第一章 好奇心の先に待つモノ
八月十二日
午後四時五十分
「前にも言ったよな? あ? なぁ、お前さぁマジ何回言わせんの? 社会人何年目だよ。丁寧にお願いしなきゃ伝わりませんか? いつになったらまともに契約取ってきてくれるんですか? 何卒お願い致します、浦木さんよぉ」
事務所内に響き渡る罵声、叱咤、嫌味。説教を軽く通り越した、所謂パワハラに浦木ユイはただただ下を向き「はい……はい……課長の仰る通りでございます……申し訳ございませんでした……」と、謝罪の定型文を並び立てていた。
知らぬ存ぜぬを決め込んだ社員が、淡々と事務処理をするキーボードの音が煽るように浦木にまとわりつく。
あからさまに聞き耳を立て、口元を僅かに緩ませている同僚達に、浦木は殺意が芽生えそうになった。
永遠とも思える時間。浦木はひたすら課長の『趣味』に耐えていた。
「三十五分か……。最長記録更新だな。お前はよく頑張ったよホントに」
雑居ビルの喫煙所、ニヤついた笑みを浮かべたままタバコを咥え、浦木の肩を容赦なく豪快に叩きながら、長髪を結った長身痩躯の男が言った。ただでさえ細い目を更に細め、糸目と形容する他ない形状をしている。顔の輪郭は細く、糸目と相まって、見る者にどことなく狐を連想させた。小柄な浦木と並ぶと、年の離れた兄貴のようにも見える。右耳のピアスが光を拾い、光っている。
「いや、ホント勘弁ですよ……。あんなのレコーダーで録って労基に持っていけば一発じゃないですか……。もう僕ひとりで『働き方改革』という名のささやかなレジスタンスでもしてやろうかと……。あ、すみません加藤さん、一本いいですか……?」
急にタバコをせがまれ、浦木の同期の同僚であり、社内で唯一の『友人』である加藤真矢は、マルボロの赤いボックスを開け中身を確認する。
「お前さぁ……毎回毎回くれくれ言ってくるけど、少しは遠慮しろよ。ガキじゃねぇんだから。俺ら今年でもう三十だぞ。つか、最後の一本なん――」
「さすが営業トップの加藤さんは器がデカい! 最後の一本でもお恵みくださるなんて……! ありがとうございます加藤様!」
加藤が躊躇する間もなく、浦木は加藤の手からタバコのボックスをむしり取っていた。奇怪な動きでスーツのポケットを忙しなくまさぐっている。
「あ、加藤さん。火もいいですか? ライターどっかに置いてきたみたいで」
遠慮する様子もなく、浦木が訊く。
「はぁ……で、お前今日の帰り、なんか予定あんの? 明日から盆休みだし飲みに行こうぜ」嫌々ライターを差し出しながら加藤が誘う。
「僕に予定なんかないってことぐらい知ってるでしょ。嫌味ですか? 社畜に染まり過ぎて課長の嫌味のノウハウまで吸収しちゃったんですか? ご立派ですねぇ……」
オイルの残量が少ないのか中々火がつかず、渡されたライターを振ってみたり、火口に息を吹きかけたりしている。三度目の舌打ちが出た後、ようやく火がついた。
浦木は透かさずタバコに火をつけ、溜め息混じりに深々と紫煙を吐き出す。使い終えたライターを加藤に投げて返した。
「嫌味じゃねぇよ……。悪かったって。今日は俺が出すから元気出せよ」
「えぇ? それじゃまるで僕が奢ってもらえるように仕向けたみたいじゃあないですかぁ。そんなつもりないのにぃ。じゃあ、ごちそうさまです!」
若手のお笑い芸人のように、わざとらしく戯けてみせる浦木。ついさっき課長の説教があったというのに、とても傷心しているようには見えない。ましてや反省している様子は微塵もない。
それでも加藤はここ最近の浦木の『調子の悪さ』に気付いていた。いつも以上に仕事に身が入らないのは目に見えて明らかだった。
ただでさえ入社三か月の新入社員より仕事が出来ない浦木だが、最近はあまりに酷い。半年連続で営業成績は最下位をひた走り、遂には成績グラフから名前を除名される仕打ちまで受けている。なにか悩みでもあるのだろうかと、加藤は興味本位も相まって浦木を食事に誘っていた。
仕事ぶりは壊滅的でサボってばかり、口を開けば映画やアニメの話題ばかりで、全く興味のない加藤に対し、無理やりオタク知識の講釈を垂れようとする。
それでも浦木は憎めないヤツだった。同期であり同い年の加藤を先輩であるかのように慕い、トイレにでもついてくる。そんな浦木の悩みを、加藤は知りたいと思った。
二人が会社を出た頃には既に午後九時を回っていた。
冷房の効いたビル内から一歩外に出た瞬間、八月の湿気を帯び、じっとりとした熱気が、得体のしれない粘着質の膜のように二人を包む。その不快感に自然と二人の舌打ちが鳴る。
駐輪所の片隅に設置されたボロボロの喫煙所のベンチに座り、ぐったりした様子の二人は一服をした。切れかけてチカチカ明滅する蛍光灯の周りを、大きな蛾が二匹、二人を茶化すように飛び回っている。
課長の「盆休み前だからって浮かれるなよ! 事務処理が終わらないヤツは盆休み返上で出てきてもらうからな! じゃ! お先に失礼!」という怒号で、浦木は始発を覚悟した。
加藤が手伝っていなければ軽く日を跨いでいただろう。いや、それどころか課長の描く『シナリオ通り』になっていたかもしれない。
「いや加藤さん、マジで助かりました。まさか休み前に事務処理終わらせろとか言ってくるのは予想外でしたよ……」
タバコを咥え、スマホでゲームアプリを開きながら「ありがとうございます」と怠そうに礼を述べる浦木に対し、白々しい視線を投げつける加藤。
「俺もお前の事務処理があんなに溜まっているとは予想外だったわ……。てか、せめてデスク周りくらいもう少し整理しろよ。某驚安を謳う量販店か」
十分前に見た凄惨なデスクを思い浮かべながら加藤が言う。
「こんなクソみたいな会社で大真面目に働いてよく嫌気が差しませんね……。ちょっとでも条件がいいトコ見つかったらすぐにでも辞めてやりますよ」
「まぁ、そう言うなって。俺ら『マテリアルフォース』の一員だろ。俺らが頑張らなきゃ大勢の人間が美味しい飲料水不足で苦しむんだぞ」
加藤は笑いながら冗談半分に言って聞かせる。『マテリアルフォース』。仰々しい、まるで特殊部隊のようなネーミングだが、浦木と加藤が勤める、主にウォーターサーバーの設置・整備、飲料水の販売を取り扱う中小企業だ。今年に入り『株式会社 川上商事』から『株式会社 マテリアルフォース』に社名変更をしていた。社長が社名の『あまりの普通っぽさ』に、いよいよケリをつけた結果らしい。
「ウォーターサーバー設置の新規顧客を取り続けるって、相当無理があると思いますよ? 飲料水の販売だって、うちみたいな小さい会社が大手に敵うわけがない。加藤さんはウォーターサーバーを司りし者ですか? 流石マテリアルフォースの部隊長は違いますね。あぁ……マジあっちぃスね。早く我らが隊員のオアシスに急ぎましょうよ。もう歩くだけでHPが削られてる気分です。『ドラクエ』の沼地を歩いてる気分です」
スマホをスーツのポケットに入れ歩き出す浦木を追い、加藤も重い腰を上げる。
「どっちかと言ったらコールドドリンクを忘れた火山じゃね?」
「おぉ! か、加藤さんがゲームネタを使うとは……! 散々レクチャーした甲斐があったってもんですよ! ちなみにそれを言うならクーラードリンクです。しかも今の『モンハン』はクーラードリンクが廃止され――」
「あー、はいはいはいはいはいはいはい。分かった分かった。さっさと行こうぜ。ったく……」
茹だる熱帯夜の街並みを二人は歩いた。帰宅ラッシュの人混みを縫うように、時には縦一列に並んで歩く様は宛らRPGのパーティのように見えた。
盆休み前ということもあり、二人の行きつけの居酒屋『華やぎ』は仕事終わりのサラリーマンや大学生でごった返していた。
店内に入ると揚げ物や肉の焼ける香ばしい匂いが、疲れ切った二人の食欲を刺激した。店中に酔いが回った客の喧騒が響く。
「ご注文がお決まりになりましたらお声かけくだ――」
「あ、生二つと焼き鳥の盛り合わせの塩――、あ、加藤さんタレ派でしたよね。タレもください。あと揚げ餃子とジャガバター、塩ダレキャベツ山盛りで」
アルバイトと思われる若い男性従業員に、間髪を入れず浦木がまくし立てる。
「お前なぁ……人の金だからって少しは――、あ、あとガーリックフライとバターコーンも追加で」
注文を立て続けに列挙されようとも一切動じず、涼しい顔で手際良くハンディを操作し、注文を取るアルバイト。業務に臨む姿勢としては浦木の数枚は上手だろう。そんな『できる』若いアルバイトには目もくれず、浦木はタバコに火をつけ紫煙を深く吐き出した。
「流石に盆休み前だけあって混んでますねぇ。予約入れないでテーブル席座れたのが奇跡ですよ」
「ここ安いしなに食っても美味いからな。メシ来るのも速いし。あぁマジ疲れた。九割お前の所為だ」
先程のアルバイトが、手際良くテーブルにビールと料理を並べていく。なんの捻りもない「お疲れ様ー」「はい、お疲れー」の乾杯で二人は飲み始めた。
「ぐはぁあッ! うめぇッ! 死ぬ!」ジョッキを叩き付け、浦木が吠える。
「すみませーん。生二つ追加で」
余程喉が渇いていたのか、僅か数秒足らずで空のジョッキが並ぶ。
「あ、あと僕、レモンサワーと梅サワーも追加で!」
「一つ飲み終わってから頼めよ……」
「マテリアルフォース社訓第一条、『時は金なり』ですよ」
加藤の忠告も聞かず、浦木は焼き鳥を貪り食っている。指に付いた肉汁を舐め回す動作がこの上なく汚らしい。
「で、単刀直入に聞くけどさ。お前、なにか悩みでもあるのか? 最近変だぞ。いや、元々変だけど……。ボーっとしてることも多いし。営業も壊滅的だし。どうしたんだ? 鬱か?」
唐突な加藤の質問に対し、間を置かず、尚且つ焼き鳥を咥えながら浦木が答える。
「悩み? ですか? この世界に悩みを抱えていない人間なんて居ますかね? そうですね……、強いて言うなら僕もう三十でしょ。このままこの仕事続けていいのかなって……。安月給で残業もハンパないし。最近真剣に転職を考えちゃいます。それに彼女もできないし。僕そこまで悪い顔はしてないと思うんですけどね……。そんなこと色々考えてたら、僕の人生、なんだかなぁって」
浦木の言う通り、浦木の容姿は決して悪くはない。寧ろ世間一般で言う所のイケメンの分類に間違いなく入るだろう。身長は低いが瘦せ型で、加藤とは真逆に目が猫のように大きく、二重がくっきりとしている。中性的な顔立ちは今年三十歳になる男とはとても見えず、加藤ほどの束ねるような長髪ではないが、無造作に真っすぐ伸びた髪は、身長と体型も相まって、遠目からは小柄な女性を思わせる。ただ、容姿に問題がなくても『中身』が問題だらけな所為だろう……と、加藤は思った。実際、女性職員の「浦木さん、見た目は文句無しにいいんだけど……中身がねぇ……。『アレ』だもんねぇ……」というセリフを加藤は入社して以来、聞き飽きるほど耳にしていた。
「なんだ……。思ったより普通の悩みだな……。心配して損したわ」
加藤は苦笑しながらタバコに火をつけた。
「なんですか普通の悩みって。悩みに普通もクソもないでしょうよ。いいですよねぇ加藤さんは。仕事も順調だし、カワイイ彼女さんと同棲もしてるし。新菜さん? でしたっけ? クソリア充じゃないですか」焼き鳥の串をテーブルに吐き捨てながら浦木が言う。唾液と肉汁が付着した串がテーブルに転がる。
「メシ食うとこでクソを連呼すんな。そんなんだから彼女できねぇんだよバカが」
注文された料理がテーブルを埋めていく。揚げ物の匂いが香ばしい。ガーリックフライが置かれた矢先、火のついたタバコを灰皿に置き加藤が手をつける。
「そう言えばここ来る途中、お前『面白いモノ』を見せたいって言ってなかったか? なんだよ、その『面白いモノ』って」
カリカリに揚げられたニンニクを割りながら加藤が訊く。
「あぁそうそう、忘れてました! 実は今日、加藤さんに僕の『秘密』を打ち明けようと思って――」
そう言うと浦木はビジネスリュックを漁り始めた。グシャグシャとリュックの中で書類が盛大に音を立てている。
「なんだよ急に『秘密』って。そんな煽り方しておいて、つまんねぇモン出しやがったら……しばくぞ」
「これです」
ドサっと、テーブルの上に、年季が入った穴閉じタイプの厚型ファイルが置かれた。どこの事務所でもよく見かける、なんの変哲もない分厚い青色のファイル。
「なんだこれ? 実は既に就活を始めてて、今まで落とされたトコの履歴書とか職務経歴書か?」
「そんなもん見せられて加藤さんは面白いですか……? これは僕がまだ誰にも話していない、僕の『趣味』です」
「誰にも話していない」ではなく「話す相手が居ない」の間違いだろう……と加藤は思ったが、『趣味』という言葉に不覚にも興味を惹かれ、詳細を求める。
「これは僕が独自でレポートした、土着信仰や因習、怪奇事件をまとめた資料です。所謂、『オカルト』ってヤツです」
大金が賭けられたポーカー勝負で、ロイヤルストレートフラッシュを握り込んだような、これ以上ないほどのドヤ顔で勝ち誇ったように答える浦木。
「――、浦木。しばいていいか?」
「な、なんでですか! これ以上に面白いもん無いでしょ! これだけレポートするのに一体どれだけの年月を費やしたと思ってるんですか! 僕の汗と努力の結晶ですよ!」
灰皿に置いてあったタバコが消えていることを一瞥し、加藤は新しいタバコに火をつけ、溜め息混じりに紫煙を吐き捨てる。ライターを持つ指が白くなる程に力が入っている。
「そんなもんなぁ……ユーレイやUFOとまでは言わずとも、殆どは迷信や噂の類いだろ? くだらねぇ……。お前本気で信じてるのか……? てか、そんな仕事に一切関係のない分厚いファイルを毎日持ち歩いてたのか……。バカだ……」頭を抱えながら加藤が言う。
「いやいや……信じるもなにも、ちゃんと文献や資料が残っていてですね、これらはその中でも特に信憑性の高い――、いや……加藤さんに解ってもらおうと思った僕がバカでした」
自分の隠された趣味を暴露したにも関わらず、相手にされなかったことに腹を立て、浦木は目の前に置かれたバターコーンを一気にかき込んだ。
「それ、俺が注文したヤツなんだけど……。じゃあ聞くけどよ、仮にどんな事例があるんだ? 話半分で聞いてやるよ」
「お? 興味あります? そうこなくっちゃ。クッソ重いファイルを持ち歩いてた甲斐があるってもんです」
浦木はファイルを開きパラパラとページを捲る。A4サイズの用紙にびっしりと文字が書き込まれ、所々に図や写真、イラストが載っている。かなり詳細にレポートをしているようだ。
「そうですねぇ、例えば、『部外者を殺害し、殺害した者の皮膚や骨で日用雑貨を作る一族』」
「昔そんな感じの映画あったなぁ。『悪魔のいけにえ』だっけ? チェーンソー振り回して追いかけて来るヤツ」
「『高齢者が村のために、神様にその身の魂を捧げるという名目で、自殺をすることが定められた村』」
「そんな感じの映画、ちょっと前に話題になったよな。なんちゃらサマーってヤツ」
「……。『特定の色素を持つ眼球のみを収集する盗賊団』」
「『幻影旅団』か」
「ちょっと一旦、マウント取ってくるの止めてもらっていいですか……?」
バンッとファイルを閉じ、レモンサワーを呷る浦木。ファイルを閉じる物音に反応し、周りの席の客が二人を不審げに見る。
「ホラな。所詮そんなモンなんだって。元来しっかり元ネタがあってお前らみたいなヤツらが都合のいいように解釈、関連付けて面白可笑しくストーリーを作り、噂話のように広めてそれが定着する。オカルトなんて、そんなモンだろ」
灰皿にタバコを押し付け、茶化すように加藤が言う。論破された浦木は憎々し気に加藤を睨みつけながら、残り一本になった焼き鳥を食う。気付けばテーブルに並べられた焼き鳥を、浦木は一人で片付けていた。加藤は一本も食えていない。
「まぁでも、定期的にオカルトブームって来るよな。そういった点じゃあ、いい趣味だと思うぜ」
ジョッキの半分ほど入ったビールを一気に飲み干し、加藤が続ける。
「……そういや俺の地元にもその……土着信仰? と、までは言えないかもしれんが、お前が食い付きそうな類いの話があったなぁ」
飲み干したジョッキから目を離さず加藤が言う。
「……えっ! ど、どんな話ですか? 詳しく聞かせてください……!」
ガタッと身を乗り出し浦木が訊く。膝がテーブルを打ち、浦木の前に置かれたジョッキやコップが危うく倒れそうになった。
予想通り過ぎる食い付きぶりに苦笑する加藤。浦木を落ち着かせながらタバコに火をつけ、地元に伝わる『伝説』を語り出した。
大飢饉の時代。日本海側に位置する閑静な漁村『琴浜村(加藤の出身地であり、現秋田県O市 琴浜町)』。人口数百人にも満たない、この小さな漁村も未だかつてないほどの食糧難に陥っていた。凶作が続く年でも、琴浜村の生命線は漁業にあったため、難を逃れることが出来ていた。しかし、日本各地を襲う大飢饉に便乗するかのように、絶望的な不漁が続いた。保存食も底を尽き、遂には餓死者の遺体に手を出す者も現れるほどの悲惨な状況だった。
ある日、琴浜村に旅の僧が立ち寄った。僧は名を『世乃』といった。世乃は村で唯一の神社に住む宮司に村の惨状を聞くと、こう話したという。
「この村の食糧難は飢饉に因るものではない。海神の怒りに因るものだ。この村の者は皆、海への念が薄れてしまっている。私がこの身を呈して海神の怒りを鎮める。さすれば、この村はまだ助かるだろう。」――と。
村民が見守る中、その身一つで小舟に乗り、海神の怒りを鎮めるべく海へ出る旅の僧。それからというもの、世乃が告げた通り、信じられないほどの大漁が続き、村は一気に活気と生気を取り戻した。
この出来事から琴浜村では、海への感謝と、世乃の恩情への念を後世に残すべく『海鎮め』という信仰が生まれたのだった。
「な、な、なんですかそのクソ面白い話は……! がっつり土着信仰じゃないですか……!」
浦木は新しいおもちゃを買ってもらった幼い子供のように目を輝かせた。
「そんな面白いか……? どこの田舎にでもよくある言い伝えだろ。あ、あと、お国の目が厳しくなる以前までは葬式の後、遺体を海へ流す。なんてこともやってたようだぜ。海への感謝をこめて、身体を海へ還すってことだったらしい。流石に今じゃ普通に火葬だけどな。全部うちの爺ちゃんから聞いた話だ。爺ちゃん、元気かな」
加藤が吸い殻で山のようになった灰皿へ強引にタバコを捩じ込み、呼び出しボタンを押す。
「加藤さん、確か明日から実家帰るって言ってましたよね?」
浦木が訊くと同時に店員がテーブルの前へ屈む。「お待たせしました。ご注文は?」と訊く店員に対し、新しい灰皿を頼む加藤。店員は手際良く空いた皿や吸い殻まみれの灰皿を片付け、直ぐに新しい灰皿をテーブルへ置いた。
「あぁ。まぁ……その予定だけど?」
「僕も行ってもいいですか? 加藤さんの地元。琴浜町に」
仕事中では決して見せない、真剣な表情で浦木が訊く。
「……。マジで言ってんの? 観光地でもなんでもない、ただの片田舎の港町だぞ?」
苦笑いをしながら加藤が答える。
「さっきの伝説を現地で直接、調査したいんです……! 是非、僕も連れてってください! マジで! 是非とも……!」
浦木が過剰に身を乗り出すため、傍から見ると酷く滑稽に見えた。いい歳をした男に、いい歳をした男が身を乗り出し、興奮気味に詰め寄っている。
周りの席からは「クスクス」と笑い声が上がっていた。
「分かった、分かったから。まず落ち着け。恥ずかしいわ。ったく、もうホントに……。ちょっと、トイレ行って来るわ……」
「え! マジすか! 連れてってくれるんですね? やった……!」
周りの雰囲気に居た堪れなくなったかのように、加藤はそそくさと靴を履きトイレへ向かった。
加藤がトイレへ行っている間、浦木は嬉しさを抑えきれない様子でスマホを手に取り『秋田県O市 琴浜町』と検索をした。画面には、どこの海沿いにでもある、長閑な港町の写真が映し出される。
検索予測では特に目ぼしい単語は見当たらず、試しに『秋田県O市 琴浜町 因習 土着信仰』と検索をしても、それらしき記事は一切ヒットしない。
港町ということもあり、海産物がそこそこ有名らしく、料理の記事や個人経営と思わしき店の『食べログ』が表示されるだけだった。
浦木が「やはり、現地で調査をするしかないか……」と、つぶやく。更に期待を膨らませた所へ、加藤が戻ってきた。「はぁ……」と溜め息混じりに腰を下ろす。
「明日、俺についてくるのは勝手だけどよ、そもそもお前、起きれんの? 九時には出たいんだが」
加藤がとっくに冷め切った餃子を食いながら、浦木に念を押すように訊く。
「明日の九時出発ですね。了解です! 加藤さん家の前で待ってますよ! ……じゃあ明日寝坊すると大変だし、そろそろ出ますか」
背伸びをし、帰り支度を始める浦木。分厚いファイルを強引にリュックに押し詰めている。
時計は午前零時を指そうとしていたが、ラストオーダーまでは、まだ一時間あるということもあり、店内はまだ大勢の客で賑わっていた。
「そろそろ出ますかって、金出すの俺だろうがよ……。すみません、おあいそ」加藤が店員を呼び止める。
伝票を加藤が受け取り、会計を済ませる。会計中、後ろから完全に酔いが回った様子で浦木が「ごちそうさまです! 部隊長ッ!」と声を上げたが、加藤は無視した。
再び茹だる外に出た二人。飲み屋街の路地は酔っ払いの喧騒で、さっきまで居た店内と劣らない程賑やかだった。店の照明とネオンの明かりで、真夜中とは思えないほど明るい。ダークスーツを着込んだ、キャバクラやホストのキャッチが客を捕まえようと、発情した猫のように大声をあげている。
「タクシー呼ぶけど、お前は? 乗ってくか?」
加藤が足元の覚束ない様子でふらふらとスマホを手にする浦木に訊く。
「え? あぁ……。僕ん家なら歩いて行ける距離なんで大丈夫ですよ。明日マジよろしくっス! 部隊長!」
敬礼をしながら言うと浦木は、よろめきながら夜の街に消えていった。
加藤は浦木の家に行ったことがない。「ご想像通り、散らかり方がヤバいんで」という言葉と、「ボロアパート」という情報で、加藤は全てを理解した。
ふらつきながら街に消える浦木を見送ると、加藤の前にタイミング良くタクシーが停車した。
暑さから逃げるように車内へ滑り込むと、車内は冷房がガンガンに効いており、加藤は酔いと気温差で気持ち悪くなりそうだった。
「どこまで?」と、不愛想に訊く白髪交じりの中年の運転手に、自宅付近のコンビニを伝えると、運転手はなにも言わず車を発進させた。
闇夜とヘッドライトに挟まれ、輪郭のぼやけた街並みや、通行人のシルエットが、加藤には酷く曖昧な存在に感じられた。
深く溜め息をつく加藤に対し、バックミラーを見ながら運転手が「お客さん、大分お疲れのようですね。なにか悩みでも?」と、なんの感情も込めず、機械的に訊く。
「いや……別に。ただ……。いや、なんでもないです」と、窓の外を眺めながら呆然と答えた。
八月十三日
午前九時四十五分
「今着きました。加藤さん、起きてますか?」
加藤がコーヒーを啜りながらLINEの文面を確認した。テレビでは入念にメイクをした若いニュースキャスターが「全国的に晴れる日が続き真夏日になるでしょう。紫外線対策をお忘れなく」と日本各地の天気予報を伝え、画面左上の時刻は九時四十五分と表示されている。
座椅子に深く腰を沈めながら「はぁ……」と深い溜め息をつき「今出る」とだけ返信を送る。直ぐに変顔のキャラクタースタンプで「よろしくッ!」と返信があり、加藤のスマホを持つ手がギリギリと音を立てた。
「じゃあ、行ってくる。十五日には戻るから」
加藤が履き古した白いナイキのスニーカーに足を通しながら、同棲中の彼女である新菜恵茉に言った。新菜は眠そうに「うん。いってらっしゃい。浦木さんによろしくね」とだけ言うと、自室に戻っていった。
炎天下の下、蝉時雨が騒音級の波となって押し寄せる中、加藤は錆び付いたアパートの階段を降り、駐車場へ向かった。
駐車場には加藤の愛車である黒のフィットの横で、小型のクーラーボックスの上に腰を落とし、スマホを手にする浦木が待っていた。傍らにはパンパンに詰まったボストンバッグが置かれている。
「おはようございます、加藤さん! 今日はよろしくお願いします!」
「お前さぁ……昨日、俺が何時に出発するって言ったか、覚えてる……?」
加藤がゴミ箱に集るハエを見るかのような視線を浦木へ向けながら訊く。
「何時って……十時出発ですよね? 加藤さんが起きれるか心配で十五分も早く着いちゃいましたよ。つか、早く車開けてもらっていいですか? クソ暑いんですけど」浦木はコンコンと助手席のドアをノックする。
反論する気力すらなくなるほどの図々しさに、加藤は眩暈を覚える。
そして加藤には一つ、気がかりなことがあった。浦木の服装である。たまの休みに二人で遊びに行くことがあったが、その度に浦木は毎度のことながら「それ、どこで買ったの……?」と訊かずにはいられない服装をしてくるのであった。時には背中に妖精かなにかの羽を模した装飾が付き、表にはゴリゴリの美少女アニメキャラがプリントされたピンクのTシャツだったり、またある時はテレビでも見たことがない「誰……?」と、言いたくなる見知らぬ東南アジア系の中年男性がプリントされ、上からデカデカと『THE・森林浴』と書かれたわけの分からないパーカーを着てきたりする。
そんな私服の浦木を連れ、これから地元を歩くということに対し、少なからず警戒の念を抱いていた加藤であったが、浦木の服装を一瞥し、一先ず安堵する。黒の無地のTシャツに黒のハーフパンツ、グレーのコンバースのスニーカー。至って『普通』の服装だった。
「なにジロジロ見てるんですか? 早くドア開けてくださいって。熱中症にさせる気ですか?」
「あぁ。悪かったな。今開け――」ドアのロックを外そうと、加藤が動いた時、浦木の背中が一瞬見えた。
黒地に白い明朝体で『せめて、人間らしく』と大きくプリントされている。
「……。(『エヴァ』だった……)」加藤は口には出さず車のドアを開け、後部座席に荷物を積み、運転席に乗り込む。
加藤がエンジンを掛けると、浦木もトランクに荷物を積み、助手席に乗り込んだ。座席に着くと同時に勝手に空調を弄り、冷房を十九度に設定し、早く車を出すよう加藤を急かす。
加藤は無言のまま乱暴にギアを入れ、琴浜町へ向け車を発進させた。
幸運にも二人を乗せた車は、盆休みの帰省ラッシュに引っかかることなく、順調に東北自動車道を北上することが出来た。
「あ、次のサービスエリアで停まってもらえます? 実は軽く漏れそうなんですよね」
浦木が両足を奇妙な動きでもぞもぞさせながら加藤へ言う。尿意の限界が近いようだ。
「お前なぁ……もっと早く言えよ……。でも昼も食ってないし、次で降りるか」
加藤がチラリとナビを確認した際、隣りの車線を明らかな速度違反で白のハイエースが追い抜いていった。車体には行書体で『悪・即・斬』と書かれた大きなステッカーが貼られていた。
「なんだアレ……。クソだせぇな。覆面にでも捕まればいいのに」
加藤が強引に追い抜かれたことに腹を立て、舌打ちをする。
「斎藤一ですよ。『るろ剣』の。知らないんですか? あ! サービスエリア見えてきましたよ! 早く早く! 僕の膀胱が尿意零式……」
「もし車で漏らしたら俺がお前を悪・即・斬してやるよ」
加藤は助手席シートの清潔を死守するためアクセルを踏み込み、サービスエリアに急いだ。走行距離七万キロの型落ち中古で購入したフィットでも、助手席には新菜も乗る。オカルトオタクの小便で汚されるのは我慢ならなかった。
盆休み真っ只中のサービスエリアは家族連れやカップルで賑わっていた。それぞれの幸福な連休を、これでもかというほどに謳歌している。そんな幸せな雰囲気が、ナポリタンにトッピングされた粉チーズのように存分に振り撒かれた空間へ、浦木がトイレから戻ってきた。同じくこれでもかというほどに幸福な表情を浮かべている。その姿は宛ら、オリンピックの開催地から成田空港へ帰国し、凱旋をする金メダリストの姿に見えた。
「いやぁ、マジでスッキリしました……。頭の中では『アルマゲドン』の曲が流れ、もうおしっこが激流葬のように――」
「これからメシ食うんだからちょっと黙れ」加藤が浦木の低俗な発言を遮りながらフードコートへ足を進めた。
地方のサービスエリア内に設けられたフードコートにしては、かなりの広さだった。全国チェーンの飲食店が六店舗ほど入っている。適当に空いているテーブルを見つけ、二人はそれぞれ注文した昼食を置き、腰を下ろした。
「えッ! 加藤さん、それしか食べないんですか? ダイエット……? そんなに細身なのに?」加藤の前に置かれたトレイを見ながら浦木が訊く。加藤のトレイにはカップに入ったコーンサラダとSサイズのブラックコーヒーだけが置かれている。
「ん? あぁ……。朝から好物のシーチキンサンドを三枚も食っちまったからな。マヨネーズとチーズを挟んでブラックペッパーまぶしたやつ」
「朝からそんなカロリー大爆発なモノを食ってるのに、よく太りませんね……不思議で仕方がない」
浦木が大盛りのチーズ牛丼を貪り食いながら、加藤の腹周りをワゴンセールのカーディガンを品定めする主婦のような視線で見る。
「てか、琴浜町まであとどれくらいかかるんですか?」浦木が訊く。
「そうだな、このまま渋滞に引っかからずに順調に進めれば二時頃には着くと思うが」
加藤が腕時計を見ながら答える。時計の針は午後十二時三十分を指していた。
「じゃあ、もうちょいですね。楽しみだなぁ。信仰という名の元に死体を海へ流し続けたヤベぇ町、琴浜町……。 ワクワクが止まらん!」
「人の地元をヤベぇ町とか言うなって。それにただの昔話だって言ったろ」加藤がコーヒーを啜りながら、バツが悪そうに言う。
「でも海に流した死体って打ち上がらないんですか? 死体が近隣の浜にでも上がったら、それこそ大騒ぎになると思うけど……」
箸が上手く使えないためか、丼に残った米粒に苦戦しながら浦木が訊く。
「あれ、言ってなかったか? 俺も専門家じゃないから詳しくは知らんが、どうも地元の海って海流が特殊らしいんだ。だから流した遺体が町の浜や近隣に打ち上がったってことは過去に一度たりともなかったらしい。どこからその海流の情報を調べてやって来るのか解らんが、町の岬が今じゃちょっとした自殺スポットらしいぜ。誰にも知られず死ねるってな。いい迷惑だよホントに」
死体や自殺といった物騒なワードが耳に入ってしまったのか、隣りのテーブルで食事をしていた子ども連れの家族が迷惑そうに席を離れていった。
「土着信仰プラス自殺の名所って……! そんな面白い町が僕のリサーチに引っかからずに存在していたとは……! 僕の情報網もまだまだヒヨッコってことですね。チャクラで木に張り付くことすら出来ないナルトレベルだってばよ」
「こんな陰鬱なことに大はしゃぎ出来るお前の性根にビックリだってばよ」
去って行く家族を目で追いながら、呆れたように加藤が言う。
「さぁ、メシも食ったし向かいますか! 琴浜町!」
浦木が意気揚々と立ち上がり背伸びをする。結局諦めたようで、丼の中には点々と米粒が残っている。
「ん……? あぁ、そうだな……。休憩もしたし、行くか。外出たくねぇなぁ」加藤は気が進まない様子で溜め息混じりに席を立つ。加藤は結局、コーヒーだけを飲み、サラダをほとんど残してしまった。
駐車場へ戻り二人が車に乗り込むと、車内は高温サウナのような灼熱状態だった。ドリンクホルダーに置いていたコーラが、煮立つような温度となっている。
「早く! エンジン! エアコン! エアコン! エアコン! エアコーンッ!」
「あぁうるせぇッ! ホントにもう!」加藤はエンジンを掛け、浦木に弄られる前に素早く冷房を操作した。カーオーディオからはビートルズの『ヘルプ!』が流れ出した。
「あぁ……。エアコンがぬるい……。てか、加藤さんって昔の洋楽ばっか聴きますよね。アニソン入ってないんですか? アニソン。九十年代のアニソンが聴きたい。『突撃ラブハート』とか『さぁ』とか」
浦木が勝手にオーディオのタッチパネルを操作する。『ボンジョヴィ』『クイーン』『レッドツェッペリン』『ディープパープル』など、表示されるのはどれも古めの洋楽のばかりだった。
「オイ、勝手に弄んな。お前はもう少しロックってものを聴いた方がいい。打ち込みばっかのギターやシンセの音色で耳が腐ってんだよ。偉人による洗練されたドラムとベースのグルーヴ、脳に深く刻み込まれるギターリフをもう少し耳に入れるべきだ」加藤がハンドルを切りながら言う。サービスエリアから左折し、再び東北自動車道を走り出す。
「出たー……。加藤さんの音楽持論。もう偏見が凄い……。アニソンだってロックな曲しこたまありますから。それに九十年代はまだ打ち込みによる楽曲制作がそこまで定着してなかったと思いますよ……知らんけど。ホント、加藤さん音楽の話なるとこの上なくうるさいんだよなぁ……」
浦木がぶつくさ文句を垂れながら、窓をほんの少しだけ開けタバコに火をつける。車内に入り込む風で灰が巻き上り、粉雪のように加藤の肩や貧乏ゆすりをする左足に降りかかった。
加藤は「はぁ……」と短く溜め息をつき、アクセルを踏み込む。前方に揺らめく蜃気楼が、二人の行く手を阻む瘴気のように立ち込めていた。
「加藤さん! 海ですよ! 海ッ! ホラ見て! 大西洋ですよ!」
「いつ俺らは大陸を渡ったんだ? てか港町出身のヤツに対して海海言ったところで、こっちはなんの感動も生まれんぞ」
二人を乗せた車は高速を降りた後、国道を三十分ほど走り、古びた短いトンネルを通過した。トンネルを抜けると左手に日本海が広がっていた。真夏の青々とした空が海面に映り、真っ白なキャンバスに青一色を塗りたくったような景色だった。田舎特有の錆びれた道路案内板には『直進・琴浜町 左折・O水族館WAO』と記されている。
「あのローソン過ぎたら店しばらくねぇぞ。トイレ大丈夫か?」加藤が助手席シートの安否を気遣い、浦木に訊く。
「あー、そうですね。じゃ寄ってください。海を見ていたら何故か催してしまって」
「訊いといて良かった……」加藤がチラリと浦木の下半身に目をやると、奇怪な動きで足を上下左右に動かしていた。
加藤がコンビニの駐車場に備え付けられた灰皿の横で一服をしていると、浦木が清々しい表情で店から出てきた。両手にはレジ袋を持っている。
「なに買ったの? 菓子?」加藤がタバコを挟んだ指で袋を指しながら訊く。
「ちょっと小腹が減ったんで、パンでも食おうかと。あとタバコとコーヒー」
「お、珍しい。お前にしちゃ気が効くじゃねぇか。まぁ運転手を労うのは当然か。悪いな」
「は? なに言ってんですか。全部僕が食うために買ったんですけど。お腹減ったならなにか買ってくれば? 待ってますよ?」
レジ袋を地面に置き、浦木もタバコに火をつけ加藤の横に並ぶ。その様子を加藤は炎天下の下、熱せられたアスファルトの上に転がるセミの死骸に群がるアリを見るような目で見つめた。
「ところでお前、さっきの話だけど、本当にいいのか?」
「さっきの話ってなんですか?」
「さっき車の中で話したことだよ。今日お前が泊まる場所の件。本当に町の民宿でいいのか? 観光地でもなんでもない寂びれた港町の民宿なんてマジで大したことねぇぞ? 黙って俺ん家に泊まればいいのに。金も掛からないし」
「あぁ。そのことですか。旅の醍醐味ってやつですよ。確かに加藤さんの実家には興味ありますけどね。特に加藤さんの自室を荒らしてみたい衝動はありますが。現地の空気感を堪能したいんで、民宿で結構ですよ」設置された灰皿に灰を落としながら浦木が言う。
「まぁ、お前がそれでいいならなにも言わんよ。好きにしろ」
そう言い捨てると加藤はエンジンの掛かった愛車に乗り込み、運転席側の窓を開け「行くぞ」と声を掛ける。
「えぇ……今タバコに火をつけたばっかなのに……。自分勝手だなぁ」
最後の一枚となったクッキーを惜しみながら仕方なく友達に渡す子どものように、吸いかけのタバコを泣く泣く灰皿に捨て、浦木も車に乗り込んだ。
周囲に木霊するセミの合唱が、二人の旅路を急かし、囃し立てるように響いていた。
二人が小休憩をしたコンビニを過ぎると、目に見えて民家の数は減っていき、杉が密集する山道へと入っていった。対向車線を走る車はほとんどなく、数台の軽トラックが通過しただけだった。右も左も杉林に囲まれた山道で、沿岸地域とはかけ離れた景色が続く。
白兎を追いかけ、不思議の国に迷い込んだように辺りを見回し「アレ……? 海は?」と浦木が四十回ほど加藤に訊いたところで、一気に視界が開けた場所へ出た。目の前には日本海が広がり、丘の下には海に沿うような形で弧の字型に開拓された町の全体が見渡せる。一番大きな建物でも、学校か公民館のような施設しか見当たらない、山と海に挟まれた極めて小規模な港町だった。
二人を乗せた車の進路方向数百メートル先に『ようこそ 琴浜町へ』と書かれた古い看板が見えた。絶え間なく吹きつける海からの潮風で、看板を支える支柱部分が酷く失敗したハンバーグのように、こげ茶色に錆で変色してしまっている。
「あぁダル……。やっと着いたわ」加藤が首の骨を鳴ってはいけないような音を鳴らしながら言う。
「あれが琴浜町……。思ったより……なんか、普通」浦木がぼそっと呟く。
「普通ってなんだよ、普通って……」
「いや、もっと邪悪な雰囲気を纏ったラスボスステージみたいな場所かと……」
「お前昨日スマホでググって画像検索したんだろうが。人の地元をなんだと思ってんだ」加藤が辟易した様子で言う。
「とりあえず民宿に寄ってください。荷物降ろしてから探索したいんで」浦木がタバコに火をつけ助手席の窓を開けると、濃密な潮の匂いが車内に漂った。
民宿には『民宿』と手書きで書かれた簡素な看板しか出ておらず、建物の外観も、ごくありふれた民家のようだった。浦木が「暑い暑い」と文句を垂らしながら、トランクに積んだ荷物を下ろしていると、中から中年の恰幅のいい、如何にも『どこにでも居る近所のおばちゃん』といった見た目の女性が出てきた。首にカラフルなフェイスタオルを巻き、額にはじっとりと汗を浮かべ、パーマのかかった前髪が、水揚げされたばかりの新鮮な海藻のようにべったりと張り付いている。
「おや、お客さんがど思ったら真ちゃんだねぇ! おかえり! 今帰ったんだが? そっちのめんこい顔のお兄さんはお友達?」
「山田さん、ご無沙汰してます。今帰ったばかりで。こいつ同僚の浦木っていいます。今部屋って空いてますか? 今日こいつ泊めてやってくれませんかね?」
「ほとんど釣り人客しか来ねぇうちが埋まるごどなんてねぇべよ! どうぞ、ゆっくりしてげ! 真ちゃんのお友達なら晩ご飯気合入れねばねぇな!」
「ありがとうございます。お邪魔させて頂きます。が、ちょっとお伺いしたいのですが、その……ここってクーラー付いてないんですか? おばちゃん、なんか凄く暑そうなので……」浦木が暑がる山田の様子を見ながら申し訳なさそうに尋ねる。
「まさがや! ちゃんと付いでだよ! 曲がりなりにも民宿だで? さっきまでこの炎天下の中、裏で畑いじってだがら暑いのなんの」山田がタオルで汗を拭う。首に巻かれたタオルは、絞れるほど汗を含んでいる。
「バカかお前は。クーラー付いてない民宿なんてあるかよ。すみません、こいつホントにアホで……」加藤が浦木の頭を掴み、無理やり礼をさせる。浦木はバツが悪そうにハハハと苦笑いを浮かべた。
「二階の一番広い部屋どご好きに使ってけれな」と言われ、二人は薄暗く狭い階段を上がった。階段は一段踏みしめる度にみしっと腐った板を踏んだかのような鈍い音を立てる。どの客室もしっかり清掃が行き届いているようだったが、屋内はどこかホコリっぽい臭いが漂っていた。
一番広い部屋と訊いて心を躍らせていた浦木だったが、襖を開けると六畳ほどのごく普通の和室だった。畳は日に焼け、壁紙は色褪せて黄ばんでおり、申し訳程度に水墨画の掛け軸が掛けられている。期待外れの居室に、浦木がぶつくさ文句を言いながら荷物を下ろす。
「部屋はともかく眺めは最高ですね。民宿の真ん前が海だから一望出来る。ん? あの人、なにしてるんですか?」
窓の外、民宿を挟んだ道路沿いに続く砂浜に老人が立ち、神社の参拝客のように、海に向かって手を合わせている。
「あぁ、この町じゃ海が信仰の対象みたいになってるって話したろ? 町の若い連中はサッパリだが、未だに爺さん婆さんなんかはあんな感じで海に感謝を示したりするんだよ。俺ん家の爺さんもやるぞ」
「へぇー! いいよいいよ! 因習っぽいよ! でも世間的によく、盆には海に近づくなって言いますよね? 連れて行かれるとか言うじゃないですか。この町じゃ関係ないんですか?」浦木がスマホで老人を何枚も撮影しながら加藤に訊く。
「お前それ普通に盗撮だぞ。世間一般じゃそういう言い伝えがあるらしいな。俺もこの町を出てから初めて聞いた。それくらいこの町じゃ海は神聖視されてるってことなんだろうな。正直、あんまり深く考えたことねぇけど」
「それだけ昔の言い伝えや思想が遺る町ってことですね。こりゃ早く調査してレポートしないと! こうしちゃ居られません。さぁ、資料館にでも行きましょう!」
浦木が部屋の隅にバッグやクーラーボックスを乱雑に寄せながら言う。
「こっちの予定は気にしないのな……。まぁ今日はあと実家に帰るだけだし、お前に付き合うけどよ。資料館なんて洒落たもんはねぇけど、図書館も兼ねてる公民館になら、町の資料とか置いてあるかもな。行ってみるか?」
「町の資料が見れるならどこでも!」と浦木が返事をし、二人はホコリ臭い六畳間を後にした。窓の外で海に向かい手を合わせていた老人が、民宿を白目が血走るほどに見開きながら凝視し、念仏を唱えていることに、二人は気付かなかった。
加藤の「狭い町だから徒歩で十分回れる。車だと車道が細いとこもあって小回りが利かねぇから歩くぞ」という提案で、車を民宿へ置き、二人は徒歩で町の公民館へ向かった。気温は優に三十度を超えていたが、海風が心地よく、浦木は然程文句を言わず歩いた。
「……! 加藤さ――」
「動くな、加藤真矢。お前を殺人容疑の疑いで逮捕する。署まで同行願おうか」
いきなり何者かによって背中にオートマチック式の拳銃を突き付けられ、加藤が歩みを止める。
「……。大高先輩。いや、大高巡査。拳銃を民間人に突き付けて大丈夫なんスか? 上にバレたらそれこそ、あなたが逮捕されるのでは?」
「ハハハ、エアガンだよエアガン! 日本のど田舎のマッポがシグP226なんて持ってるかよ。久しぶりじゃねぇか真矢! 盆休みで帰省か? お前がダチ連れて帰ってくるなんて珍しいじゃねぇか」
屈強な体つきの警官が、手に持ったエアガンをひけらかしながら笑う。肌は真っ黒に日焼けしており、ガッシリした体型も相まって、どこから見ても漁師にしか見えないだろう。
「久しぶりっス。大高先輩。盆なのに巡回お疲れ様です」
「いや、今日はもう非番。制服着てねぇだろ。家帰って釣り行くわ。暇ならあっち帰る前に飲みに来いよ! じゃあな!」
そう告げると大高は巡回用の自転車に乗り、颯爽と走り去ってしまった。
「勤務中にエアガン持ち歩く警官がどこにいんだよ……」
軽快に走り去る大高の姿を見送りながら、心底呆れた様子で加藤がつぶやいた。
「あの人、本当にお巡りさんですか?」浦木が訊く。
「あぁ。あんなんだけどな。高校の先輩。単独で隣町の高校に殴り込みに行くわ、柔道で全国行くわで昔は色々凄かった人」
「へぇ……。お巡りさんの恰好をしたヤクザかと思った」
公民館はレンガ造りの二階建てで趣があり、入り口には『琴浜町 町民交流センター』とあった。自動ドアが開くとクーラーの冷気が二人を包み、浦木は「ふぃいぃ」と、奇妙な溜め息を漏らした。
公民館の中は静まり返っており、二人の老人が丸テーブルで将棋を嗜んでいるのみだった。二人が辺りを見回していると、白髪交じりの頭髪をきちっとセットし、水色のポロシャツにベージュのチノパンを穿いた、如何にも「町の職員です」といった風体の中年の男が声を掛けてきた。名札には『島崎 敏郎』と書かれている。
「誰かと思えば真矢君じゃないか。盆休みで帰省かな? いやぁ久しぶりだねぇ」
「島崎さん、お久しぶりです。こいつは会社の同僚で、浦木っていいます」加藤が手短に浦木を紹介する。
「こんにちは、浦木と申します。あの、早速ですみません。ここに琴浜町に関する資料があるとお聞きしたんですが、見せて頂くことは可能でしょうか?」
興奮を隠しきれない様子で、身体をそわそわさせながら浦木が訊く。
「こんにちは、浦木くん。え? 資料? あぁ、あるよ。あるけど……町の職員がこんなこと言っちゃあなんだが、あんなつまらないものに興味がおありで? 地方についての勉強かなにかかな?」
「いや、まぁ……。そんなところです。つまらないなんてとんでもない。是非拝見させてください!」
浦木の張り上げた声に反応し、将棋を指している老人達が不審そうにこちらを見ている。
「仕事とは別で、こんな田舎町に対して興味関心を示すとは、真矢君も立派なご友人をもったねぇ。図書室は二階だよ。鍵は開いてるから、なんでも好きなだけ見ていくといい。なにか用があったら事務所に居るから」
二人が礼を言うと島崎は、老人の歯ぎしりのように不快な音を立て軋むドアを開け、事務所へと入っていった。
階段を上がった正面に、小学校の教室ほどの広さの図書室があった。人影はなく、夏休み中の学校の図書室を連想させる。
「子ども一人居ないじゃないですか……。どんだけ過疎ってるんですか。てか、民宿の山田さんといい、さっきの島崎さんといい、加藤さん、顔広過ぎ」
「夏休みだし、今はネットの時代だろ。誰が公民館の図書室なんて来るかよ。こんだけ狭い町だと嫌でも顔が利くようになるさ。それが田舎のいいところでもあって恐いところでもあるがな。プライバシーもクソもねぇ。ホラ、この棚じゃねぇか?」
加藤が指した棚に『歴史資料』とある。赤紫色の重厚な装丁をした書籍が隙間なく納められている。背表紙には『琴浜町 町史』と金文字で仰々しく印字されており、それぞれ英数字で巻数が記されている。書籍が棚に納められてから長い年月、誰の手にも取られていないという雰囲気を、書籍に薄っすらと積もったホコリが物語っている。
「コレですコレ! 多分……間違いない! この中に琴浜町に関するヤベぇ歴史が……。ちょっと自分の世界に入りたいので、加藤さんは適当に時間潰しててください。『かいけつゾロリ』でも読んでるといいですよ」浦木は切羽詰まった受験生のようにレポート用紙を広げ、ボールペンを手に取った。
「どうぞご勝手に。俺は下で爺さんら相手に将棋でも指してくるわ。用が済んだら下りてこいよ。あんまり遅ぇと先に家帰るからな」
そう言い残すと、加藤は怠そうに図書室を出て行った。浦木は他に誰も居ない図書室で一人、歴史の闇を紐解くように黙々と本のページを捲っていった。
「爺さん。王手」
「かぁあ! さいさいさい……。加藤さんとこの坊主は相変わらず容赦ねぇごどや」
「小玉さんが弱ぇだげだべよ。どれ、次はオイやっから、まずよげれ」
加藤が腕時計に目をやると、針は午後五時を指していた。浦木が図書室に籠ってから二時間近くが経過していた。真夏の太陽は、微塵も沈む様子を見せていない。
もう一局指そうと駒を盤上に並べていると浦木が戻ってきた。
「おう。どうだった? なにか収穫はあったか?」
「いや……。全く。せっかく案内してもらったのにあまり言いたくありませんが、無駄足でした……」甲子園の九回裏、逆転サヨナラ満塁ホームランを打たれたピッチャーのように悔恨の表情を浮かべる浦木。
「兄ちゃん、加藤さんとこの坊主の連れだが? こんな田舎さよぐ来たごど」
「連れというか、ええまあ……。浦木といいます。って、加藤さん。お爺さん相手だからって飛車角落ちですか。随分余裕ですね」
「いやいや。加藤さんとこの坊主は県の将棋大会で連続優勝の凄腕だったや。こんだけしてけねぇどオイがだだっけ相手さなんねった」
「へぇ。意外。加藤さんにそんな特技が? ちょっと一局、僕と指しますか。ちょっとすみません」
そう言うと浦木は加藤の向かえに座り、盤上を弄りだした。
「お前将棋指せんのか? って、なにしてんだお前」
浦木の陣形には飛車と角が抜けている。
「僕はコレで結構です。加藤さんは通常通り飛車角も使って構いませんよ」
「舐めてんのか? お前なんかがが俺相手に飛車角落ちで勝負になるかよ」
「そうですか? 勝負はやってみないと分かりませんよ」
二人の様子を見て老人達も面白がり「やれやれ」と囃し立てる。
「爺さんらが言ったように、俺はお前なんかに舐められるほど弱くはねぇぞ。それでもそんなに自信があるってんならなんか賭けようぜ。舐められて腹悪いし。俺が勝ったら俺と爺さんら二人と事務所で仕事してる島崎さんに自販機で飲み物買ってこい」
「分かりました。じゃあ、僕が勝ったら、そうですねぇ……。僕がもし会社を辞めても友達でいてくださいね」
「なんだそりゃ。気色悪い。お前が先行でいいぞ。来いよ」
「ハハハ。じゃあ遠慮なく……。お願いします」
午後六時三十分。
「七手先で加藤さんの詰みです。対局ありがとうございました」
「マ、マジか……。ウソだろ、こんな……」
おおおおおッ! と歓声が沸き起こる。いつの間にかテーブルの周りには老若男女のギャラリーが出来ていた。老人二人組が「面白いことになってるぞ」と携帯で情報を流したところ、人づてに伝播していき、午後六時の閉館時間が過ぎても収拾がつかないほどの、ちょっとした騒ぎになっていた。
「アレ? 言ってませんでしたっけ? 僕、ボードゲームとかカードゲームが好きでけっこう自信あるんですよ。でもまぁ、加藤さんも強かったですよ。いや、相当強かった。久々に楽しかったです」
「いやぁ、浦木くん強いねぇ。面白いものを見せてもらったよ! すごいねぇ!」島崎が浦木の肩を叩く。
「長居しちゃってすみません。夢中になっちゃって」
「いやいや。いいんだよ。大体こんな状況じゃ閉めるに閉めれないしね」
「まさか俺が浦木に将棋で負けるなんて……。浦木に、将棋で……」
余程の自信があったのか、加藤は呆然と盤上に視線を落としている。
「そんな露骨にショック受けないでくださいよ! たかがゲームでしょ! つか資料が使い物にならなかったんだから、時間あるなら次どこか案内してくださいよ」呆れた様子で浦木が催促する。
「そういえば、浦木くんは具体的にこの町のなにを調べているのかな? 町の成り立ちかなにか?」島崎が訊く。
「加藤さんから訊いたんです。過去にこの町で行われていた因習というか。世乃っていう旅の僧侶とか。それらを調べに来たんです」
一気に場の空気が変わった。誰一人言葉を発さず、機械のように無機質な無表情で浦木を見る。
「え? え? なんスか? な、なんか悪いこと言っちゃいました……?」
「バカお前ッ……! すみません。こいつホントにアホで……。じゃ俺らはコレで。ホラ行くぞ」
加藤が浦木の手を強引に引っ張り、その場から逃げるように連れ出す。立ち去る二人の様子を、その場にいた全員が首だけを機械的に動かし、無言で見送っていた。公民館から出て一息つくと、加藤が怒鳴った。
「お前なぁ! 俺がお前に話した内容はこの町じゃデリケートな問題なんだよ! あなた方の町って昔はヤバいことしてたんでしょ? 面白そうなので、それ調べに来たんですよぉ。ハハハ。みたいなこと言われて気分いいヤツなんかいるかよ!」
「あ……。そ、そうですよね……。すみません。空気読めませんでした……。次から気を付けます。……僕そこまで酷い言い方はしてないけど」
「ホント底なしのバカだ。お前は。だが、そういうことを気兼ねなく調べられそうなところがあるっちゃある。行くだけ行ってみるか?」
「いいんですか? さっきあんな醜態を晒したのに……?」
「せっかくここまで来たんだし、無駄足だとお前も盆休みが台無しだろ?」
「か、加藤さぁん……ッ!」
「キモい。行くならさっさと行くぞ。俺も実家帰りてぇし、時間的に今日は次で区切りつけようぜ」
西洋の神話に出てくる名のある天使が、地上に舞い降りる前触れかのように、美しく輝く夕日が海面を照らす。夕闇の気配が近づく海沿いを二人は歩いた。
杉の木が生い茂る山の斜面、苔むした短い石段を登った先に築百年以上は経つであろう、風情のある神社があった。朱色の鳥居には『醒願神社』と刻まれている。
「着いたぞ。醒願神社。俺が昨日、お前に話した伝承に出てくる神社だ。ここの宮司さんならお前の話にも嫌な顔せず答えてくれるだろうさ。昔話が大好きな爺さんだからな」
「え? てことは、ここの宮司さんて、伝承に出てくる宮司さんの子孫?」
「そうなるな。ここの爺さん、話が長くなることで有名なんだよ。俺もあまり詳しいことは聞いたことがねぇ」
「伝承に伝わる聖地が地元にあるのに調べないなんて、勿体ないですよ! 民俗学の先生だったらきっと、よだれを垂らして喜ぶはずなのに」
「俺、別に民俗学の先生じゃねぇし。よだれ垂らすのはお前くらいだろ」
「よだれが、どうかしましたかな? なにか拭くものでも?」
二人が鳥居の下で話していると、紺色のジャージを着た、いかにも仙人といった顔立ちの小柄な老人が背後に立っていた。皺だらけの顔に加え、顎にたくわえた白ヒゲで余計に仙人に見える。手にはネギが飛び出たスーパーの買い物袋を提げている。
「あぁ、小田原さん。お久しぶりです。会社の同僚がどうしてもこの町の伝承について調べたいと言うので連れてきました。遅い時間に申し訳ありませんが、話してやってくれませんか?」
「加藤さんの同僚の浦木といいます。是非お聞かせください! お願いします!」
「ここの宮司をやっとります、小田原克彦と申します。ほう。コレまたまぁ、遠いところからわざわざ。この辺りはヤブ蚊が多い。どうぞ、中にお入り」
厳かな明かりに包まれた本殿の片隅、用意された座布団に座り、三人は向かい合った。どこか懐かしさのある、古い神社独特の匂いが立ち込めている。
「それで、なにをお聞きになりたいのかな?」
「そうですね……単刀直入にお聞きします。この町に伝わる因――、伝承『海鎮め』。海へ亡くなった人を流していた、というのは本当に行われていたのでしょうか?」
『因習』、と言いかけ、浦木が訂正した。
小田原は静かに目を閉じ、考え込む動作をした。浦木が生唾を飲み込む。
「本当ですとも。加藤君から、お聞きになられたのかな?」
「はい。伝承の大まかなあらすじまでは。世乃という旅の僧侶が出てくるお話です」
「なら、話は早い。その伝承は全て真実。今この町がこうして平和で在るのも、世乃様がその身を呈して救ってくださったことに他なりません。その奇跡に感謝し、海に生かされた者は海へ還らねばならんのです。しかし、そんな風習も今では廃れてしまった。俗に言う、時代の流れというものです」
小田原が茶を啜りながら、物悲しそうに話す。
「海鎮めが廃れた原因には、なにか決定的な要因のようなものがあったのでしょうか?」
待望の特ダネを休日返上で探し回り、苦労の末、ようやくネタを掴んだフリーライターのように、ポケットサイズのメモ用ノートにせわしなく走り書きをしながら浦木が訊く。
「おそらく明治四十年頃の刑法公布がきっかけではないかと。死体遺棄、損壊に当たりますから。それでも、こうやって海に手を合わせ、町の平穏と発展を祈る風習に変わり続いております。この風習を行う者も、最近ではすっかり少なくなってしまいましたがねぇ……」小田原は両手を合わせ、寂しそうに話した。
「では、世乃という旅の僧が実在した証拠のような物はなにか保管されていたりするのでしょうか?」浦木が声を落として訊く。
「実在した証拠……」小田原が返答に窮する。
「いえ、残念ながら。なにせ江戸時代よりも前に生きた方ですし、ここにはなにも。ただ、答えになっとらんとは思いますが……あそこ、中央の祭壇をご覧なさい」
小田原に促され、浦木は本殿中央の祭壇に目を向けた。一見、なんの変哲もない、日本全国どこにでもある神社の祭壇に見えたが、気になる物が目に留まった。
「あれは……刀? ですか?」
祭壇の中央に、白木の鞘に納まった一本の日本刀が安置されている。厳かな祭壇に安置されていることも相まってか、素人目からしても如何にも『名刀』といった雰囲気を漂わせている。
「あの刀は代々この神社に受け継がれてきた御神刀――名を『ナギサヨビ』といいます。言い伝えでは世乃様が小舟に乗り、その身を海へ呈した後に、舟を出した波打ち際でこの刀が見つかったそうなのです。以来、この刀は世乃様が遺した――俗にいう聖遺物として、この神社に受け継がれ、こうして祀られておるのです」
「御神刀、ナギサヨビ……。ちょっと写真を撮らせて頂いても……?」
小田原の返事を待たず、浦木は興奮した様子でスマホのカメラを起動させた。
「ええ。刀に触れなければ構いませんよ。どうぞ、お好きに」
浦木は訊くや否や、刀のある祭壇まで一足飛びに移動し、「やべぇ!」「すげぇ!」などを連呼しながらスマホのシャッターを夢中で押しまくった。その様子を加藤は、小田原に出された茶を飲みながら眺めていた。その目はどこか、寂しさのようなものを湛えている。
二人が神社を後にする頃には既に日は落ち、日中の異常な暑さもすっかり影を潜め、空には宝石を砕いて散りばめたような満天の星空が広がっていた。海の上にはまるで太陽かと見まがうほどに輝く満月が浮かんでいる。
「いやぁ、大満足でしたよ加藤さん! ありがとうございました!」
「よかったな。収穫? があって。無駄足にならずに済んだな」
神社へ続く石段を下りた先の海沿いの道路を、民宿へ向け二人は歩いた。電灯の類いが不要なほど、月が煌々と町全体を昼間のように明るく照らしている。
「で、加藤さん明日はどうするんですか?」
「え? 明日? 明日、か……。うん……家でダラダラするかな」
「なんか……テンション低くないですか? 神社に来た時くらいから」
「別に。朝一からお前に付き合って疲れただけだよ」
「そりゃ迷惑掛けましたね。せっかくの盆休みなのに……。じゃあ僕は明日もう一度、公民館に行って調べものしてみます。道も覚えたし。加藤さんはご家族とゆっくりしてください。大事ですよ。たまにはそういうのも――あれ?」
「どうした?」
「……すみません。スマホを神社に忘れてしまったみたいです……」
「お前ふざけんなよ……」
「いや、一人で取りに戻りますよ。加藤さんは先に民宿戻って実家に帰ってください。さすがにこれ以上、面倒掛けられないので……今日は本当にありがとうございました! では」
「おい、浦――」
「はい?」
「いや……。なんでもない……」
「なんスか……僕と離れるのがそんなに寂しいんですか?」
「ちげぇわボケ……じゃあな」
そう言い捨てるや否や、加藤は民宿に向け、足早に去っていった。そんな加藤のなにか言いたげな様子をかき消すように、波の音だけが浦木の耳に残った。
浦木が民宿の前に着いた頃には既に午後十時を回っていた。明かりが消えた民家も目立ち始め、町は夏の夜の静けさに包まれていた。
カラカラ……カラカラ……
浦木が物音のする前方に目をやると、乳母車を押した老婆が、カタツムリよりも遅いのではないかと思うような速度で、こちらに歩いてきている。腰は完全に曲がっており、上半身がよく見えない。
浦木が怪訝そうに老婆の様子を伺っていると、浦木の前で老婆が立ち止まった。
「おばあちゃん、こんな時間にどうしたんですか? 大丈夫?」浦木が訊く。
「……」
返事がない。が、耳を澄ますと、なにやらぼそぼそと念仏のようにつぶやいている。
「おばあちゃん?」
老婆が鎌首を擡げる蛇のように、極めてゆっくりと上半身を上げる。その手には数珠が握られており、じゃらじゃらと擦り合わせている。
「ありがでぇ……ありがでぇ……死ぬ前に祀り人様どご、まだ拝むごどでぎでホントにありがでぇ……」じゃらじゃらと数珠が音を立てる。
「まつ――なんだって?」
浦木の問いには答えず、老婆はそのまま立ち去ってしまった。
「変な婆さんだなぁ。ボケてんのかな……」
浦木が老婆の立ち去る姿を見届けながら民宿の玄関を開けると、山田が奥の部屋から慌てた様子で浦木を出迎えた。
「あらぁ浦木さん。遅がったねが。ご飯食わんだべ? 気合入れで海鮮丼作って待ってだよ!」
「遅くなってすみません山田さん。あと、申し訳ないんですが、お昼食べ過ぎちゃって……お腹あんまり減ってないんですよね。すみません……」浦木が申し訳なさそうに謝る。
「あえ仕方ね……んだぁ……ちょっとでも食わねぇが……?」
「いえ、今日はもう疲れちゃって……ホントすみません。おやすみなさい」
「んだが。おやすみ」
浦木が何度も頭を下げながら二階への階段を上がっていく様子を、山田はそれ以上なにも言わずに、魚のような無表情でただ呆然と見つめていた。
浦木が居室の襖を開けると、丁寧に荷物が片付けられ、中央に布団が敷かれていた。電気を消し、着替えもせず、背後から銃で撃たれたように布団に倒れ込む。
ゆっくりと瞼を閉じ、浦木は世界を隔てた。
どこか遠くで太鼓や鈴の音が聞こえた気がした。
俺は、眠るのが嫌いだ。
昔から眠るのが嫌いだった。
いつからだろう。目を閉じるのが嫌になったのは。
目を閉じると、いつも嫌な記憶が断片的に脳裏に浮かぶ。
今日のように暑い夏の午後。草木の匂い。セミの鳴き声。
木々の隙間から射す陽の光。
自転車のペダルを踏む感触。背後から聞こえる怒声。
山道の坂を駆け降りる際の、全身に受ける風の感触。
車のクラクション。街の喧騒。
幸せそうに手を繋いで歩く親子。
ゲーセンで友人と大はしゃぎする学生。
父親におぶされ、背中ですやすやと眠る男の子。
大事そうに両手で大きなプレゼントを抱え、母親と歩く女の子。
頬を伝う涙の感触。
俺は、眠るのが嫌いだ。
白装束を着た老若男女が長い列を作り、無言で月光が照らす海沿いを歩く。
ちりーん……ちりーん……
先頭を歩く者が手にした鈴の音と、波の音しか聞こえない。
葬列のような静かな行進は、やがて民宿の前で止まった。ぞろぞろと民宿を囲うように移動を始める。
五人の男が民宿の玄関前に並び立った。五人は他の町民とは違い、藍色の着物を着ている。振袖と裾には波模様の刺繍が施されていた。中央に立つ男のみ、鬼のような禍々しい面をつけている。
鈴の音が止むと、神道装束を身にまとった小田原が、御神刀『ナギサヨビ』を、面をつけた男に深々と頭を下げながら、仰々しく差し出した。
「これより、海鎮めを執り行う。鎮め人、加藤真矢。ナギサヨビを受け取り、その覚悟と魂を世乃に示せ」
小田原が厳格な口調で告げると、面をつけた男、加藤真矢は刀を受け取った。