雲を追うタカ
空を飛ぶ者たちにとって、『雲の王』は憧れでもあり、そして怖れでもあった。巨大な雲の塊は、雷鳴とともに風を呼び、空を飛ぶ者たちの翼を裂くと言われている。
エーヴにとっても、『雲の王』は恐ろしい存在であったが、同時に彼ら『雲を追うタカ』は、『雲の王』を崇拝していた。
「わたしたちはみな、あの『雲の王』へと帰っていくんだ。だからこそ、わたしたちは『雲を追うタカ』と呼ばれているんだ。…わたしたちだけではない。翼を持つ者たちはみな、最後には『雲の王』へと還っていくんだ」
エーヴはひな鳥の頃から、母が誇らしげに語るのをずっと聞いて育った。翼が風をとらえて、誰よりも高く、速く飛べるようになると、『雲の王』へたどり着きたいとさえ願うようになった。
さらに翼が強くなった頃、エーヴはみなと同じように恋に落ちた。アモウは、毛並みの美しいタカだった。そして何より、エーヴと同じくらい速く、高く飛ぶことができた。
巣を作り、アモウは卵を産んだ。子育てが終われば、とうとう『雲の王』を探す冒険へと出かける…そんなときに、アモウと卵は全滅した。
卵喰らいの蛇の仕業だったのだろう。アモウと、襲ってきた蛇はお互い傷だらけになってこと切れていた。
「『雲の王』は、空を飛びし勇敢なるものをその雨雲の中へ還すという。…おれの子供たちは、アモウはどうなるというのだ!」
卵喰らいの蛇を全滅させればこの気持ちも収まるのだろうか? 『雲を追うタカ』の血筋を途切れさせぬよう、新たな伴侶をもうければ? エーヴはどちらも拒絶した。
「『雲の王』を見つけ出す。そこにアモウたちがいるのなら、おれは喜んでこの身を雷鳴に捧げよう。…いないのならば、『雲の王』を、この翼で切り裂いてやる!」
エーヴは誰よりも高く、速く飛べた。しかしそれでも、『雲の王』を見つけることは困難を極めた。
あるものは、『雲の王』は、南にある島国に現れるといい、あるものは、『雲の王』を北の山脈で見たと言った。西の草原も、東の荒れ野も、ありとあらゆる場所を探したが、エーヴはついに『雲の王』を見つけることができなかった。
「結局は幻だったということか…。冒険を求めたあの頃に、戻れるのならば戻りたい。おれはもう疲れた。『雲の王』を探し続けた結果が、『雲を追うタカ』の血を途絶えさせることになろうとは…」
誰よりも早く、誰よりも高く飛べた翼は、もはやみすぼらしく、風に押し流されるばかりであった。どこか翼を休められる木の枝を見つけよう。そして、そこで飛ぶのを諦め、みじめに死を待とう…そう思った矢先だった。
「あれは…」
雷鳴をはらんだ巨大な雲が、視界の端に見えた。翼にムチ打ち、風を捕らえて高く舞い上がる。雲のかたまりであった。巨大な渦を巻いた雲のかたまり。雷鳴と雨風を地に打ち付ける、暴虐の王。
「『雲の王』だ!」
エーヴは最も得意とする、風を切り裂く体勢で『雲の王』へと近づいた。しかし、風は重く、まるで海に落ちたかのように翼がいうことを聞かなかった。
「クッ!」
エーヴはくちばしを鳴らし、今度は風をつかむ飛び方に変えた。速く飛べなくなったエーヴが覚えた、恥ずべき飛び方。だがそれで飛ぶと、まるで若い頃のように一気に翼が軽くなった。
――そうか、『雲の王』が見つからなかったのは、このせいか――
謙虚さが足りなかったのかもしれない。いや、それ以上に、エーヴには時間が足りなかったのだろう。『雲の王』と向き合う時間が。…アモウの死と向き合う時間が。
「だが、時間が足りなかったとはいえ、今でもおれは冒険できる!」
風をつかみ、『雲の王』へ近づいたエーヴは、一気に風を引き裂いた。最後の風の膜が破られ、エーヴは『雲の王』の真下へ、雷鳴と風雨で荒れ狂う空へ入り込んだ。
「『雲の王』よ! 偉大なる雲よ! 空の主よ! おれに教えてくれ!」
帰ってきた答えは雷だった。エーヴはすんでのところでそれをよけ、問答を続けた。
「アモウは、おれの子供たちは、お前のもとにいけたのか? 翼を持つ者がたどり着くという、お前のもとに!」
再び雷鳴がとどろく。もはやエーヴには飛ぶ力は残されていなかった。
――ここまでか――
雷鳴がエーヴの身を裂く瞬間、エーヴは確かに見た。アモウの姿を、それに、飛べるはずだった自らの子供たちを。そしてエーヴは悟ったのだった。
――『雲を追うタカ』は、おれたちだけじゃない。すべてのつばさある者たちが、みな風を分けし兄弟なのだ――
地に落下していくエーヴのすがたは、いつの間にか消えていた。そして『雲の王』も、ゆっくりと散って姿を消していった。