一ノ谷の戦いはだまし討ち
林田郷など讃岐国の武士達には反平家感情が強かった。讃岐国に地盤を築いていた藤原成親が鹿ケ谷の陰謀という冤罪で流罪になり、流刑地で殺害されたためである。成親は久安二年(一一四六年)から久寿二年(一一五五年)まで讃岐守を務めた。成親の父の家成も大治四年(一一二九年)に讃岐守になった。家成の祖父の顕季も承保二年(一〇七五年)に讃岐守になった。
讃岐国や阿波国の武士達は平家を裏切り、源氏に降伏する手土産として兵船十余艘で平家を攻撃してきた。これに平教経は激怒した。
「憎い奴らだ。昨日まで平家の馬草を刈っていたような連中が恩を忘れて寝返るとは許し難い、皆殺しにしろ」
教経は反撃して打ち破った。林田郷などの武士達は平家への抵抗を続け、一ノ谷の合戦後は頼朝から讃岐国御家人と認定された。
平家は寿永三年(一一八四年)二月の一ノ谷の戦いで大敗した。後白河院が平家に停戦と和睦交渉を提示している中で源義経らが急襲したもので、平家にとって、だまし討ちであった。だまし討ちに遭ったことを知った平家の兵達は、怒りを抑えきれなかった。
「後白河院が停戦を指示した中で源氏が奇襲したことは許されない。院の和睦交渉は、平家を油断させるための策略だったのか」
平家の総帥の平宗盛は手紙で後白河院を強く非難した。後に源頼朝は頼朝追討を命じて天魔の所業と言い訳した後白河院を「日本一の大天狗とは誰のことか」と非難する。この大天狗が後白河院を指すか議論があるが、既に宗盛からも腹黒い人物と認定されていた。
一ノ谷から海に逃れた平家は讃岐国屋島と長門国彦島に拠点を置いた。屋島と彦島を拠点とすることで瀬戸内海の制海権を確保した。
ところが、源義経が屋島を急襲する。義経は白鳥の神に祈ったところ空から白羽が舞い降りてきて義経の手中に収まった。これに奮起して奇襲をかけた。海上からの攻撃に強い屋島であったが、義経は阿波国勝浦に上陸して、陸から屋島を攻撃した。平氏は奇襲に慌てて船で沖合に避難し、屋島の占領を許してしまった。
平氏の軍船は屋島を捨てて讃岐国志度に立て籠もった。義経は追撃し、平家の家人の田口成直は降伏した。平氏は四国の拠点を失い、彦島に落ち延びた。林田郷を含む讃岐国の武士達は源氏に従った。
元暦元年(一一八四年)に伊賀国や伊勢国の平氏家人が反乱を起こした。遠綱は佐々木秀義の指揮下の鎮圧軍として出陣した。近江国大原荘で合戦になり、平家残党の大将の平田家継を討ち取り勝利したが、佐々木秀義は戦死した。佐々木家は定綱が継承した。
「驕る平家」と後世の評判の悪い平家であるが、大きく評価できる点は陰惨な身内同士の争いがなかったことである。これは三代で途絶えた源氏とは対照的である。




