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平将門は新皇を名乗りたい

常陸国では天慶二年(九三九年)に国司・藤原維幾ふじわらのこれちよが過酷な収奪を繰り返していた。現地領主の藤原玄明ふじわらのはるあきは維幾の過酷な収奪に抗議した。維幾は玄明が税金を納めていないと糾弾したが、玄明は不当な税金の要求と反論した。玄明は国府の蔵を破って米を民衆に分け与えた。


維幾は玄明を逮捕しようとしたが、将門は玄明を匿った。将門は玄明に引き渡しを拒否し、逆に逮捕の撤回を要求した。維幾は将門に宣戦布告し、維幾の子の藤原為憲ふじわらのためのりは将門の仇敵の平貞盛と結んで将門を挑発した。


将門は常陸国府の軍を破り、国府を陥落させた。将門が望んで戦ったものではないが、常陸国府を襲撃し、印綬を強奪する形になった。これまでも将門は一族や他の豪族と私闘を繰り返していたが、朝廷への明確な反乱は国府襲撃からである。朝廷への反乱は天慶年間からであるが、それ以前の争いも含めて承平天慶の乱と呼ぶ。


将門は次々と関東諸国の国府を制圧した。将門には八幡大菩薩より、新皇を名乗るように神託があった。さらに菅原道真の霊も新皇を名乗ることを後押しした。道真の三男景行は常陸介になり、常陸国に道真の遺骨を納めている。道真の霊が常陸国に出てくることは不思議ではない。

こうして将門は新皇を名乗り、自ら東国の国司を任命した。民衆のため坂東に独立国を築こうとした。藤原忠平宛の書状では自分は桓武天皇の子孫であり、日本の半分を統治することになったとしても不思議ではないと主張した。


朝廷は将門の反乱に対して直ちに討伐を命じた。源経基は将門が反乱を起こすと釈放され、過去の報告が功績と評価されて従五位下に叙せられた。経基は平将門の乱の鎮圧のために出兵したが、現地に着くまでに激戦は終わり、それほど大きな活躍はしなかった。


承平天慶の乱は朝廷にとって大きな衝撃であった。当たり前のものと思っていた朝廷の支配体制を否定した。朝廷にとっては大きな衝撃である。冤罪で亡くなった菅原道真の怨霊の記憶が残っていた。


朝廷から見れば承平天慶の乱自体が天変地異と同じく、道真の怨霊の祟りになる。承平天慶の乱では平将門という新たな怨霊も生まれた。兄の時平の時に冤罪で左遷された菅原道真が怨霊となり、弟の忠平の時に滅ぼされた平将門も怨霊になった。


将門の首は京に運ばれ、さらし首になった。将門の首は腐らずに夜な夜な不気味な声を上げていた。その後に将門の首は宙に浮かび、坂東に飛んでいったとの伝承がある。その首が落ちた場所が後の東京都千代田区大手町の将門塚である。首が京から飛んでくることはあり得ないとして、将門の胴体が葬られた場所とする説もある。


将門は坂東武士達の信仰を集めた。武士達にとって朝廷に対する反骨精神の象徴になったのだろう。源実朝は「将門合戦絵」を描かせており、平将門を武家政権の祖として肯定的に位置付けている。将門は二一世紀にはビジネスパーソンの信仰も集めている。朝廷に反旗を翻した将門はビジネスパーソンの民間感覚に刺さるのだろう。


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