100.過去と未来へ
朝焼けの時間帯に、シルドは山の麓でストレッチをしていた。
特に、足腰周りの筋肉を重点的に伸ばしている。
エルとエラはまだ寝ていて、食事も摂っていない。
(この時間帯に走るのは、かなり久しぶりだな…選抜部隊の頃が最後だったか)
そのランニングは鍛えることが目的ではなく、魔王討伐部隊としてベルニーラッジを発つ直前まで行っていた、1日の始めに行うルーティーンに過ぎない。
これは、シルドが兵士に回帰することを意味している。
魔王討伐部隊の一員ではなく、ただ一端の兵士に。
何の目標も無く、貪欲に力だけを追い求めていた、あの頃のシルドに戻るのだ。
「……ふぅ」
ストレッチが終わり、鼻での深呼吸を挟んでから、シルドは走り始めた。
呼吸は2回吸って2回吐き、常に一定の速度を保って走る。
(まだ飯を食べていないから、あまり長くは走らない方がいいな…)
朝露の香りで満ちた山を抜けると、いつもの町へと続く野原に出た。
オレンジ色の空を見上げながら、過去を回想する。
(…ベッシーから始まったのか)
ベッシーが目の前で殺されて、気狂いを起こした結果、あの名前も知らない近衛兵と出会った。
その近衛兵に、魔王を倒すために軍に入れと言われて、言われるがまま魔王を倒すことが俺の生きる仮の目標になった。
(あの近衛兵の人は、今はどこに……きっと、引退していると思うが)
だが、その目標は、あまりにも漠然とし過ぎていた。
目標として仮どころか、ハリボテもいいところだ。
一切の実感が湧かない魔王という相手を倒すためだけに、その気狂いを訓練に注ぎ続けた。
結果、軍隊に入った時のシルドの呼び名は、”怪物”だった。
軍だけに、群を抜いたポテンシャルの高さを持っていたシルドは、基礎課程を終えた後、真っ先に諜報部隊と選抜部隊に引き抜かれた。
そして、そのまま流れるようにアルサール、レーネオラと合流し、魔王討伐部隊が結成された。
(今の魔王が誕生してから、かなり時間が経っていたからな。世間体もあるし、一刻も早く魔王討伐部隊を世に放ちたかったんだろうが、あの時は本当に忙しかった…)
気づけば、町の入口の前を通り過ぎていた。
まだ開門前だからか、門の近くに並んでいる人が居る。
(変質者だと思われてないといいが)
実際、並んでいた数人と門番は、シルドの姿を目で追っていた。
ようやく人が起き始めるような時間帯だというのに、自分達の後ろを駆けていく隻腕の人間が居たら、普通はどう思うだろうか。
そんなことはさておき、話を戻そう。
ベルニーラッジを出発した魔王討伐部隊は、1年足らずで近辺の魔王軍に占領された土地を取り戻し、魔王軍四天王は道中で2体倒した。
その過程で、シルドに”ラッシュ・アウト”という二つ名が付いた。
四天王を倒してからは順調に進み、ヴォーラックを過ぎて、いよいよ魔王城目前という時に、シルドの腕が切られてしまった。
それも、有象無象の魔物に。名前も付いていないような、適当に出てきた強くも弱くもない魔物一匹に、シルドは腕を切られたのだ。
(………)
思う所はある。
思う所しかない。
今でも、あの魔物の姿を覚えている。
俺の頭突きひとつで死んだあの魔物を、よく覚えている。
(…………)
その後は、身を弁えて魔王討伐部隊から除隊するために、1人でベルニーラッジへ引き返した。
…いや、”有象無象の魔物に腕を切られたという恥辱に耐えられなくて”、ベルニーラッジへ引き返したんだ。
俺は、我が身可愛さ、自尊心で部隊から逃げたんだ。
だというのに、今になって再び戦場に戻ろうとしている。
今になってみれば、これこそが本当の恥だと知ったんだ。
一体、どこまで愚かな自尊心だろうか。
自分で仲間を危険に晒す決定を下しながら、いざ仲間に危機が迫っていることを知ると、手のひら返しで帰ってくるなどと。
馬鹿で愚鈍で、無知間抜けの所業でしかない。
「はっ……はっ……!」
鼻呼吸だと苦しい。
息が切れてきた。
あの時、部隊に残っていたのなら、これくらいの運動量で息が切れることは無かったはずだ。
(……だが…)
それでも、戻りたい。
馬鹿で愚鈍で、無知間抜けの所業だと、恥を忍んででもあの場所に戻りたい。
俺がそう願っているのだと、エルが教えてくれた。
仲間を失い、それで発狂できるのなら、どんな我が儘だろうと、もう一度あの場所に行くべきだと。
この俺が、殴り合いで負けた末に、そう教えてくれた。
「はっ…はっ……!」
その言葉に納得できた瞬間、俺の中に初めて明確な目標ができた。
エルの言葉の受け売りではなく、仮初のものでもない。
恥じて仲間を見殺しにするくらいなら、その恥を忍んででもあの場所に戻りたいと思った。
自分の恥と、仲間の命など、天秤にかけるまでもない。
(だから、俺は今、走ってるんだ────)
「はぁっ……はぁっ…」
気づけば、シルドは山の麓まで帰ってきていた。
どれほどの距離を走ったのかはさておき、事前に決めた通り、長くは走っていない。朝焼けは終わり、太陽が見え始めていた。
赤、もしくはオレンジ色だった空は、みるみる青色に変わりつつある。
シルドは呼吸を整え、家の中に戻っていく。
(パン、肉、サラダ。毎食これをベースにして、必要に応じてパンと肉の量を増やす。1日の食事を5回に増やして、空腹の状態を作らないようにする)
キッチンに行くと、迷いなく焜炉の薪に火をつけ、鍋を熱する。
(上質な植物油も摂取できたらいいんだが…)
そう考えていると、昨日の町から帰ってきた時の事を思い出した。
そして、傍の暗がりに置いてある壺に目をやる。
(…保存と香り付けを同時にできると聞いて、肉を油漬けにしたんだったか。果実油で漬けていたと思うが、丁度いいかもしれない)
壺を開けて中身を確認すると、確かに果実のような香りが漂ってきた。
肉は切り分けられており、荒めに砕いた胡椒も入れているため、あとは塩をかけて焼くだけで食べられるだろう。
余分な油を落とし、鍋に肉を並べた。
それと同時に、エルが降りてくる。
「おはよ~…今日は早いのね」
「走ってきたからな。昔の習慣をやることにしたんだ」
「昔の習慣?」
初耳の言葉に、エルはオウム返しをした。
「1日の食事を5回にして、朝焼けの時間に少し走り、日が出ている内はひたすら鍛え続ける。単純だろう?」
「へぇ~……」
エルは、脳内での処理が追い付いていなかった。
「昔って、いつ頃やってたの?」
「1日5食は軍隊に入ってからだが、それ以外は士官学校に入って間もなくだな」
(つまり……??)
12、13歳の頃には、既に実践していたことになる。
それはそれは、こんな規格外の存在ができあがるだろうと、腑に落ちる話だ。
「私も、そんな感じの習慣を作った方がいいかしら…?」
「いや、自分に合う鍛え方を模索した方が良い。俺はこんなことをやっていたが、寿命を削る行為だと言われたことがある」
「一度、関節の手術を受けた時に、医者から早死にするぞと警告を受けた」
それはそうだ。それを習慣づけて、人間らしい生活が営めるようには思えない。
「だが、今俺はこうして生きている。腕を失ったこと以外は、体のどこにも異常はない。偶然にも、これが合っていたんだろうな」
「でも、関節の手術をすることになったんでしょ?それだと、健全とは言えないと思うけど…」
「まぁ…それは思い当たりがあったから、当時指摘された時から避けるようにはしている」
(それで大丈夫なのかしら…)
不安が残るが、エルも他人の心配ばかりしている場合ではない。
自身も数週間後には戦場に赴くのだから、シルドと同じように実力を上げられるようなトレーニングをしなければならない。
それらしく鍛えた経験がないもので、何をどうして自分を鍛えればいいのか、いまいち分かっていないのだ。
明確に分かっている改善点と言えば、1人で戦うことに慣れていない所だ。
(自分の今の実力を知るのと、具体的な改善点も教えてほしいし、あとで手合わせをお願いしようかしら)
そうして、朝食を食べた後に、久方振りの手合わせをすることになるのだった。
朝食後、シルドとエルに加えて、遅れて起きたエラが外に出ていた。
エラは座ってサンドイッチを食べており、まだ眠そうにしている。
シルドとエルは木剣を手にして、互いに距離を開けた場所に立っている。
「前と同じように、木剣を当てるつもりで来い。いつでもいいぞ」
「分かったわ」
「んあ~」
真剣な雰囲気がエルとシルドの間で流れるも、その傍らにはボーっとサンドイッチを頬張るエラの姿がある。
不可思議な状況だが、エルは目を閉じて冷静に深呼吸し、開眼と共に地面を強く蹴った。
(…速くなっているな)
木剣で真っすぐに突いてくるが、いつものように剣で弾き、滑らせるように軌道を変える。
エルはそれを即座に払い、横から切り込んできた。
(体力に余裕ができているのか、繋ぎも速い。呼吸も一定だ)
以前とは違い、剣で防御するだけでは当てられてしまいそうだった。
「はあっ!!」
下から切り上げるように仕掛けてきた。
次の攻撃を防げないと直感し、後ろに後退して回避する。
案の定、次は横払いが飛んできた。後退せず剣で防御していたら、当たっていたかもしれない。
「もういいだろう」
「えっ?」
あまりにも早い終了に、エルは驚いた。
何せ、まだ10回も剣を振っていない。
エラも、サンドイッチを食べ終わっていない。
「素早さと、スタミナを伸ばした方がいい。剣技はよくできている。いよいよ、弾くだけでは防御できなくなってきたな」
「ほ、本当かしら…?あまり自信持てないんだけど…」
「本当だ。弓を併用することも考えたら、今は俺の方が分が悪い」
今のは剣での手合わせだったため使わなかったが、剣と弓の両方を使って戦うとなると、それだけでも戦略的にはエルが勝る。
シルドの想定内の動きだったとはいえ、次の一手を考えて剣を振れるようになったことは、間違いなく成長している証拠だ。
「あとは、自分で言っていた通り、1人で戦うのに慣れることだな。それに併せて、素早さとスタミナを鍛えれば、もう立派な戦士だろう」
そうシルドから評価を受けたエルだが、まだ顔色は曇っていた。
「んー…それでも、あまり実感が湧かないのよねぇ…」
先ほど行った手合わせが、あまりにも短く歯ごたえの無いものとして終わってしまった所為で、エルは自身の実力の向上について疑わざるを得なかった。
「そうか?なら、一発だけ試してみるか」
「試すって、何を──」
そう言ってシルドに視線を戻すと、シルドの腕に金属同士が噛み合う音を立ててガントレットが装着され、その握り拳がこちらに向かって飛んできた。
「ちょっっ!!?」
驚きと同時に死ぬ気で体を仰け反らせ、何とかその拳を回避することに成功する。
少し遅れて、シルドの方から風が吹いた。
それは、緩いパンチではなかったことを表している。
「…ほら、避けれただろう?」
「えっ…え……えぇ」
心臓の激しい脈動と驚きが相まって、脳内には疑問符しか浮かばなかった。
清々しいまでに綺麗な不意打ちで、状況を認識した時にはシルドがこちらに拳を突き出していたはずだが、意外にも当たらなかった。
(そ…そうだ。何で私、避けれたんだろう…??)
シルドと出会って間もない頃の手合わせで、エルは一度その拳に負けている。
避けれた今回とは違う形で、顔の真横を打ち抜かれたのだ。
「俺の姿も見えていただろう?それが、成長している証拠だ」
「やったね」
まだ手にサンドイッチを持っているエラが、いつの間にか横に居る。
「………」
エルは、しばらく不意打ちの光景が忘れられなくなった。
https://x.com/Nekag_noptom




