源頼朝は守護・地頭を設置したい
頼朝は「義経らを捕らえられなければ、諸国は疲弊し人民は滅亡してしまう」ことを大義名分として朝廷に守護・地頭の設置を認めさせた。これを鎌倉幕府の始まりとする見解が有力である。後白河院が頼朝を冤罪に陥れた出来事は、日本の歴史において大きな転換点となった。
設置の名目は逃走した義経を捕えることである。名目というと表向きの理由のように聞こえるが、各地の不満分子が義経を担いで謀反を起こすことは十分に考えられたため、単なる建前以上の実質的な意味があった。
「土民が謀反の輩と共謀して邪な行動を起こしかねない。このような事態について日頃から準備しておかなければ取り返しのつかないことになる」
このように頼朝は主張した。頼朝の主張内容は荘園領主にとって現実の脅威であり、反対しにくいものであった。
後白河院は源頼朝を追討する宣旨を発し、頼朝を冤罪に陥れた。頼朝に追及されると後白河院は「天魔の所為」という言い訳をした。後白河院は、ただただ無責任である。後白河院は、自分に責任のない天魔の所為と決めつけることで、自らの決定に対する批判を回避しようとした。
これは頼朝にとってはとんでもないことである。天魔は人間の心に潜む邪念や欲望を意味し、人間を惑わし、破滅に導く存在だと考えられていた。後白河院は、頼朝が天魔の力にとらわれていると見なし、彼を討つことが必要だと判断した。しかし、実際には後白河院自身が政治的な野心を持ち、頼朝の力を抑え込もうとしたことが背景にあった。
後白河院は有能説と無能説がある。有能説は後白河院の腹黒さ、老獪さを評価する。頼朝と後白河院の間に政治的駆け引きが成立したとする。
これに対して無能説が有力である。「後白河の行動を細かく検討してみると、長期的視野に基づく戦略的な思考を見出すことは全然できない。判断が常に場当たり的で、ほとんどが裏目に出ている。にもかかわらず生き残れたのは、単に彼が志尊の地位にいたからにすぎない」(呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年、84頁)
「切羽詰まった状況で、後白河は究極の責任放棄、つまり国政の責任をすべて臣下に転嫁する方策に出た」「これを権謀術数とする見方もあるだろうが、もはやそのような余裕があったとは思えない。むしろ後白河の経験主義的な行き当たりばったりの、当面の危機回避策と考えるべきであろう」(美川圭『公卿会議 論戦する宮廷貴族たち』中公新書、2018年、162頁)
但し、後白河院は保身第一で逃げていただけではない。義経は頼朝への謀反に失敗し、そのまま奥州平泉に落ち延びたと描かれることが多いが、すぐに平泉に行った訳ではなく、しばらく畿内に潜伏していた。
義経の謀反は文治元年(一一八五年)であり、平泉に身を寄せたことが確認できるのは文治三年(一一八七年)である。その間、義経が畿内に潜伏できた背景には反頼朝の公家や寺社勢力の援助があった。その背後に後白河法皇がいたことは容易に想像できることであり、頼朝も強く疑っていた。