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源頼朝は林田荘を安堵したい

源頼朝は元暦元年(一一八四年)四月二四日の下文案で播磨国の林田荘(林田庄)を賀茂別雷神社の社領として安堵した。頼朝は武士団をまとめ上げ、自らの権力基盤を確立することに注力していた。林田荘の安堵は、頼朝が自らの勢力拡大のために土地を確保することができたことを意味した。

また、林田荘は畿内近国に位置し、京の物資調達拠点としても重要であった。さらに、頼朝は神仏に対する信仰心も深く持っていた。頼朝は林田荘を賀茂別雷神社の社領として安堵することで、自身が信仰する神社を支援することができたという思いがあった。


後白河院は元暦二年(一一八五年)四月二九日に賀茂別雷神社に林田荘を安堵した。頼朝と後白河院が荘園の安堵者として競争関係になっている。


しかし、林田荘は守護人や地頭を称する武士達の横領や狼藉を受けた。守護・地頭は公式には文治元年(一一八五年)一〇月、源義経・源行家の追討を目的に設置されたが、それ以前から自称も含めて存在していた。この後に頼朝は文治二年(一一八六年)九月五日にも賀茂別雷神社に林田荘を重ねて安堵した。


源平の合戦では源氏に手段を選ばない卑怯な振る舞いが描かれることが多い。その代表が源義経である。義経の戦術は奇襲や船の水夫の狙うとという敵には卑怯に映るものであった。むしろ敗れた平氏の方が正々堂々と戦っている。伝統的な歴史観では平氏は公家化して弱体化したとされる。しかし、武士とは貴族の中で軍事を専門職とした家とする職能武士論が有力である。平氏は武士らしさを失ったから敗れたというよりも、平安武士らしさを貫いたから義経のような手段を選ばない存在に敗れたとなる。

「平家が非戦闘員を殺すような邪道な戦い方をしなかったのも、それが武士の心得だったからだろう。武士であることの誇りを最後まで失わなかったのは平家の方だったかもしれない」(中丸満『源平興亡三百年』ソフトバンク新書、2011年、229頁)

この清冽さは源氏の側で戦った秩父平氏の畠山重忠にも重なる。重忠は謀反の冤罪で滅ぼされてしまう。畠山重忠の乱で重忠は北条義時の大軍に奮戦して散った。


一方で義経は短期決戦で戦争を早く終わらせた。戦争を早く終わらせることは民衆の負担を減らすことになる。当時は飢饉と戦乱のダブルパンチであった。源頼朝には長期戦になってもいいから安徳天皇と三種の神器を確保して、戦後の朝廷交渉を有利に進めたいという思惑があった。

しかし、義経は平家を追い詰め、壇ノ浦で安徳天皇と三種の神器を入水させてしまった。八咫鏡と八尺瓊勾玉は回収できたが、草薙剣は発見できなかった。これは頼朝にとっては義経の失態である。しかし、義経にとっては、それよりも戦を早く終わらせたことが民の生活の助けになると考えた。これは無断任官以上の対立軸であった。義経が民衆のヒーローになることには理由がある。


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