ライセル城の危機
ずっと物憂げで大人しそうな印象だった宰相セゲゼーツが、人魚のベリンダへと向けてクワッと大きく口を開いた。
人の形に化身している宰相の口は信じられないほどの巨大さで開き、兇悪な鮫の歯が剥き出しになる。
一瞬、何が起こったやら分からなかったが、ベリンダは急流に巻かれ、木の葉のように乱れ流されていった。
「お前の手引きか。小賢しい」
吐き捨てるような呟きは、既に物憂げな調子に戻っている。顔も鮫の気配はなく、儚げな美青年風に視えた。
「なぜ、こんなに……護りが少ないのです?」
急流で遠くまで流されたベリンダは、急ぎ泳ぎ戻り宰相に訊く。
確かに、鮫しかいない。しかも、小さい鮫ばかり。それも、今は、叛逆の粉で宰相の敵に回っている。他の強敵も襲ってくれば叛逆の粉まみれにさせるところだ。
くくくっ、と、宰相は嗤う。そんなことは、決まり切っているだろうとでも言いたげな……。
「ま、まさか! 皆、ライセル城へと送ったのですか?」
マティマナは、不意に思い立って訊く。
リジャンと雅狼、エヴラールとベリンダ。二組とも戦ってはいたが、思い返してみると戦いの数は圧倒的に少なかった。何度も転移されているエヴラールとベリンダはともかく、リジャンと雅狼もあまり派手に戦闘していない。
マティマナとルードランに到っては、叛逆の粉を使ったせいもあるが戦闘は無しだ。
「今頃気づいても、もう遅い。そろそろライセル城に、挙って到着するだろう」
挙って? あの怪異たちを全部送り込んだの?
浜辺で戦闘に巻き込まれたとき、蛸型や烏賊型も大きいのがいたのだが、よく分からない形の怪獣めいた怪異も居た。遠目にも、たくさんの怪異が合体したような異様さだった。
『ああっ!』
悲鳴めいたディアートの声が空間に響いてきた。
ディアートは、前ライセル当主夫妻と法師とともに主城にいるはず。
「ディア先生! 大丈夫ですか?」
ディアートの喋翅空間を通して訊く。
『……ライセル城は無事です。凄まじく揺れていますが』
ディアートの声が、時々途切れる。喋翅空間で共有している地図が、不鮮明に乱れる。
ライセル城に怪異たちは到達し、何らかの影響を与え始めたようだ。
「城壁に取りついて揺らしているのかい?」
ルードランが訊く。城門を閉ざし、城壁の上には高くまで魔法陣めく光の防御がはられているはず。その護りが炸裂すれば、城壁の外から入る方法はないはずだ。
『城壁に取り付いた怪異たちを弾いてはいますが、都の者たちに危害が加わるのが危惧されます』
法師ウレンの声。どうやら、怪異たちが城壁に体当たりしているようだ。主城が揺れるほどとは、相当な力だと思う。巨大で殻の固そうな、様々な海洋生物が合体したような不気味な存在が大量に押しかけて総出で打つかっているに違いない。
宰相側の勢力のほとんどをライセル城に向けて投入したようだ。
「聖女のいないライセル城など、とるに足らん」
聖女はここに足止めだ、と、宰相は言葉を足して高嗤いしている。
「ライセル城は、無敵です!」
マティマナはキッパリと宰相へと告げる。
ライセル城の堅固さは、聖女認定されたマティマナが来る以前からのものだ。地下には護りの精霊もいる。
「どうだかな。吉報を得るのは、我のようだが?」
ズシンズシンと、空間越しに轟音が響いてきていた。
『ライセル城は外からも護る。都を襲わせはしないぞ』
空間から響いてきたのは、保養所の工房にいるバザックスの声だ。
今まで竜宮船に潜った者たちを合流させるべく頑張っていたギノバマリサへの助言や、海上での戦いを展開する帆船を手助けしていたようだが、空鏡魔石での攻撃をライセル城の護りに切り換えていた。
法師の術で城壁から弾かれた怪異を狙っている。
巨大な怪獣めいた海の怪異は、空鏡からの弾に当たり光と化して消滅した。
「すごい!」
空間越しに目撃したリジャンの高揚した声が響く。
『義姉上の海洋の魔法具は素晴らしい!』
バザックスも高揚した声だ。
『宝玉は、ディアート様は、私が護ります!』
法師はあちこち宙を駆け、城壁越し術を転移させ怪異を弾く。脆い怪異は、海の魔法具を身につけている法師からの術で消滅した。
都の居住地のほうへ転がる怪異を、バザックスが空から巧みに弾で撃ち抜いた。
「ライセル城のほうが、断然有利だと思うよ」
ルードランも言葉を向けるが、宰相は一瞥したきり嗤いを止めない。
何か秘策があるのだろうか?
聖女がいないから、というただそれだけの理由で余裕ある態度とも思えない。
「籠城戦で、どのくらい持つだろうかね?」
「そちらこそ、海から離れたら長くは行動できないのでしょう?」
宰相の言葉にたてつくようにマティマナは訊いたが、そんな悠長な場合ではないような気もしている。宰相はただ嗤うばかり。ライセル城をおとす秘策があろうがなかろうが、ここでの決着が必要だ。
宰相の持つ『海の神聖視』を無力化しなくてはならない。
だが、エヴラールと合流して三倍効果のはずも、海の神聖視には効き目がない。マティマナの撒く叛逆の粉は届かずに霧散して行くばかりだ。
「そうだ、姉上、これを……っ」
リジャンがマティマナへと、きらきら光るものを差しだしてきた。
「まあ、綺麗! これ、どうしたの?」
海竜のものといって渡された鱗と同種の神聖さが感じられ、マティマナは驚いて訊く。
「雅狼が烏賊の化け物の触腕を叩き切ったときに出てきたものなんです」
マティマナへと渡しながらリジャンが告げると、人魚のベリンダが瞠目していた。
「それは……姫さまの鱗! 拉致したときに、剥ぎ取ったのね!」
どうやら、姫は烏賊型の怪異の触手に触腕で拉致されたらしい。
「聖女さま、どうかその鱗も使って細工してください!」
「はい。ですが、これだけでは、なんだか足りない気がするの」
「これでどうだ?」
話を聞いていたエヴラールが、懐からざらざらと何やら取りだしてマティマナの方へと放る。
マティマナの足元に、一山の宝石やら珊瑚のカケラやらが積み上がる。
「……どうなさったのです? こんなに?」
「お前の海洋の武器で怪異を掻っ切る度に、何やら懐に飛び込んできている」
エヴラールはそういえば竜宮船に来る前にも、海上や海中で戦闘をしていた。
死に神の鎌のようなエヴラールの武器には、怪異の持つ宝めいたものを掻き寄せる力があるのかもしれない。
「マティマナも、何か貰っていたね」
ルードランが耳元で囁く。
「そうでした! 蟹さんが、綺麗なものをくださった!」
マティマナは、懐にしまっていた珊瑚の枝がたくさん集まったような不思議なひらひらを取りだした。






