世界が変わった日 ─リトライ─
葦名原一徹が、冷めた瞳でこちらを見据えていた。
身体中の水分を絞り出したように、大量の汗が吹き出す。
ドクドクと早鐘を打つ心臓の主張が激しい。
酸欠なのか、視界がチカチカと明滅していた。
荒い呼吸を繰り返す俺のことを、使用人達が怪訝な表現で見ている。
「あ、れ」
どう、なってる。
なんで俺はここにいる?
俺は恐る恐る自分の腹へ手を当てる。
ひんやりとした感触に、自身の手が冷え切っていることを自覚した。
見れば、指先が僅かに紫がかっていて、ふらふらと震えていた。
「何ともない」
アレに噛みつかれ、ぐちゃぐちゃに引き裂かれた傷跡が綺麗さっぱり無くなっている。
あんなにも生々しい感触が残っているというのに。
「皆に報告がある」
呆然とする俺の耳が、その厳格な声を拾い上げる。
普段と何一つ変わらない、二度と聞くことはないだろうと思っていたその声を。
「ユウキを長年蝕んでいた病気が…完治した」
ぐにゃりと、世界が歪んだ気がした。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「急に倒れられたので心配しました。お身体は大丈夫ですか?」
許容量を超える情報を叩き込まれると、どうやら脳はショートしてしまうらしい。
見慣れた天井を見つめながら、俺は現実逃避気味にそんなことを考えていた。
そんな無為な時間を終わらせたのは、横から覗き込まれた顔だった。
見慣れたその整った顔の持ち主は、心配そうに眉尻を下げている。
「…アイラ」
ずっと不安そうな顔を浮かべているこの少女は空崎藍良。
俺の世話係であるサエおばさん─空崎紗枝─の娘だ。
サエおばさんの家は使用人の一家で、アイラもサエおばさんの手伝いでよく来ていたからもう長い付き合いである。
名家の物とは思えないほどに年季の入ったベッドは、俺が身を起こそうとするとキーッと甲高い音を鳴らす。
ベッドに座るようにして、アイラへと目を向けた。
「俺は大丈夫だよ」
俺はアイラを安心させようと笑みを浮かべてみせるが、アイラの顔色は晴れなかった。
アイラは何か言いたそうに口を開こうとするが、結局何も言わずに口を閉じる。
ほんの少しの居心地の悪さに、俺は後頭部を掻いた。
「そういえばサエおばさんは?」
アイラはいつもサエおばさんと一緒に行動していたはずだ。
思えばアイラが一人でいるのは珍しいということに気づいた。
「…カイトさんが倒れられた時までは一緒にいたのですが、何か用があるとかでどこかへ行ってしまいました」
「ふーん」
用とは何だろうか。
少し気になったが今考えることではないだろう。
「…親父は、なんて?」
「…ッ!」
俺の言葉にアイラはビクッと身体を震わせた。
綺麗な栗色の目に、うっすらと涙を浮かばせる。
焦った俺は慌てて言葉を連ねた。
「い、いや、言いにくいならいいんだが」
「…ご主人様は、その、お目覚めになられたユウキ様を後継者とする…と」
アイラは少し震えた声で、言いにくそうに口を動かした。
それを聞き終えた俺は、一つ息を吐く。
「そっか」
「え?」
俺の返事に、アイラが驚いたように声を上げた。
あまりに淡々とした返事が意外だったのだろうか。
後継者を変更するという話を聞いた動揺はなかった。
この話を聞くのも二度目だからだ。
そう、二度目だ。
(何がどうなってる)
初めは夢かと思った。
ユウキの病気が治り父親から出て行けと言われたことも、家を出た先であんな化け物に遭遇することも。
俺はアイラをちらりと見た。
相変わらず暗い表情で俺の顔色を窺っている。
俺が考え込むように顔を伏せたのが良くないことを考えさせただろうか。
俺は何となくアイラの頭を撫でた。
「ん!?」
いきなりのことに思わずといった感じでアイラが声を漏らす。
そのことが恥ずかしかったのか、アイラは赤くなった頬を隠すように顔に両手を当てた。
頭の上に乗せた手を払いのけられるようなことはなかった。
状況を一度整理してみる。
1、父親にユウキが後継者になることを伝えられ、家を追い出される。
2、家を出て少し歩いたところで、化け物に遭遇し殺される。
3、気が付くと父親からユウキが後継者になることを伝えられる場面に戻っていた。
事実を並べてみるとこんな感じだ。
状況だけ考えると――
(時間が、巻き戻ってる?)
自分で出した仮説を俺は鼻で笑った。
あまりにも荒唐無稽な話過ぎる。
いつからこの世界はファンタジーやSFになったのだ。
「あ、あの」
他に何が考えられるだろうか。
実は1、2が俺の見た夢か何かで、3だけが現実ということはないだろうか。
父親からの話を聞く以前の記憶が全くないことなど、いくつか謎の残る点はあるが、時間が巻き戻ってるという考えよりはよっぽどあり得る。
「あの、カイトさん!」
突如かけられた大声で、俺の思考は中断される。
驚いて声の主へ顔を向けると、アイラは恥ずかしそうにもじもじと手を擦り合わせていた。
「そろそろ、手をどけてくれませんか…?」
「あ」
どうやら俺はずっとアイラの頭を撫でっぱなしだったようだ。
そんな状態で俺が自分の世界に入ったせいでアイラの我慢の限界が訪れたのだろう。
「あー悪い、嫌だったか、すまない」
「(い、嫌ではないですけど)」
アイラは何やらごにょごにょ言っていたが、声が小さすぎて聞こえなかった。
俺は膝に手を置いて立ち上がる。
「アイラ、重ねてすまないが親父を探して、俺が話をしたいと言っていると伝えてきてくれるか?」
「え、は、はい!わかりました!」
結局、一徹とは話をしなければ始まらないのだ。
その結果、夢で見た通りにこの家を出ていくことになったらどうするかは、その時になってから考えればいいだろう。
アイラは一度勢いよく頭を下げると、踵を返して扉に手をかける。
パタパタと忙しなく動くその様子は微笑ましいものがあった。
短く切りそろえられた黒髪が宙に踊り、外開きの扉が開かれアイラは部屋から出ていく。
そして――、
大きな赤い花が咲いた。
ピチャ
頬に何かがついた。
深く考えずに俺はそれを拭う。
ぬるりと手に塗られた少し黒ずんだ赤い何か。
僅かに温もりを持っていた。
その心地の良い温もりは、これ以上ないほどの不快感で胃を殴りつけてきた。
「お、おえぇ」
胃酸が食道を逆流してくる。
頭がズキズキと痛み、思わず地面に這いつくばるように手をつく。
「はあ、はあ」
焦点の定まらない目で見たその先には、先ほどまで恥ずかしそうに頬を赤らめていた少女の亡骸が人形のように転がっていた。
「あ、あ…」
少女の血だまりを踏みつけるように、ソレは四本の足で立っていた。
少女の一部だった肉片を吐き捨て、感情の読めない視線をこちらに突き刺してくる。
元は綺麗な銀色だったであろう毛並みは、どす黒い赤に汚されていた。
見た目は、いつか写真で見た狼に酷似している。
四つ足で俺よりも大きいという異常を除けば、だが。
化け物が雄叫びを上げた。