後白河院は冤罪を天魔の所為と言い訳したい
平家滅亡後に源義経は源頼朝と対立する。源義経は頼朝が朝廷に謀反を企てているとして後白河院に頼朝追討の宣旨を出すことを求めた。
「それは理不尽です。頼朝を討伐することは筋違いでございましょう」
多くの公家は反対したが、後白河院は宣旨を出した。ところが、義経には武士達が集まらなかった。後白河院は義経を九国(九州)地頭、行家を四国地頭に任命した。後白河院には西国への厄介払いの狙いがあっただろう。義経は西国へ向けて船出をしたが、難破してしまう。義経は大和の吉野に潜伏した。
後白河院は源義経が潜伏すると、源頼朝追討の宣旨をあっさりと取り消した。院近臣の高階泰経が頼朝に弁明の書状を送付した。書状の内容は弁解になっていない保身第一のものであった。
「源行家と義経の謀反は天魔の所為です。義経は頼朝追討の院宣を出さなければ宮中に参上して自殺すると脅しました。法皇様は身の危険を避けるために便宜的に院宣を与えただけです。御本心ではありません」
頼朝は後白河院の無責任さに激怒・憤慨して強烈な返事を出した。
「源行家と義経の謀反は天魔の所為との仰せには承服できない。義経らを捕らえられなければ、諸国は疲弊し人民は滅亡してしまうでしょう。日本一の大天狗とは誰のことか」
この「日本一の大天狗」が誰であるかは問題になる。
第一に後白河院とする。これが通説である。頼朝追討の院宣を出しながら、天魔の所為と責任逃れする不当を明らかにした。これまでも後白河院は無責任なことを繰り返しており、平清盛も木曽義仲も翻弄された。
清盛や義仲は怒って後白河院を幽閉した。彼らの怒りには十分な理由があるが、院を幽閉することが暴挙と見られて世の反発を集め、平氏も義仲も没落することになった。頼朝は彼らの轍を踏まず、「日本一の大天狗」と文書で批判することで後白河院の不当性を世にアピールした。
「頼朝の憤りが正当なものであり、後白河の側に理不尽な所行のあることを、御家人たちに示すための演出であった。「日本一の大天狗」は、わかりやすいキャッチ・コピーである」(永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年、90頁)
第二に高階泰経とする。泰経宛に出した文書であることを根拠とする。しかし、形式的には泰経宛であっても後白河院とのやり取りであることは明白である。
第三に行家と義経とする。「頼朝は泰経の「行家・義経の謀叛は天魔の行いだ」との説明に対し、「自分も諸国も莫大な損害を受けたのだから、絶対に天狗そのものなのだ」という反論なので、天狗は行家と義経に宛てるのが自然であろう」(菱沼一憲『源頼朝 鎌倉幕府草創への道』戒光祥出版、2017年、151頁)
「日本一の大天狗」が後白河院であることは当たり前のように感じていた。一方で行家と義経を大天狗とする説も納得感がある。表向きは行家と義経を批判しつつも、後白河院も批判するダブルミーニングということはないだろうか。