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源基経は讒言で冤罪を作りたい

平安時代中期になると律令制度が崩壊し、武士が台頭してくる。武士の台頭を示す大きな事件が承平天慶の乱になる。東国では平将門、瀬戸内海では藤原純友が反乱を起こした。承平天慶の乱では讃岐の林田も戦場になった。林田氏の祖先である源経基も反乱鎮圧側で登場する。


平将門は延喜三年(九〇三年)に桓武平氏の平良将たいらのよしまさの子として生まれた。この年は冤罪で左遷された菅原道真が亡くなっている。朝廷を内側から改革しようとした道真は追い出された。将門に始まる坂東武士達は朝廷の外側から政治を変えていく役回りになる。


将門は当初、都で栄達を目指し、摂関家藤原忠平に臣従した。朝廷では藤原忠平が朱雀天皇の下で摂関政治を確立していく。忠平は朱雀天皇の摂政になり、朱雀天皇の元服後に関白になった。摂政退任後に引き続き関白に任命された最初の人物である。

藤原氏の摂政・関白は良房・基経の頃からあったが、太政大臣や左大臣の権能の補強・拡大であった。忠平の頃になって摂政は幼帝の下で奏上なしに決裁し、関白は成人の天皇の下で奏上や詔勅発給に拒否権を行使する役割になっていった。


将門は滝口の武士になったが、腐敗した都の貴族社会に失望していた。父親の死で地元に帰ると、所領を伯父の平国香に押さえられていた。将門は承平五年(九三五年)に国香を討ち取り、所領を回復した。その後も一族の争いは続いたが、将門の連戦連勝ぶりは大きく広まり、名声を高めた。将門は東国の有力者として豪族間の仲裁を行うようになった。将門は源経基と武蔵武芝の争いも仲裁した。清和源氏と桓武平氏の因縁は、ここから始まっている。


源経基は清和源氏の祖である。清和源氏から播磨国揖保郡林田郷を本拠とした林田氏も生まれた。父は清和天皇の子の貞純親王である。皇族の子どもも皇族になると世代を重ねるごとに皇族が増えていく。そうなると全ての皇族の生活を国家財政で賄いきれなくなる。このため、一部の皇族に源という姓を与えて臣籍に降下させた。


経基は承平九年(九三九年)に武蔵国に武蔵介として赴任した。朝廷の官位は藤原北家が独占していたことと、経基の代までしか皇族でいられないため、現地で勢力を伸ばそうと考えた。経基は武蔵国に着任早々、足立郡司の武蔵武芝に接待や賄賂を要求した。これを武芝は毅然と拒否した。


逆恨みした経基は朝廷に讒言して逮捕状を用意し、兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った。これを聞いた平将門は怒った。

「朝廷の権威を背景にした暴虐は許せない」

将門は私兵を率いて武芝の救援に赴いた。将門と経基の間で話し合いが行われ、仲裁の酒宴が開かれた。ところが、経基は京に逃れて、朝廷に平将門が謀反を起こしたと告発した。将門に武力では勝てず、朝廷にチンコロすることは武士の風上にも置けない。『将門記』は「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と酷評した。


将門は朝廷に経基の告発は事実無根であり、冤罪であると主張した。将門の主張が認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。


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