惨状
ヒッと自分の喉から声とも呼べないようなひきつった音が鳴った。
「に、逃げないと」
扉は全身を真っ赤に染め上げた狼に塞がれ、とてもじゃないが使えない。
他に逃げ場は――、
「あ」
辺りを見回した俺の目に留まったのはベッドの横にある窓だった。
俺は急いで窓に駆け寄る。
窓にはくるりと回すタイプの鍵がついており、ほとんど開けたことのないそれはさび付いていてかなりの抵抗を見せた。
「くそ、はやく…!」
四回目の挑戦で鍵を開けることに成功した。
俺はちらりと扉の方へ眼をやるが、巨狼はその場でじっとたたずんでおり、部屋の中に入ってくる様子はなかった。
その足元には、力なく横たわるアイラの亡骸。
「くそ、仕方ないだろうが…ッ!」
窓を勢いよく開け放つと、俺はタックルするように窓枠を潜り抜ける。
二階の部屋から、およそ三、四メートルの高さを思い切り飛び降りる。
「いッ…!?」
着地の瞬間に嫌な衝撃が走った。
どうやら足を捻ってしまったらしい。
鈍い痛みが足から突き上げてくる。
痛みに顔を顰めながら窓の方を振り返るが、巨狼が追いかけてくる様子はない。
俺はそのことに僅かに安堵しながらも、この場にとどまるイコール死を意味すると思った俺は、痛む足を無理に動かしてその場を離れようと可能な限り早く移動する。
「はあ…はあ…ッ、到底、喜ぶ気にはなれねえな畜生…!」
誰に対してというわけではなかったが、自然と口から悪態が漏れる。
まるでアイラを見殺しにしてしまったかのような罪悪感が胸に重くのしかかってくる。
助けられるはずなんてなかったのに。
「…やけに静かだな」
重い足を引き摺りつつ、少し歩いて気が付いた。
周囲があまりにも静かすぎることに。
俺の部屋は母屋から少し離れたところにある離れにあった。
離れにいる人間はそこまで多くなく、静かなのもそのせいかと思っていたが、母屋の方までやってきてもそれは変わらない。
もし化け物が入り口から入ったのならば、離れに来るよりも先に母屋を通るはずだ。
あんな化け物が現れたとなれば、当然騒ぎに――、
「離れより先に…?」
自分の思考に気になる点を見つけた。
なんで、あの巨狼は離れまで来たんだ?
母屋を通ったのなら、そこで多くの人間と遭遇するはずだ。
それなのに離れにいた理由。
「…チッ」
俺は痛む足を叱咤して、庭から母屋に上がり込む。
やはり、人の気配がしない。
なんというか、使われなくなった廃病院に足を踏み入れたような。
生きている人の気配がしない。
「誰か、誰かいないのか!」
少し待ってみるが、返事がない。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
これは最近体験した感覚と似たものがあった。
夢の中で、あの道路で感じた強烈な非日常感。
自然と呼吸が荒くなる。
だが、それを自覚するほどの心の余裕がなかった。
恐る恐る母屋の通路を歩いていく。
見慣れた場所のはずなのに、初めて来たかのような感覚に陥る。
それでも歩き続けるとやがて一つの部屋にたどり着く。
「ここなら誰かいるはずだ」
そこはつい先ほど皆が集められた大広間だった。
父親からユウキの病気が治ったことについて伝えられた場所。
静寂が耳に痛い。
「…入るぞ?」
返事がない。
普段であれば使用人たちが忙しなく動き回り、親父もいるはずである。
普段であれば誰かしらが返事をするはずである。
襖にかけた手が自分のモノではないかのように震える。
緊張しているのか、俺は。
この先に広がっている光景が、いや広がっていてほしくない光景が、嫌でも脳裏に浮かんでくる。
俺は一度大きく深呼吸をした。
そして、覚悟を決めて襖をスライドさせる。
「…あ、ああ」
誰かが呆然としたような声を上げた。
いや、声の主は俺自身だ。
むせ返るような鉄臭い匂い。
それをようやく認識した。
さっきからずっとその不快な臭いが漂っていたというのに。
赤く染まった廊下を、俺は歩いていたということに。
幾人かの使用人、そして頭部のない男の死体。
よろよろとその男の亡骸へと歩み寄る。
上等な素材で編まれた羽織を着ていたようだ。
そんな人間はたった一人しか思いつかない。
「父さん」
世界が、崩れていく。
後頭部が割れたかのように、痛みと共に血の気が引いていく。
足腰に力が入らず、くらりと視界が歪んでいく中でソレを見た。
「ガルルル…」
こちらを睨みつけるようにずるずると畳をこすりながら移動しているソレは、口元をべったりと赤く染めていた。
ぴちゃりとソレが足を動かす度に、粘着質な音が響く。
つい先程まで熱を持ち人間の一部であったはずの赤が、獣に踏み荒らされていく。
「そういう、ことか」
アイラを殺害した巨狼が何故離れまで来ていたかの謎が解けた。
至ってシンプルな答え。
巨狼は二匹いたのだ。
母屋をこの一体に任せ、もう一体が離れに来てアイラを殺した。
ただそれだけだった。
今となってはどうでもいいが。
巨狼がゆっくりと俺に近づいてくる。
俺は巨狼が近づくたびに距離を取るように後ずさった。
考えての行動ではない。
本能的な恐怖が自然とそうさせた。
既に心は諦念で埋め尽くされているというのに、震える足が勝手に動く。
だから、気付かなかった。
「あ?」
ドンっと背中を押される。
いや違う、俺が後ずさろうとして壁にぶつかったのだ。
ちらりと後ろを見ると、真後ろには掛け軸がかけられていた。
これは壁の中央にかけられていたはずだ。
左右の扉はどちらも遠い。
巨狼に逃げ場のないところへ誘導されていたのだと俺は察する。
「…身体能力勝負では話にならず、頭脳でも負けてるってどんな無理ゲーだよ」
RPGなら負けイベント認定待ったなしの現状に、そんな現実逃避気味の感想が口をつく。
目の前の巨狼が、にたりと嗤ったような気がした。
狼の笑顔なんて判別できないのに。
その醜悪な感情がダイレクトに伝わってくる。
巨狼がだらりと舌を垂らし、円を描きながら俺との距離を詰めてくる。
本能的に後ろへ下がろうとするが、踵のぶつかった壁が退路がないことを伝えてくる。
逃げたいならこの部屋から出るしかないが、行動を起こした瞬間にあの世行きとなるだろうことは想像に難くない。
「…ここまで、か」
この巨狼を欺き、逃げおおせるイメージが全くと言っていいほど浮かばない。
詰んだとしか言えない現状に俺は諦める以外の選択肢を取る気にもならなかった。
「できるだけ安らかに殺してくれよ?」
どうせ通じていないだろう。
こんな言葉が辞世の句になるのか。
立っているのも面倒くさくなり、自嘲気味に笑いながら背後の壁に体重を預ける。
「こっちよ」
「…え?」
そこにはあるべき感触がなかった。
壁にもたれかかろうとした俺は、その先にあるはずの支えがなくひっくり返るように転がる。
「う、お、ぐへ!?」
地面に強かに後頭部を打ち付け、回転は止まった。
痛む後頭部をさすりながら身を起こすとそこは見知らぬ部屋だった。
「なんだここは…」
壁一面がコンクリートに塗り固められ、所々にムラがある以外は灰色一色に染まっている。
室内には中央に大きな箱があるが、それ以外には何もなく殺風景な部屋だった。
ぼんやりとした頭でそんな感想を抱いていると、頭上からドンッと大きな音がした。
「うおッ!?」
びくりと身体を竦ませて音がした方を見る。
そこには二十段程度の階段があり、頂上は壁で覆われていた。
どうやら先ほどの音はその壁から聞こえてきたようだ。
「ワォォォォンッッ!!」
同じ方向から今度は雄叫びが聞こえてきた。
先ほどの巨狼のものだろう。
さっきの音も恐らく巨狼が壁に突進か何かしたのだ。
獲物である俺を目の前で取り逃がしたことに腹を立てているのかもしれない。
「てことは、俺はこの階段を転がり落ちてきたってことだよな…。大広間の壁に隠し扉なんてあったのか、知らなかった」
今更になって心臓がドクドクと強く脈打っていることを自覚した。
この数分間でいったいどれほど寿命が縮まっただろうか。
死の危険が一旦は遠ざかったことで安堵したからか、足腰からするすると力が抜けていきその場で座り込む。
そのまま大の字になるように寝転がった。
「はあ、これから一体どうすんだよ…」
俺の呟きに答える声はなかった。