讃留霊王は讃岐を治めたい
王は元気であったが、怪魚の毒気にあてられた兵士達は弱っていた。怪魚の腹から脱出できるくらいの元気はあったが、毒気の後遺症に苦しめられていた。そこへ白峰から雲に乗った童子が現れた。童子は壺を持っており、その中の水を兵士達に飲ませた。水を飲んだ兵士達は元気になった。
王は怪魚退治の褒賞として讃岐の地を与えられ、讃岐に留まった霊王として讃留霊王と呼ばれた。讃留霊王は新しく館をたてる場所を探すために矢を放った。矢が突き刺さった場所に館を建てた。讃留霊王は讃岐の民に養蚕の術を教え、広めた。
讃留霊王は軍船で鬼ヶ島に鬼退治に出かけた。しかし、途中で嵐に遭い、多くの兵が死んでしまった。生き残った兵は船で海を渡り、鬼ヶ城に上陸した。上陸すると、島に生えている木が人間の姿に変わり、襲いかかってきた。讃留霊王は剣を振り回したが、敵は斬っても斬っても倒れなかった。その時、草むらの中から声が聞こえてきた。
「おいらは桃太郎さ」
そこには桃から生まれた男の子がいた。桃太郎と讃留霊王は協力して鬼ヶ城を攻略した。鬼ヶ城の宝物庫には金銀財宝があり、それを持って帰ると人々は喜んだ。
「この宝物を我々のために役立ててください」
王が持ち帰った宝を見て、民達は言った。
この話が吉備では「桃太郎」の物語になった。桃太郎の従者の猿が讃留霊王になる。讃留霊王の候補の一人の武殻王は日本武尊と吉備穴戸武媛の息子である。吉備と関係のある人物である。
日本武尊は讃留霊王の怪魚退治では脇役であるが、讃岐とは無縁ではない。日本武尊は伊吹山の神と対決しに行ったが、神の化身の白い大猪が現れ、大氷雨を降らされる。その毒気によって日本武尊は失神し、病になり、伊勢国の能褒野で亡くなった。これは怪魚退治に行った讃留霊王が怪魚に飲み込まれ、毒気にあてられた話に重なる。
日本武尊が葬られると、白鳥になって飛び去った。飛び去った白鳥が白鶴になった日本武尊が舞い降りた地を讃岐の白鳥神社とする伝承がある。讃留霊王の怪魚退治は日本武尊の勢力扶植と見ることもできる。
讃留霊王は一二五歳まで生き、仲哀天皇八年九月一五日に亡くなった。讃留霊王が亡くなると墓が造られた。墓のそばの地面を踏むとトントンと音がした。墓の下に石室があるためである。ここから「足踏み神事」という祭りが生まれた。「足踏み神事」に参加すると、一年間、病気にならないとされる。国に一大事があると、讃留霊王の御墓が「ごー」と音をたてて地鳴りがするという伝承がある。讃留霊王の子孫は綾氏となり、讃岐国造や阿野郡司になった。
退治された怪魚は仏教が入ると金毘羅と同一視された。金毘羅はインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、仏教を擁護する神になった。これは讃岐国で金毘羅信仰が盛んになった一因である。