いなく一番の死線であり、王都を目指したあの頃に戻ったがごとく死ぬ気で逃げた。
あれからどうなったかなど知らない。自分がどこを目指して逃げたのかもわからない。ただ、生きたいと願った。
そして恋する女の愚かな願いがどこまでも恐ろしい憤怒の炎を燃え盛らせた。これが恋?それとも、英雄を誕生させると嘯いた男が恋愛なんぞに現を抜かすその姿に頭にきただけなのだろうか。――――――
「っ…………。」
潮の香がした。目を覚ましたレナがはじめに感じた五感は嗅覚であった。その後視角が光を捉え、レナは思わず太陽を遮る。
身体をゆっくりと起こすと、先ほどより大量の情報が様々な形でレナの中に入り込んできた。その数多ある情報からレナの意識に最も引っ掛かったのが波の音に交じる雑音であった。
「ぅ…ここは?」
まだ醒めやらぬ意識の中レナが周囲を見渡すと、レナがいるここは小さなテントのようであった。それもちょうど人一人生活できる程度の。
レナは身体をさらに起こし、先ほどから一定間隔で聞こえる音の正体を探るべく立ち上がろうとするが疲労が体の自由を許さず立ち上がる事ができなかった。
レナは「はあ」と自分の不甲斐なさに呆れ、頭痛がした。しかし、嘆きは何も生み出さない事を王都での生活を通して理解しているレナはすぐさま状況整理へと移る。
(私たちは確かエルフの森にいたはず。それから……私たちは森から逃げだして………。)思考を巡らすレナの記憶がここで断絶されていた。
自分の足でここまでたどり着いたのか。それともアルベールがここまで運んだのかさえわからない。そもそも、ここはどこなのだろうか?
テントの中ということは恐らくはここは人外であることは間違いない。なら、ここはアルベールが簡易的な寝床として急遽作られたものなのだろうか?いや、それない。
それにしては明らかに人が長い間生活していたであろう痕跡がある。なら、ここは誰のテントなのだろうか?レナは自分が置かれている状況を改めて理解したことで緊張が走った。
そして、孤独な生活を続けてきた彼女がたった一人の男に毒された影響かいつからか不安になるとアルベールを自然と目で追うようになっていた。
しかし生憎とここにはアルベールはいない。その焦燥が彼女を動かしたのだろうか?彼女は再び立ち上がるべく身体に力を入れる。
が、身体に力を入れた瞬間に痛みが走った。それは筋肉痛やら打棒やらが混じりあい何が一番の辛いのかさえわからない激痛。
しかし、彼女は立ち上がった。ゆっくりと、光が漏れ出る出入口へと。そして、彼女がテントを出て目にしたものは海だった。
「ザザー」
今まで感じたことのない未知の香りがゆっくりと波に導かれるように押し寄せ、寂寞としているここらに一体に雑音とともに確かに主張していた。
レナは初めて見る人知を超えた水平線の水の世界に吃驚としたのち、自然の神秘に歓喜した。
「これが世界なのね、アルベール。」
深呼吸をした。今まで最もゆっくりとした深呼吸を。極限状態以外で深呼吸をするのは一体いつぶりだろう。
「もしかして、あなたが私に見せたかったものなのかしら?美しいわね。」
世界を見てほしい。それはアルベールがレナに願ったことであり、そのためだけに散々レナを連れまわしてきた。
その結果、エルフの森にまでついてくるというハプニングが発生してしまったが、レナの今の顔を見ればアルベールは笑って世界の神秘と未来を語ったのだろう。
そんな少し感慨深い気持ちになっていたレナに。
「目が覚めたか?水はこれしかない。大切にしろ」
と声を掛け、レナの足元に水筒を放ってきた。レナはすぐさま声の主を視界に捉えると、そこには少しツリ目で無愛想な男が刀を握り締め外界だとは思えないほどあまりにあっさりとした軽装の男が一人立っていた。
レナは生まれて初めて自分の五感を疑った。そして、今一度自分に問いただすように五感が仕入れたあらゆる情報を精査し思考するここは人外。
人間が住めるはずがないモンスター達の領域。変人や異端児がどれだけ人外を好もうが住むことはおろか国の行き来すら困難な世界。
そんな中、最弱の種族である人間が徒党も組まずにたった一人で人界を離れ生活することなどあるのだろうか?それに加え、モンスターが一体も見当たらないのもいささか不自然ではある。
何度思考を巡らせても尤もらしい回答にたどり着けず、己のみで導出することは不可能だと結論付けた。
ならばどうするか。やるべきことなど既に決まっている。これ以上の情報を欲するのであれば目の前の男に聞くしかない。
が、とてもそんなことを聞ける雰囲気ではなかった。男が醸し出すプレッシャーとでもいうのか威圧するような空気にレナはしり込みしてしまっていた。
「お前の仲間か?お前と一緒に落ちていた男と女は?」
そんなレナを察してなのか、男の方から気を使って話を振ってきた。
おそらく、彼が醸し出す威圧感は意図的に醸し出しているわけではなく、スキを見せないように張り詰めた中で染み付いた特徴のように思える。
そして、質問の該当者を目線で示し事実確認をする
「ええ。助かったわ」
「そうか」
男が再び口を閉ざすと、なんとも言えない気まずい空気が漂う。
レナは比較的この空気には慣れていたが、自分よりも愛想がない男と二人だけの空気は嫌だったらしく適当に会話を続ける。
「あなたは何でここに?」
「国を潰された……」
「それでここに?」
「まあ」
語彙力とコミュニケーション能力を著しく劣っていた二人には、これ以上の会話は不可能だった。
しばらくアルベールといたせいなのか、その軽薄な男に不覚にも恋慕してしまったせいなのかレナにはわからなかったがアルベールの存在を強く欲していることには変わりなかった。
そして、無愛想な男との会話を諦め横たわるアルベールの元へ向かった。
「ねぇ、アルベール。あなたは、一体何がしたいの?」
目覚めないアルベールにしおらしく問う。今まで何度も押し殺してきた問い。彼女自身密かに決めていた決断に、彼の歩みの果にそれを見出すと決めていた。
しかし、アルベールを見ているとなんだか切なくなる。どこか危なっかしいアルベールの生き方は、一歩間違えれば死に直結するものばかり。
なのに彼は笑って乗り超える。その危うさがたまらなく怖い。そんなことを考えていると、必ず一緒に過る言葉があった。
王国で言われた言葉『だから、あなたが支えてあげてね』孤児院にいた女性からの言葉だ。
「私には、あなたは理解できないわ。だから……」
レナはアルベールに膝枕をし、当時逃げた言葉に決着をつける。そして、アルベールが託した願いにここで固く誓った。
『だから、見ていてくれないか?私と、この世界を』その願いに見届けると誓い、反対に彼女から頼まれた言葉を反故にすることを決めた。
「私だけは、あなたを見届けてあげる」
レナがスッと視線を落とすと、アルベールがキス顔で待ち構える。その顔を見ているだけで『さあ、今すぐキスをここに!』とでも言ってきそうだった。レナは隠し持っていたナイフを取り出し、アルベールの顔面に振り下ろす。
「ふおっ!ちょっ!ちょっと!レナさん!あの!今いい雰囲気じゃありませんでしたか!?何でそんなものを持っているんですか!?」
あとほんの数センチというところで受け止め、九死に一生を得る。
「あなた、殺すわ!目を閉じていない。すぐに終わるから」
「さっきと言ってること違うんですけど!見守ってくれるはずじゃ!」