第二章 誰かが描いた世界の中で
一九一七年 八月
午後七時四十分
琴浜村 村民集会場
村長含む十数人の役人と村民が集まり、緊急の会合が開かれていた。
琴浜村では未知の疫病が蔓延し、多数の死者が出る惨事となっていた。この会合も、事態を重く見た役人による会合であったが、村民の混乱とヤジや罵声で話し合いどころではなく、収拾がつかない騒ぎとなっていた。
「んがら、いづまで黙ってんのや! 黙ってれば医者来らったが? んがらの身内だって熱上がって家で寝でらったべや! 医者来るまでこのまま、んなどご待だせでおがったなが!」村民の怒号が響き渡る。
「そ、村長……なんとすらったすか……?」村長の左隣に座る役員の一人が、助けを求めるかのように訊く。
「……」
長時間に渡る村民との終わりの見えない質疑応答で、村長は完全に疲弊していた。村長が「このまま静かに事が収まってくれれば」と溜め息混じりに時計に目をやった時だった。
木製の引き戸を開け、初老の男が集会場へ入ってきた。
「兼継さん……?」
「宮司?」
「小田原んとごの宮司がなしてこごさ来らった?」
村唯一の神社である醒願神社の現宮司、小田原兼継が、ざわめきの絶えない村民の前に立った。手には丸筒を手にしている。
「皆さん、どうかお静かに。少々、私の方からお話しをさせて頂いてもよろしいでしょうか」
静まり返る場内。
「今更ながら、大変申し上げにくいことではある。此度の流行病……。私は、初めから『こうなる』と知っていた……。いや、知っていたと言うよりは『定められていた』とでも言うべきでしょうか」
「小田原さん……? どういうごどだ? 言ってる意味が分がらねぇ」
「皆さん、当然ながら世乃様はご存じですね? この村に生きる者、世乃様を知らない者は誰一人としていない。そう、かつてこの村を未曾有の大飢饉からその身を呈して救ってくださった英雄です」
小田原は静かに、力強く語る。口を開く者は誰一人としていない。
「ここに我が醒願神社に代々受け継がれてきた封書がある。これには……世乃様が遺した『予言』が記されております。私はこれが恐ろしかった……。恐ろしくて仕方がなかった。しかし、どうやらこの予言を皆さんに知らせねばならない時が来たようです」
小田原は患者の身体から悪性の臓器を取り除く名医のように、慎重に丸筒の中から一枚の古ぼけた和紙を取り出した。
「要約すると、この予言にはこう書かれている――」
『海神の怒りによるこの村の破滅の危機は三度訪れることだろう。初めは飢饉。次に病。最後に戦火の形となり、この村を滅ぼす。海神への贄を怠ってはならない。海神は極めて強欲である。危機を逃れる方法は、贄を海神に捧げ続けることのみ。十年に一度、この村ではない陸の者の魂を海神へ捧げよ。さすれば海神は鎮まり、村の安寧は約束される』
ざわめく場内。村民は互いに顔色を窺い合い、役員や村長は開いた口が塞がらない。
「ちょ、ちょっと待で。へば村が『こうなる』って決まっでだようなもんだって言いてぇんだが? んなバガげだ話あるってがや。いぐら世乃様だがらって、んなごどあるがって」
一人の村民が小田原に不平を漏らす。額には冷や汗が浮かんでいる。
「バカな話かどうかは、今の村の状態を見て考えなさい」
小田原は諭すように述べる。
「ああ……んだがらオイは仏さんどご海さ流すの止めねぇ方がいいって言ったんだぁ……」
一人の老婆が涙ながらに言った。
「そうですね……世乃様の予言を知りながらも、村民に予言の存在を明かさず、刑法で定められたからという理由で海鎮めを廃れさせてしまったのは私の責任でもある……こんな恐ろしい予言を、私は信じたくなかった」
小田原は沈痛な面持ちで顔を伏せる。
「誰だってこんな予言知ってだどごろで信じれるわげねぇべよ……兼継さんの所為でね。んでもや、なして十年に一度だった……? 『陸の者』って、つまり村の外のヤツどご流せってごどなんだが……? なして『陸の者』だったべ」
村民の前に座る中年の役員が小田原に訊く。
「もしかして……お国がら紙っこ来て、仏さんどご海さ流さねぐなって……今年でちょうど十年なんでねぇが……?」
「あ……」
一人の青年のつぶやきで、村民に困惑が広がる。
「最初に海神様さ魂やったのって、世乃様だやな? 世乃様ってこの村のもんでねぐ、陸の方がら来たったやな……? 海神様、本当は陸のもんどご食いてぇんでねぇが……?」
村長や小田原を含め、集会場で口を開く者は誰一人としていなかった。予言に記された言葉と、一つ一つの事実が村民の中で繋がっていく。
「よって、琴浜存続のため、これより十年に一度、選ばれた村民……『鎮め人』の手によって村外の者を『祀り人』としてお招きし、再び『海鎮め』として海神様へ捧げようと思います。異論は、ありますか?」
小田原が無慈悲にも死刑宣告を下す裁判官のように村民に告げる。
「で、でもや……村外の者どご殺らねばねったべ……? やりたぐねぇヤツも当然出でくらんでねぇが? その『鎮め人』って、なんとして決めらんだ?」
村民の一人が疲れ切った表情で小田原へ訊く。
「私を含め、役員で話し合いを行った後、こちらで選定致します。いかがでしょう」
最早、小田原に迷いなどなかった。淡々と丁寧に事務的な口調で話す。予言を明かさず村を崩壊の危機に陥れた罪悪感と、村を救うという使命感が、小田原を狂気に駆り立てていた。
「そ、そんな……選定って……。「お前ぇ今年、人どご攫ってきて殺せな」って言わいで素直にやるヤツいらんだが? なんぼ村のためだがらつって――」
「やる。オイがやる」
まだ少年の面影を残した精悍な顔つきの青年が立ち上がり、言い放った。
「バ、バガけ……ッ! お前は黙っておっかぁの面倒見でればいった!」
「やらねぇば、おっかぁもおっとぉも死なんだや? 村のんなどご助けられんなら、オイがやる……」
名乗り出た青年は姓を加藤、名を清十郎といった。
一月四日
午後六時五十二分
「お前なぁ、ラベルは上だって何回言わせんだボケッ! 新年早々怒鳴らせんじゃねぇよ!」
居酒屋『華やぎ』二階の大宴会場に課長の怒声が響く。目をやると、いつものことながら同僚の浦木ユイがまた課長に捕まっていた。新年会とは名ばかりの決起集会が始まってまだ十分も経っていない。俺は烏龍茶を啜りながら、何度も頭を下げる哀れな同僚の末路を見守った。
会社の付き合いはもちろんのこと、俺は飲み会自体が嫌いだ。なにがそんなに楽しいのかが分からない。三十にもなって酒の味を知らないからかもしれないが、別に今更知りたいとも思わない。
「ったく……。年明け早々最悪ですよ。あのハゲ。いつか絶対殺してやる」
ようやく解放された浦木が隣に腰を下ろし、タバコに火をつける。タバコを吸わない俺からしたらえらい迷惑な行為だが、こいつにとって『人の気持ちを考える』ということは、動物園のライオンが客に気を遣い、タイミング良くわざと勇ましく吠えてみせることと同じぐらい難しいことなのだろう。
「お前ってホント課長のいいサンドバッグだよな……」
「笑いごとじゃないですよ。パワハラもいいとこですって。訴えたら勝てますよ」
「まぁ落ち着けって。飲め飲め。飲んだら少しは気分も晴れるさ。多分」
飲んだら本当に気分が晴れるものなのかと内心疑問に思いつつも、浦木のジョッキにビールを注ぐ。
「加藤さんってホント健康人間ですよねぇ。あ、スマホ。電話じゃないですか?」
テーブルに置かれた俺のスマホが着信画面を表示している。画面には『小田原』と表示されていた。一気に血の気が引き、全身の毛が逆立った。
「ちょっと……出てくる」
席を外し、店の外に出る。飲み屋街の通りはどこも新年会一色といった様子で、一月の寒気を物ともせず、泥酔した通行人やキャッチの喚き声による喧騒に包まれていた。
「……もしもし。加藤です」
「あぁ、加藤君。新年明けましておめでとう。元気かな?」
「明けましておめでとうございます。えぇ……まぁ、ぼちぼち……」
「そうか。ところで加藤君、今年は――」
「海鎮め……ですよね?」
「……そうだ」
「俺が……俺が、鎮め人ですか?」
スマホを握る手が震える。背中を嫌な汗が伝っていく。
「やってくれるね?」
「……はい」
「この町を、救ってくれ」
その一言を言い終えた後、電話が切れた。
ほんの数十秒の短いやり取りだったが、俺の心をえぐるには十分な内容だった。
いつかはこの日が来ると思っていた。来ないでほしいと何万回思っただろう。このまま何事もない普通の日常を送れるならと、どれだけ思っただろう。
『鎮め人』――琴浜へ町外の者『祀り人』を招き入れ、殺す。そして浜から海へ流す。世乃様が遺した予言により定められた、琴浜町へ伝わる因習——鎮め。
前回の海鎮めから今年でちょうど十年。年内に祀り人を流せなければ、町は海神の怒りにより戦火に見舞われ滅ぶとされている。
俺のひい爺さんが最初の鎮め人だったらしい。琴浜が疫病に見舞われた年、自分から名乗り出て鎮め人の役を買ってでたと聞く。そして琴浜を救った。俺にそんな大それたことが出来るのか? ――俺が人を、この手で殺す? 誰を?
眩暈がする。酷い吐き気が一気にこみ上げる。階段の手すりに掴まり、よろめきながら店の階段を上がる。平凡な日常を謳歌する酔っ払いの笑い声に殺意を覚えながら。
「あ、おかえり――って、加藤さん顔色ヤバいですよ……? 『サイレン2』に出てくる闇人みたいに顔真っ白……大丈夫ですか?」
「あぁ……ちょっと場の雰囲気に酔ったというか……大丈夫だ」
適当なことを言うだけでも、極細の針に糸を通すかのように神経を使う。
「そんなことより……ホラ、アレ見てくださいよ。クソ課長。また経理の安中さんにセクハラしてる……。安中さんも満更でもなさそうな様子だし。大人はきったねぇな」
「お前もいい大人だろ。酒の注ぎ方くらい覚えろ。ホラ」
「ホラって、え? なんスか?」
「ビールだよ。注いでくれ」
「え、えぇッ! 加藤さん、酒飲めるんですか? 今まで一滴たりとも飲んだことなかったじゃないですか!」
「まぁ……たまにはいいだろ」
浦木は躊躇いながらも出されたジョッキにビールを注いだ。ラベルは下だった。注がれたビールを俺は一気に飲み干した。口の中に広がる苦味。生まれて初めて身体に入れたアルコールが、脳と胃の中を暴れ馬のように駆け回る。
「だ、大丈夫ですか? ただでさえ酒飲んだとこ見たことないのに一気飲みなんて……」浦木が目の前で倒れた急病人を見るような視線で俺を見る。
「なぁ……酒飲んでる時にタバコ吸うと酔いが早く回るって聞いたけど、実際はどうなんだ?」
「まぁ……人によりますけど、確かに酔いやすいですね」
「タバコ、一本くれないか?」
「いやホント、マジどうしたんですか? おかしいですよ……急に」
「そういう気分なんだよ。正月だし、ハメ外してもいいだろ。貰うぞ」
俺はテーブルに置かれた浦木のタバコの箱から一本抜き、火をつけて一気に吸い込んだ。なるほど。これなら少しは気分が晴れそうだ。
老人のようにむせる俺を浦木が「あわわあわわ……」と、子ども向けのアニメか漫画に出てくるキャラクターのようなリアクションで見ていた。
そこから帰宅までの記憶が曖昧だ。
新年会で慣れない酒をしこたま飲み、浦木からタバコを何本も貰って吸い、意識が遠のいた。
浦木が俺を介抱し、アパートまで送ってくれたようだった。アパートに着くや否や、玄関先で盛大に嘔吐し、恵茉に心底心配掛けたことは覚えている。
翌日、目が覚めると酷い二日酔いで脱兎の如くトイレへ駆け込んだ。人生で初めて味わう二日酔いだった。
恵茉はそんな俺の姿を見て「飲めもしないお酒飲むからでしょ。タバコまで吸っちゃって。吸い始めるのは勝手だけど、タバコ代、おこずかいから出してよね」と、呆れかえった様子だった。
俺は他人に内心を悟られないよう振る舞い、今まで以上に仕事に打ち込んだ。自分が鎮め人であるという事実から逃げるように。海鎮めという因習そのものから逃げるように。皮肉にも営業成績はめきめきと上がっていき、浦木からは「部隊長」と嫌味ったらしく言われるようになった。
自分を偽った生活を続け、酒とタバコを口にする習慣は完全に抜けなくなっていた。酔っている間だけは投げ出したい事実から逃れられる気がした。
しかし、現実は残酷だった。月に四回、決まって土曜の夜九時に宮司の小田原さんや、町の役員から電話が掛かってきた。
「祀り人は決まったか?」――と。
締め切りに追われる漫画家や連載作家というのは、こんな気分なのだろうか。いや、『原稿』の締め切りと『殺人』の締め切りじゃわけが違う。
俺はベランダから夏の気配が近づく夜空に向かって紫煙を吐き出した。浦木から貰った最初のタバコの味を思い出しながら。
自分の中の異変に気付いたのは七月の上旬頃だった。
恵茉が居間で洗濯物を畳んでいる後ろを通った時、恵茉の首筋に何気なく目を落とすと「絞め殺してみたい」という感情が沸き起こった。白くか細い首筋を見て、異常な殺意を感じた。
恵茉との交際は上手くいっている。そろそろお互いの両親に挨拶に行こうかという話も出ていた。そんな中で感じた殺意。初めは心の奥底で、どこか恵茉に対し嫌気が指したのかもしれないと思ったが、そうではなかった。
得意先の営業に出向いた時も、先方の営業部長の腹を見て刺し殺したくなった。
会社帰り、酒とタバコを買いに立ち寄ったコンビニでも、駐車場でたむろする若者を見て、縁石で頭をかち割ってみたくなった。
毎週土曜に掛かってくる『死の催促』と『町を救う』という重圧に耐えきれず、鬱になったのか。実際、小田原さんや役員からの電話の内容は、月を跨ぐごとに焦りが見え始め、「真矢君が無理なら他を当たる。が――君もよく知っての通り、海鎮めを遂行出来なかった者は町の掟により、祀り人と共に海神へ祀られることになる。……言っている意味は解るね?」――と、俺へ対し余命宣告をするまでになっていた。
『俺が』誰かを殺さなきゃ『俺が』死ぬ。
『誰か』が誰かを殺さなきゃ『みんな』死ぬ。
まるで安っぽいB級映画のような質の悪いストーリー。
誰かが描いた世界の中で、誰かが描いた登場人物を演じている。
俺は日を追うごとに、殺人への衝動が抑えきれなくなっていった。
「前にも言ったよな? あ? なぁ、お前マジ何回言わせんの? 社会人何年目だよ。丁寧にお願いしなきゃ伝わりませんか? いつになったらまともに契約取ってきてくれるんですか? 何卒お願い致します、浦木さんよぉ」
盆休み前日の八月十二日。今日も課長の怒鳴り声が事務所内に響く。また浦木が課長の前に呼び出され、ストレスのはけ口にされていた。課長は丸めた書類を机の角に何度も打ち付け、その様子はさながら、映画撮影の際にキャストに対し罵声を浴びせる鬼監督のようだった。しかし、その表情は監督のような真剣さは微塵もなく、意地の悪い、汚らしい笑みを口元に浮かべている。
浦木は浦木でここ最近、すこぶる調子が悪そうだった。外回り中のはずが、公園のベンチに座り込み、なにをするでもなくただ、ぼーっと空を見上げている姿を何度も見かけたことがある。一緒に一服している間もやたらと溜め息が多い。
俺は気分転換がてら、浦木を飲みに誘った。他人の悩みを聞くことで、少しは自分が背負う非現実的な重圧を軽くすることが出来るかもしれないと思った。それに自分が直面している問題に対し、浦木はいったい、どれほどの悩みを抱いているものなのか、単純に興味があった。
結果、転職しようか本気で悩んでいるとか、自分の人生が云々とか、どうとかいう、俺からしたら心底どうでもいい内容だった。
だが、浦木が飲みの席で不意に口にした言葉が俺の神経をえぐった。
「これは僕が独自でレポートした、土着信仰や因習、怪奇事件をまとめた資料です。所謂『オカルト』ってヤツです」
土着信仰――因習――。
その言葉を聞いた瞬間、俺は強い眩暈を覚えた。動揺を見せまいと、必死に興味のないふりをした。が、俺の中の狂気が、甘い誘惑で旅人を奈落の底へと誘う死神のように囁いた。
「浦木を殺せ」
浦木を――殺す?
でも、確かにこいつなら――、因習に興味を示しているこいつなら、なんの疑いも持たず、琴浜へ来るかもしれない。
八月。俺に残された『時間』は少ない。
俺は浦木に、琴浜に伝わる伝承の部分のみを聞かせてみた。
結果、こんなに簡単に釣れるもんなのかと呆れるほど、浦木は琴浜の伝承に食いついた。更には自分から琴浜に行ってみたいとさえ言い出した。
もう後戻りはできない。俺は「トイレに行ってくる」と言い、席を立った。
トイレに入るなり、手洗い場で何度も嘔吐した。
浦木を殺す浦木を殺す浦木を殺す浦木を殺す浦木を殺す浦木を殺す。
俺は明日、浦木を殺す――。浦木を殺して、町を救う。町のみんなを、地元琴浜で暮らす家族を。海鎮めの、鎮め人として。
「もしもし。こんな時間にすみません。明日、祀り人をお招きします。海鎮めの準備を、よろしくお願いします」
酔いとプレッシャーから込み上げてくる絶え間ない吐き気と戦いながら、店を出た。浦木は終始、明日の琴浜遠征が待ちきれない様子だった。浦木を見送った後、タクシーを拾い乗り込んだ。運転手の素っ気ない態度にすら殺意を覚えた。街を歩く通行人が酷く曖昧な存在に感じられる。街頭や車のヘッドライトに照らされ、光の中を歩く人々。
こんな俺は、光の中を歩けているのだろうか。
アパートに着くと恵茉はまだ起きていた。録画したドラマを見ながら晩酌をしている最中だった。恵茉は酒に強く、酔っている姿を一度も見たことがない。
「ちょっと真矢、飲みすぎじゃない? 『アバター』みたいに顔真っ青だよ。大丈夫……?」
似たようなセリフを新年会の時、浦木に言われた気がする。思わず笑ってしまった。
「笑ってないでシャワー浴びてきな。お酒弱いんだから無理しちゃダメだよ。急性アルコール中毒って恐いんだから。死んじゃう人だっているんだよ」
死んじゃう人。俺はどちらかというと『死なせる人』なんだが。そんなことを漠然と考えながらシャワーを浴び、床に就いた。
目を閉じると浦木との思い出がロードムービーのように次々と浮かんだ。
入社面接の際、緊張のあまり名前を呼ばれた瞬間トイレへ駆け込み、嘔吐した浦木。
一緒に営業へ行き、先方へ名刺を渡す際、間違えて『遊戯王カード』を渡してしまった浦木。
初めて二人で遊んだ時、浦木の服装が壊滅的に恥ずかしく、無理やりユニクロで服を買わせ、その場で着替えさせたこともあった。
初めて俺のアパートに遊びに来た時は恵茉を見るなり、嫉妬で帰ろうとした。その後、俺が作った晩メシを食い、涙目で旨いと言い、しまいには俺と結婚するんだと喚いていた。
浦木との無数の思い出が、浮かんでは消えていき、俺はほとんど眠ることができなかった。
八月十三日、海鎮め当日の朝。
窓を開け、セミの鳴き声を聞いただけで気が滅入ってしまい、吐き気がこみ上げる。
食欲がない。あるわけがない。これから人を――それも自分を慕ってくれている同僚をこの手で殺すのだから。
「実家帰ったらちゃんとご両親に私のこと話してよね? 来年のお盆は一緒に真矢の実家に行こう」
なにも知らない恵茉が微笑む。浦木が琴浜に来ると言わなかったら、俺は恵茉を殺していたかもしれない。恵茉を自分の狂気から守れただけでも少しは救われた気がした。そう自分に言い聞かせ、これから行われる殺人を正当化しようとしている。
案の定、約束の時間に遅れて到着した浦木を乗せ、死のドライブが始まった。車内ではこれから殺す人間と殺される人間同士の会話とは思えない、他愛ない会話が続いた。昨日、浦木を殺すと決めた瞬間から薄々感じてはいたが、普段通りの日常を装う、自分の道化っぷりに我ながら感服する。俗にいうサイコパスとは、本来、俺のような人間を指す言葉なのだろう。
途中、昼休憩で寄ったサービスエリアでも俺はまともにメシが食えなかった。サラダを一口食っただけで吐きそうになった。一方で浦木は琴浜へのドライブを心底楽しんでいる様子だった。そんな浦木を見て、せめてこいつの最後となる今日この一日は、こいつに満足してもらいたいと思った。俺がこいつにしてやれるのはそれくらいだ。
海鎮めが行われる場所――つまり、俺が浦木を殺す場所を定めておく必要があった。海鎮めは基本、祀り人が寝静まったところを御神刀で刺殺する取り決めとなっている。俺は漠然と実家の座敷を想像していた。が、予想外なことに浦木は民宿へ泊まりたいと言い出した。どこかで連絡を取らなくてはならない。そう思いながらも、気付けば既に琴浜へ着こうとしていた。こんな要領の悪い鎮め人が過去にいただろうか。
二十年前、俺が十歳の頃に行われた海鎮めでは、公民館の管理人である島崎さんが鎮め人を務めた。十年前、前回の海鎮めでは民宿の山田さんが。人生で二回海鎮めを見てきたが、どちらの海鎮めも厳格に執り行われ、町を救う神聖なものだと感じた。
そんな二人と比べ俺は、鎮め人として任命されてから半年以上もその任を放置してしまった。逃れられない定めと解っていながら。
こんな俺が本当に町を救うことが出来るのか。麓に見下ろせる地元の長閑な町並みを眺めながら俺は深い溜め息をついた。
民宿に着くと、山田さんは快く俺達を迎え入れてくれた。町中には既に今日の話は通っているはずだ。海鎮めが行われる場所の報告がまだ来ていないことも山田さんは知っているはず――にも拘わらず、普段となにも変わらない山田さんの対応を見て背中に冷たいものを感じた。
山田さんは浦木へ二階の部屋を勧めた。襖を開けると六畳間の和室だった。ここが今日、血に染まる。俺は浦木の胸を御神刀で刺し殺す自分の姿を想像した。
浦木の荷物を置いた後、俺達は町の公民館へ足を運んだ。浦木は海鎮めに関する資料を見たいと熱望していた。俺は海鎮めに関する資料のようなものを見たことがなかったが、公民館になら町の歴史に関するなんらかの本くらいは置いてあるだろうと思い、浦木を案内した。
公民館の管理人である島崎さんも、祀り人である浦木を見ても普段通りの姿勢を崩さなかった。海鎮めの度にぞっと思うことは、町に招かれた祀り人に対する町民の反応だった。誰もがなにも変わらない日常を演じることが出来ている。祀り人を見て感極まるのは認知症を患った爺さん婆さんくらいだ。
浦木は図書室に籠り、資料を漁り始めた。俺は一階へ降り、島崎さんに改めて挨拶することにした。事務所のドアをノックし中へ入ると、島崎さんが茶を飲みながら新聞を読んでいた。
「失礼します」
「おぉ、真矢君。座って座って。で、あの子が祀り人の?」
島崎さんが俺に茶を出しながら訊く。
「えぇ。会社の同僚です。決心がついたのも昨日の夜で……なにもかも急で本当にすみません……」
「まぁそう気を落とさないで。鎮め人のプレッシャーは私もよく分かっているよ。懐かしいなぁ。あれからもう二十年か……」
島崎さんが茶を啜りながら感慨深げに言う。若い頃、関東に長く住んでいたらしく、島崎さんの言葉には東北訛りがほとんど見られない。
「海鎮めの場所、山ちゃんとこの民宿だって? 今さっき山ちゃんから電話があったよ」
島崎さんと山田さんは幼馴染だと聞く。そして、二人とも鎮め人を経験している――。
「本当であれば事前に場所の報告をしたかったのですが、報告する間もなく町に着いてしまって……」
「昨日祀り人が決まったなら、そりゃあ仕方ないさ。大丈夫。今頃山ちゃんが町中に連絡してくれてることだろう。なにも心配せず、真矢君は海鎮めに集中するといい」
毎度のことながら、この町のネットワークには感心せずにはいられない。情報が行き渡るスピードが尋常ではない。
「小田原さんにはもう顔を出したのかい?」
「いえ、今さっき着いたところで。もしあいつが他にどっか行きたいと言うならついでに行こうと思います」
「そういえば彼、琴浜に関する資料を調べるとか言ってたね。この町に興味があってのことなのかい?」
この町というより、この町の因習に――とは、口が裂けても言えなかった。伝承の部分のみとはいえ、俺は海鎮めの一部分を外部の人間に漏らしてしまった。それも祀り人となる本人に――。
「なんか田舎町に関する資料を調べるのが好きみたいで。変わったヤツなんですよ。俺の地元もけっこうな田舎だぞって話したら興味をもって――それで」
俺は茶を啜りながら適当なことを言って誤魔化す。自分でも苦しい言い訳だと思った。
「なるほど。都会の人が田舎に憧れるって話はよく聞くからねぇ」
「じゃあ、俺はそろそろ……」
「あぁ。頑張るんだよ。この町の命運が、真矢君にかかっている」
「はい……。では、失礼します」
事務所を出ると浦木の姿はまだなかった。まだ資料を読み漁っているのだろうか。暇になった俺は将棋を指している爺さんら相手に時間を潰すことにした。少しは緊張が和らぐことを期待して――。
「俺も一局いいスか?」
「おやおや。鎮め人様が海鎮めの日に将棋かい? まだ余裕なもんだごどや」
「余裕じゃねっスよ。緊張でずっと吐きそうだ」
「最初の鎮め人のひ孫が務める海鎮めさ立ち会えるなんてなぁ……生ぎででいがったなぁ。見に行ぐがら頑張れど」
爺さんらに散々鼓舞されながら、俺は将棋を指した。将棋盤の上では、相手に止めを刺すなんてことは至極容易なことだった。
時計が午後五時を指す頃、浦木が消沈しきった面持ちで一階に降りてきた。期待していたほどの収穫はなかったと見える。
いくら町ぐるみで因習を行っていたとしても、公共に出回る資料にそんな記述があるわけがない。恐らく海鎮めの「う」の字すら記載されていないだろう。海鎮めがどれほどの規模で隠蔽されているのか興味を持ったことがあったが、結局分からずじまいだった。町民の中には市の役員や警察関係者もいる。余程大きい圧力が上から掛かっていないと、到底隠蔽出来る話ではない。
海鎮めの根底には、俺の知らない部分がまだ多く存在する。が、それもどうでもいい。俺は鎮め人だ。与えられた鎮め人としての任を全うするまでだ。
「ちょっと一局、僕と指しますか」
唐突に浦木が俺に将棋を挑んできた。どうせ大した時間はかからないだろう。十分くらいなら遊んでやっても支障はないと思い、俺は浦木と将棋を指すことにした。爺さんらからしたら、さぞ不思議な光景だろう。鎮め人と祀り人が将棋を指している。
一時間三十分後、俺は浦木に敗北した。しかも俺は浦木に煽られた挙句、飛車角落ちでの敗北だった。対局開始五分で浦木は異常な強さを見せた。完全に数手先まで読んでいた。将棋には絶対の自信があった。高校の頃、真剣に奨励会を目指そうか考えたこともあった。県の将棋大会でも大人相手に難なく優勝を飾った。そんな俺が――浦木に。
公民館の一階ホールには俺達の対局を見ようと、大勢のギャラリーが出来ていた。鎮め人と祀り人が将棋を指しているなんて聞いたら、この町の人間なら誰しもが興味を持つだろう。加えて、海鎮めの前に祀り人を一目拝めるというなら尚更だ。
そんな大勢の町民に囲まれた中で、浦木がなんの悪気もなく言った。
「加藤さんから訊いたんです。過去にこの町で行われていた因習というか。世乃っていう旅の僧侶とか。それらを調べに来たんです」
場の空気が凍り付いた。その場にいた全員が浦木を見ている。祀り人自ら海鎮めを調べるために琴浜に来た? 自分が殺されることを知っていてこの町に来たのか? 俺が外部の人間に琴浜のことを漏らしているのか? きっと様々な憶測が飛び交ったことだろう。
俺は即刻、浦木を公民館から連れ出し、適当な文言を並べ一括した。さっきの浦木の発言で町民に混乱が生じ兼ねない。下手をしたら浦木よりも先に俺が町民の手によって殺される可能性だってある。一刻も早く海鎮めを取り仕切る者――宮司の小田原さんとコンタクトを取る必要があった。
俺は浦木に醒願神社に行く提案をした。案の定、浦木はすぐに承諾した。既に時刻は午後七時近くを回っている。俺は浦木に悟られないよう、周囲を警戒しながら歩いた。
神社に着くと、ちょうど小田原さんが買い物から帰宅したところだった。挨拶もそこそこに、浦木が琴浜の伝承を調べたいという旨を話し終えると、小田原さんは顔色ひとつ変えず、親切に中へと案内した。
小田原さんは浦木の質問に対し、現在も続く海鎮めの本筋には一切触れず、上手く丁寧に答えてくれた。祀り人が海鎮めについて質問を投げかけてくるという極めて奇妙な状況でも、小田原さんは表情一つ崩さず、淡々と受け答えをした。
そして小田原さんは祭壇に祀られている護神刀ナギサヨビに纏わる話を聞かせた。浦木はコレだと言わんばかりに食いつき、写真を撮るため祭壇まで飛んでいった。自分があの刀で数時間後、刺し殺されるとも知らずに。
「面白いご友人ですね」不意に小田原さんが口を開く。
「はい?」
「浦木さんですよ。良いご友人をお持ちだ」
「え? あぁ、はい。まぁ……」突拍子もない小田原さんの言葉に、俺は面を食らった。
「祀り人とするには少し惜しい気もします。ですが、覚悟の上なのですね?」
「……はい」
「経緯はどうであれ、祀り人が伝承の部分とはいえ、海鎮めを知った上でこの町を訪れる日がくるとは……。思ってもみませんでした」
小田原さんが茶を啜りながら言う。とても驚いているようには見えない。
「で、ですが海鎮めの話を聞かせたからあいつは琴浜に興味を持って――」
俺は自分への処罰を恐れ、必死で弁解しようとした。湯呑を持つ手が震える。
「真矢君、もう八月だ。君が今日、琴浜を救ってさえしてくれたら、私はもう何も言うことはないよ。町の者には私から話を通しておこう。天国にいる君のひいお爺さんに立派な姿を見せなさい」
「色々と……本当にご迷惑をお掛けします」
浦木が写真を撮り終え、満足した様子で戻ってきた。小田原さんに礼を言い、神社を出る頃には、すっかり夜になっていた。これから人殺しが行われるとは到底思えないほどの、美しい星空が頭上に広がっている。
民宿に戻ろうと帰り道に差し掛かった矢先、浦木がスマホを神社に置いてきたと言い出した。「先に帰っててください」と別れを告げられた時、俺は無意識に浦木を呼び止めていた。自分でも何故呼び止めたのかが分からなかった。そして何故こんなに泣きたいのかも――。
俺はきっと、こいつを殺したくなんかないんだ。
「浦木、今すぐ町から出ろ」その一言が声に出せず、俺はただ俯いて足元を見ることしか出来なかった。
だが、殺さずにはいられない自分もいる。神社でナギサヨビを見た際、言いようのない興奮を覚え、動悸が高鳴るのを感じた。
神社へ戻っていく浦木の背中を見送りながら、身体の内側から少しずつ蝕まれ、壊れていくような感覚を覚えた。
人として殺したくはない自分と、鎮め人として殺してしまいたい自分。ごちゃごちゃになった精神が、じわじわと俺を狂わせていく――。
民宿に戻ると山田さんが玄関先をほうきで掃いていた。
「おや、おかえりぃ。あれ? 真ちゃんだげだが?」
「長い時間、車停めたままにしてしまいすみません。あいつ、なんか忘れ物したとかで……先に帰ってきました」
「んだぁ。いや、まさがうちが海鎮めの場所になるなんてねぇ。前もって教えでけでればもっとキレイにしたったのに……。どでしたやホントに」
「色々とご迷惑お掛けします。よろしくお願いします」
「うちのごどはいいがら、まずしっかりやれな!」
「あの……山田さん、なんというか――、山田さんが鎮め人を務めた時ってどんな感じでしたか?」
「えぇ? どんな感じって言われでもなぁ……。まぁ、私の時は楽だったよ。なんせうちは民宿だし、一人旅の旅行客どご祀り人さ選んだがらなぁ」
「人を殺す時……いくら自分が鎮め人だからといっても、恐怖心とか罪悪感って……やっぱり、感じるものなんですか?」
「え? あぁー……そいは今に分がる」
山田さんはタオルで顔を拭いながら笑って言った。
「今に分かる」――。どういうことだろう。
山田さんに礼を言い、民宿の玄関脇に停めていた車に乗り込み、エンジンを掛ける。時刻は午後九時を回っていた。海鎮めの前に実家に顔を出しておきたかった。民宿から車で十分もかからない。俺はアクセルを踏み込んだ。
実家に着くと、庭先で狂ったように尻尾を振り回しながら、飼い犬のミロが出迎えた。十歳を超える柴犬のミロだが、まだまだ元気そうな様子だった。衰えるどころか、去年帰省した時よりも更に太っている。首回りの肉がライオンのたて髪のようだった。軽く撫でただけで手がよだれと鼻水でびっしょり濡れた。
「ただい――」
引き戸を開け、靴を脱ごうとした瞬間、頬に激痛が走った。玄関先に立っていた母さんにはたかれたと気付くのに数秒かかった。
「この、ばがけぇッ! どんだげ心配したど思ってらった? もう少しでおめぇも死ぬどごだったんだや?」
母さんが泣きながら言う。親の泣き顔ほど、見たくないものはない。
「心配かげで悪がったな……。遅ぐなって悪ぃ」
戸の開いた居間に目をやると、父さんが新聞紙を敷き、足の爪を切っていた。手が震え、敷いた新聞紙にぽたぽたと涙が落ちている。俺は気まずさを押し殺し、靴を脱いで座敷に向かった。
座敷の襖を開けると、線香の匂いが鼻をつき、灯篭が灯っていた。爺さんが仏壇に手を合わせている。海鎮めのことで頭がいっぱいになり、盆だということをすっかり忘れていた。爺さんの隣に正座をし、りんを鳴らす。
「ごしゃがいだべ」爺さんが俺を見てニヤリと笑う。
「そりゃんだべよ……。オイが八月までほったらがしたったのが悪ぃんだ。父さんも母さんも泣いでだっけ。泣いでねぇのおめぇどミロだげだ」
地元を離れ、営業職に就いて数年経った今でも、実家の中だけは自然と訛りが出る。
「まず祀り人決まっていがったね。しっかりやれな。オイのおっとぉの血引いでるおめぇだば大丈夫だ。なんも問題ね」
爺さんの父さん、つまり俺の曽祖父、清十郎爺さん。齢二十歳にして、初代鎮め人。座敷の壁にかけられた先祖代々の顔ぶれの中、日に焼けて黄ばんだ写真の中で、鋭く射貫くような視線を俺に投げかけている。
仏壇に手を合わせ立ち上がると、爺さんが俺を呼び止めた。
「待で。いいもんやるがら、持っていげ」
そう言うと爺さんは、部屋の隅の古い箪笥の上段から何かを取り出した。
「お守り?」
「んだ。オイもオイのおっとぉも、海鎮めの時こいどご持っていったった」
深緑の古ぼけたお守りをポケットに入れ、玄関へと向かった。玄関先で父さんと母さんが俺を待っていた。
「おっとぉど見に行ぐがら、頑張ってこいな。全部終わらせで家でゆっくりしてげ。」母さんが目元を拭いながら言う。
「そうするわ。あー、あど来年はおなんこどご連れでくっから」
「は? おめぇ彼女いらったが? はいった、ちょっと」
母さんが嬉しそうに父さんの背中を叩く。
「そいだばいるべっしゃよ。三十にもなったらおなんこぐれぇ。誰の息子だど思ってらった」
父さんがぶっきらぼうに言うが、顔がほころび、嬉しさがにじみ出ている。
とても今から息子が人を殺しに行くとは想像がつかないほどの、なんの変哲もない家族の会話。俺も含め、この町の人間は狂っているのかもしれない。そんなことを客観的に考えながら、ミロの首の肉を軽くつまんでから車に乗り込んだ。ミロは少し迷惑そうな顔で俺を一瞥した後、鼻をフスフスと鳴らしながら犬小屋へと入っていった。
鎮め人は海鎮めを行う前に、清めの儀式を役場前の広場で受けることとなっている。もう町民が大勢集まっている頃だ。俺は役場に向け車を走らせた。本来なら心地よいはずの夏の夜風が、ただただ不快なものに感じられてならなかった。
役場の駐車場は町民の車でごった返していた。駐車場に停めることを諦め、路肩に車を寄せ、町民のざわめきが聞こえる広場へと向かった。
俺が広場に入ると、さっきまでのざわめきが、映画の予告が終わり上映寸前のシアターのように静まり返った。ひそひそ話をする者、俺に手を合わせる者、中には不審気な視線を投げかける者もいた。町民は皆、白装束に着替え、数珠を持っている。
「おぅおぅ。主役の登場ってか、え?」
大高先輩がニヤニヤしながら嫌味ったらしく絡んできた。
「大高先輩。白装束似合ってますね」
「大体のヤツらは二、三か月で祀り人連れて来んのに、おめぇ八月って。やる気あんのか? しかも聞いた話じゃ祀り人のあいつ、海鎮めのあらまし知ってるってことじゃねぇか。どういうことなのか詳しく聞かせろよ」
「いや、話すと長いんで。説明すんのもめんどくさいし」
「そんな余裕ねぇなら俺が代わってやってもよかったんだぜ? 警察のコネでいくらでも祀り人用意できらぁ」
これ以上相手をしていると、浦木の前にこの人を殺し兼ねない。俺は大高先輩の絡みの相手を止め、広場中央へと足を運んだ。篝火が焚かれたステージが設けられ、神道装束を着た小田原さんが立っていた。
「いよいよだね、真矢君。準備が出来次第始めるから、着替えておいで」
鎮め人と付き人の役人が着る青い着物を小田原さんから受け取り、役場の更衣室で着替えた。着替えを終え、更衣室を出ようとした時だった。
どっくん――。
急な動悸で眩暈がした。緊張? いや違う。これは――。
どっくん――。
昔、同じような動悸を感じた時がある。あれは確か小学校の頃、上級生にいじめられていた同級生を助けようとした時だった。拳を相手の顔面に叩き込んだ時、鼓動が激しさを増し、眩暈がするほどの興奮を覚えた。
そう、これは闘争心からくる、興奮だ――。
山田さんが言った「今に分かる」とはこのことだったのか。ずっと抑えていた狂気が咆哮をあげる。俺は更衣室のロッカーを思い切り殴った。手の甲に血がにじむ。眼振が治まらず、笑いがこみ上げてくる。ロッカーに何度も頭を打ち付けた後、ようやく少し落ち着くことができた。俺は完全に壊れてしまったのか――。壁にぶつかり、よろめきながら広場へと戻った。
町民が太鼓を叩き、鈴を鳴らす中、ステージに上がると小田原さんが仰々しく礼をし、お神酒が注がれた盃を俺に手渡した。儀式の手順は正直うろ覚えだった。人生で二度、海鎮めに参列したことはあるが、儀式自体は短く、鎮め人がお神酒を飲んで一言二言話して終わりという簡単なものだったような気がする。手順をよく覚えていない俺は、とりあえず手渡されたお神酒を飲んでみた。本当にいい加減な鎮め人だなと改めて思った。
お神酒を飲み干すと、俺と同じ青い着物を着た役人が空になった盃を受け取り、下がっていった。付き人は、海鎮めを最も近い位置で見届ける役目を負った、町の役人が務めるしきたりとなっている。さっきの役人は役場の町民課に勤める藤原さんだ。
次はどうするんだったかと考えていると、小田原さんが盆に一枚の賞状のような厚紙を乗せてきた。
「鎮め人、加藤真矢。その血を証とし、琴浜への忠誠を示せ」
盆の上には、お経のようなとても読めそうにない漢字だらけの厚紙と小刀が置かれていた。血判を押せということなのだろう。俺は小刀で左手の親指を軽く切りつけ、押しつけた。
「これで一通り儀式は終わりだよ。鎮め人として、町のみんなになにか言うことはあるかな?」小田原さんが優しい口調で訊く。
広場を見渡すと集まった町民が、一言も聞き逃すまいというような様子で俺を見ている。本来、人前に立つことすら苦手だが、なにも言わずステージを降りられる雰囲気でもなかった。俺は軽く咳払いをしてから話し始めた。
「まず、これまでにないほど海鎮めを遅れさせてしまい、町民の皆さんに不安な思いをさせたことを本当に申し訳ないと思っています。
祀り人が決まったのも昨日の夜でした。それも流れから海鎮めの発端となった伝承を話し、興味を持った者を祀り人に選びました。一部分とはいえ、海鎮めを口外した俺が鎮め人を全うすることをよしとしない人も当然いるでしょう……。
ですが、これだけは誓って言えます。俺は鎮め人として、今日、予言された厄災から琴浜を救います」
やらかした議員の謝罪会見みたいだなと思った矢先、破れるほどの歓声が広場を包んだ。ステージ最前列では父さんと母さんが涙目で拍手をしているのが見える。その横でミロを連れた爺さんが満足そうに微笑んでいた。ミロは興味がなさそうに遠くを見ている。
いいんだ。これでいい。
俺は自分に言い聞かせた。
(本当はなにもよくない)
俺は今、光の中を歩いている。正しい道を歩いている。
(人を殺して正しいわけがない)
浦木を殺すことで、みんなを救ってみせる。
(俺は浦木を殺したくなんかない)
小田原さんから渡された海神を模した面を被り、俺は浦木のいる民宿へと歩きだした。白装束を着た葬列を引き連れて。
そして今、俺は御神刀を手に、民宿の二階を見上げている。
誰かが描いた世界の中で。